義姉の企み
すぐに戻ってくると言ったエドワードだったが、思いの外レーゼリア公爵との話が長引いているらしい。先にイザベラ達の元へやって来たのはラッフォード伯爵夫妻だった。
「おや、アイラもマイケルも随分とグレンシャー伯爵令嬢と仲良くなったんだな。だが、そろそろ行かないと行けない時間だぞ」
そんな父親の言葉に、アイラとマイケルは少し残念そうにしつつも、イザベラの方へ向き直った。
「そんな時間ですのね父上、わかりましたわ。グレンシャー伯爵令嬢、お話出来てとても楽しかったですわ。また是非お会いしましょうね」
「グレンシャー伯爵令嬢、素敵な時間をありがとうございます。いつか我が家にも来てくださりますか?」
「こちらこそ素晴らしい時間をいただきありがとうございます。またお会いすることを楽しみにしておりますわ」
そう言葉を交わした後、2人は両親と共に庭の奥へと向かう。一方まだエドワードが戻ってきていないイザベラは、急に一人ぼっちになってしまいどうしたものか、と思案顔になった。
まだ社交界デビューしていないイザベラにとって、ここにいる人たちはほとんどが知らない人だ。その上、このレーゼリア公爵邸の庭はとても広く、うっかり一人で歩くと迷子になりかねない。ここは大人しくエドワードが帰るのを待つべき。そう判断したイザベラは、周囲の様子をそれとなく伺いつつ彼を待つ。ところが、エドワードがやってくる前に、何度か聞いたことのある声で彼女の名が呼ばれ、イザベラは慌てて声のする方へ顔を向けた。
「あら! イザベラじゃない?」
「お姉様! お久しぶりにございます……お元気そうでなにより……」
ゆっくりと近づき、改めて彼女の名を読んだのはイザベラと同じく桃色ーーとはいってもこちらは艷やかな濃い桃色のドレスを纏った女性。グレンシャー伯爵家の長女リリーだ。昼間の園遊会とあって、首元はしっかりと詰められているが、それでもニコリと微笑むと、相手を魅了するような色気を感じさせるのは流石と言えよう。
「あら〜仰々しいのね。母親は違えど姉妹なのだからもっっと気安くて構わないのよ。それはそうと……どうしてあなたがここに? あなたの社交界デビューは婚約発表の時と聞いたけど?」
「その通りなのですが……恐れ多くもレーゼリア公爵閣下にお目通りする機会をいただき、特別にご招待頂いたのです」
「あら……そう……。そう言えばマイルウェル家とレーゼリア家は親密な関係だものね。まあきちんと招待されているなら良いわ」
そう言って一旦言葉を切ったリリー。それから、イザベラの姿を改めて確かめるように、上から下まで視線を巡らせた。
「ところでイザベラ? とても良いドレスを着ているじゃない? 少しあなたの歳にしては可愛らしい気もするけど……にしたって、生地もデザインも一級品ね。婚約者様の見立てかしら?」
「いえ……マイルウェル侯爵夫人に見立てていただきました」
「あら? 随分とあちらのご家族には可愛がられているようね。それとも婚約者に構ってもらえないから可哀想に思ってのことかしら? 社交界に出入りするならドレスは必要だものね」
かなり良いものだ、と一目でわかるドレスを身に纏うイザベラの姿に、心の奥の嫉妬の炎を燃え上がらせていたリリー。だが、用意したのが侯爵夫人だ、という話を聞いてニヤリと笑顔を歪めた。
「いえ、エドワード様にも大変良くして頂いております。ただ今回は個夫人が見立てて下さったというだけで……」
「いえ……いえ分かるのよ。フフフ、まさかこれから婚約しようという人の評判を下げるわけにも行かないものね。でも大丈夫よ、すでに噂は広がっているのだから」
「は、はい?」
噂とはなにか? イザベラは混乱の表情を浮かべた。
「あら? ご存知なくて? まあまだマイルウェルのお屋敷から出ることもほとんどないでしょうしね。社交界の噂に疎くても仕方ないかしら。良いわ、私が教えてあげる。あなたの婚約者ーーまだ予定だけど、彼、あなたの悪口をあちこちで広めているわよ」
「エ゙、エドワード様がですか?」
「そんな顔をしても仕方ないわよ。婚約することになったが相手は私生児。洗練されてもないし、恋愛の機微にも疎い。なんとか話を流せないものか、とね」
「彼がそんな噂を広めるとは思えないのですが……」
リリーの言葉に更にイザベラは困惑を深める。リリーの言葉は基本的に真実だし、エドワードには面と向かって悪口を言われたこともある。
とはいえ、それは会って間もない頃の話だし、最近の彼は彼女が申し訳なく感じる程、イザベラのことを大切にしてくれる。そしてそれ以上に、上流の世界での立ち回りに長けた彼が、わざわざ自分自身の評価も落としかねないような陰口を広めて回る、とはとても思えない。
しかしそんなイザベラの精一杯の反論にもリリーは耳を貸さない。
「彼は建前を使うのが得意でしょう? きっとあなたの前では演技しているのよ。でもきっと社交界に出入りするようになれば嫌でも分かる。たくさんの人があなたの悪口を聞いているはずだもの。エドワードの味方をする人も大勢いると思うわ。だから提案なんだけど……」
「提案……ですか?」
「えぇ、とっても素敵な提案。エドワード様との婚約をやめてしまわない? そしたらその代わりに予定通り……」
「私の婚約者におかしなことを吹き込むのはやめていただきたい、グレンシャー伯爵令嬢」
リリーがイザベラににじり寄り、どんどんと表情を歪めつつ、話の核心に入ろうとする。その時、鋭い声が二人の間に割って入り、二人はその声の方を向いた。
「ヴァーレンシア卿!」
「エドワード様!」
リリーは驚愕の、イザベラは安堵の表情をエドワードに向ける。エドワードはまず険しい顔でリリーを見た後、やや足早にイザベラの隣まで来て、微笑みを彼女に投げかける。
彼女が固まっていた表情がしっかりとほぐれたことを確認したエドワードは、イザベラの腰に手を回して2人の距離をもう一歩詰めつつ、鋭い表情でリリーと対峙した。
「まずお伝えしておきたいことは、例え周りがなんと言おうと、私は彼女との婚約をやめるつもりは全く無いので覚えて置いていただきたい。それと……」
強い口調のエドワードに気圧されるイザベラがエドワードはというとそこでさらに視線を冷たくした。
「リリー嬢? あなたはイザベラ嬢の噂をあちこちで流していますね」
「なにを仰るのですか? ヴァーレンシア卿。言いがかりも良いところですわ」
「言いがかりも何も証人は山程いる。この会場でもイザベラ嬢の悪い噂を聞かされた、という人を連れてくることは出来ますよ」
「う、噂じゃないわ! 真実よ。まあはしたない真似をしたことは謝りましょう。今日のところは失礼致します」
エドワードがリリーを糾弾しつつ、会場に視線を巡らせる。その視線が的確にリリーがイザベラについて話した相手を向いているのを見て、自分の不利を知ったリリーはやや強引に話を切る。
そのまま早足に二人の前を去っていくリリーを見送って、イザベラは大きく息を吐いた。
「すまない! イザベラ嬢。閣下と話し込んでいたら遅くなってしまった」
「いえ、こちらこそ助けてくださりありがとうございます」
「ところで……正直なところ私もさっきこちらへ来たところで、あなた達の会話を全て聞けた訳ではないのだが、リリー嬢はあなたに何と? 私との婚約をなかったことにしてほしい、という話以外に」
「それは……」
エドワードの問いにイザベラは、一瞬戸惑って言葉に詰まる。
「いや……話し辛いことなら構わないのだが」
「いえ! そういうわけでなく……その……エドワード様が私の悪口を社交界に広めて回っていると……。もちろん! 信じておりませんよ。エドワード様は聡明ですもの。そのような卑劣なことをなさるとは思っておりません。私に至らぬ点があれば直接おっしゃいますよね」
「あの時は本当に済まなかった!」
初対面の日のことを思い出してのイザベラの言葉に、エドワードは悲痛な顔で頭を下げる。本当はこの場で膝を付きたい気持ちだったエドワードだったが、流石にそれはエドワードはともかく、イザベラまで好機の目に晒すことになる、と思いとどまった。だが、彼女と始めて会った日の行いを、エドワードは改めて悔いていた。
「そんな……あの頃の私は貴族令嬢としては本当にまだまだでしたし……あれで奮起出来たので良かったですわ」
「イザベラ嬢は優しすぎる。もっと怒ってもおかしくないのに」
「フフフ、あの日以降はずっと優しいのですもの。怒りも飛んでしまいますわ。ですから顔を上げてください。目立ってしまいますわよ」
その言葉にエドワードはゆっくりと顔をあげる。その目を見てイザベラはニコリと微笑んだ。
「あの日のあなたは酷かったかもしれませんが、あなたに何度も助けて頂いてるのも事実ですもの。さぁ、皆様のところへ戻りましょう」
「その……ありがとうイザベラ嬢」
イザベラの言葉に泣き笑いのような顔をしたエドワードは彼女の手を取り、そして人々の輪のほうへイザベラと共に進んでいった。
どうやらリリーは、イザベラの悪い噂を社交界に撒いているらしく、それはこの園遊会でも同じらしい。しかしマイルウェル家とレーゼリア家が親しいことがよく知られているからか、もしくはグレンシャー家の影響力が落ちているからか、園遊会の間中、面と向かってそのような話を聞くことはもちろん、噂としてそういった話を聞くことすらなかった。
むしろ、会う人は一様に桃色のドレスを纏ったイザベラの可憐な魅力を褒め称え、上流の振る舞いを学び始めて数ヶ月だ、というイザベラの学習の速さに驚愕した。社交界はお世辞が飛び交う場だ、ということは理解していても、やはり褒められるのは気恥ずかしくも嬉しい。しっかりと彼女をリードしてくれるエドワードが傍にいる安心感もあり、予想していたより遥かにイザベラはこの園遊会を楽しむことが出来た。
そして日差しが橙色に変わり、西の方へ傾き始める頃。無事に園遊会を終えたイザベラは、エドワードと共に侯爵家の馬車に揺られていた。
「疲れただろう? 眠ると……体を痛めるか。だが楽にしていて良いんだぞ」
「ありがとうございます、エドワード様。会場では疲れなど感じなかったのですが、やはり緊張していたのですね」
「始めての社交界だ、緊張して当然だろう。だが始めてとは思えない程、上手く振る舞えていたぞ。公爵閣下も大層褒めていらっしゃった」
「まあ……恐縮ですわ」
そんな話をしつつ、エドワードの言葉に甘え、イザベラは少しだけ姿勢を崩して、柔らかい座席に体を預ける。一流の職人が作った侯爵家の馬車は揺れも少なく、むしろ一定のリズムで感じる揺れが心地よいくらいだ。思わず眠気に襲われているとエドワードの視線が自分を凝視していることに気付いた。
「あの……エドワード様? ドレスに何かついていますでしょうか?」
園遊会の場では当然お茶や菓子も提供される。まさかドレスにシミでも作ってもしまったのでは? とイザベラは途端に不安になった。
「あ、あぁすまないイザベラ嬢。そういう訳ではないんだ。淑女をじろじろみるなど紳士のすることではないな」
「いえ、ドレスが汚れている、とかではなければよいのですが……どうかされたのですか」
そう言って謝るエドワードだが、なおも心にここにあらず、といった様子。さらに違和感を覚えたイザベラ。そんな彼女の問いにエドワードは観念したように話を続けた。
「いや……そのな……今度イザベラ嬢が社交に出る時は私がドレスを見立てられれば、と思ってな。今日のその桃色のドレスは本当にあなたに似合っている。園遊会でもみな絶賛していただろう? 始めて社交界に出たあなたが褒められることは、とても喜ばしいことなのだが、それを選んだのが母上だ、ということがその……少しだけ癪で」
なお不思議そうな顔でエドワードの言葉を聞くイザベラに、エドワードは焦ったように言葉を付け加えた。
「いや、わかっている。わかっているんだ、私はそんな思いを抱く立場にない、ということは。このドレスを用意してくださった母上にもとても感謝している」
園遊会でイザベラをエスコートしている時とは打って変わって、やや情けなさも感じる程焦りを見せるエドワードに、イザベラは思わず笑いをこらえきれなくなる。笑い声を漏らしつつ、エドワードに向き直った。
「フフフ、そういうことでしたの。母上に嫉妬だなんてエドワード様、情熱的ですのね」
「いやイザベラ嬢……そういう訳では。いやそうなのだが……」
「いえ……その、さっき助けてくださった時の格好いい姿とあまりにもギャップがあるのでつい……」
そう言いつつまだ笑いを噛み殺しているイザベラだったが、続くエドワードの口調が思いの他真剣で、ドキリとしたように笑い声を止めた。
「イザベラ嬢、あなたにお願いがある。婚約発表の夜会では、私があなたの美しさをとびきり引き立てるドレスを仕立てよう。だから……」
「だから?」
「それを着て、私の隣に立って欲しい。約束してくれるか?」
そう問う真剣なエドワードの眼差しに鼓動を早めつつ、答えは一つしかないわ、と彼女もまた、エドワードを見つめて答えを返しす。
「えぇ、もちろん。あなたと婚約するのですもの。お約束しますわ」
その答えにエドワードはホッとしたような笑みをこぼすのだった。