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公爵の訪問

 イザベラが王城に招かれて数日後。歴史を教えてくれている講師の都合が突然悪くなったとのことで、午後の予定がなくなってしまったイザベラ。彼女は自室でその講師が教科書として使用している『ハンヴェルトーン王国史』ーーこの国の歴史を書いたものとしては最も一般的なものだーーをゆっくりと読み進めていた。


 侯爵夫人には


「王宮に招かれたりして疲れているでしょう? こんな日ぐらい勉強をお休みしても良いのよ」


 と言われたが、段々と迫ってきている婚約発表の夜会に向け、あまり時間を無駄にはしたくないし、何より何もせずいる、というのも落ち着かない。それでも彼女は、本来今日の授業の内容となるはずだった部分を読みつつ、普段よりはゆったりとした時間を過ごしていた。


 午後の日差しは、外の明かりを取り入れやすいように大きく取られた窓から柔らかく差し込む。侯爵を筆頭に侯爵夫人、エドワードが揃って外出している今日は、屋敷も心なし静かなだ。文字を追いつつ思わずあくびを噛み締めたイザベラはそれでは行けない、と慌てて背を伸ばし姿勢を正した。


 と、そこへ


「お嬢様! イザベラお嬢様!」


 と扉を叩く声がしてイザベラは椅子の上で跳ね上がる。先程の気を抜いた場面を見られたか、っと一瞬ビクッとしたイザベラ。だがよく考えれば声がしているのは扉の外であり、自分の姿が見えるはずもない。そもそもよく教育されているはずの侯爵家の使用人がああも慌てるのも珍しいと思いつつ、アンナに目配せすると、彼女も同じことを考えたらしく、


「どうしたのでしょう……騒がしいことですね」


 と少し訝しげに扉へと向かった。目を潜めつつもその声で相手が誰かは見当がついていたらしい


「どうされましたか?」


 そう言いつつ扉を開けるアンナ。するとそこにいたのは普段は常に落ち着き払っている侯爵家の執事だった。


「レーゼリア公爵がいらっしゃいました。本日は主人夫妻、お坊ちゃま共に外出中ということで一旦応接室にお通しして家令が対応しておりますが……そのイザベラ嬢にぜひお会いしたいと……。いかがなさいますか?」


 その言葉にアンネとイザベラは一瞬顔を見合わせる。先日王太子妃殿下と二人で話す栄誉をいただいた彼女であるが、それ自体異例中の異例であり、基本的に彼女はまだ社交の場に出ることはない。その上、今回の場合、イザベラ側がもてなす側に立たないといけず、招かれるよりハードルは高いーー執事が慌てるのも無理のないことである、とは言え


「お断りするわけにも行かないのよね」

「たとえ公爵閣下とは言え知らせのない訪問はどうか、とは思いますがそうも言ってられませんね」


 貴族同士の訪問はそれなりに準備のいるもの。基本的に相手の屋敷を尋ねる時も、招待する時もそれなりの余裕を設けて予定を決めるものだし、どうしても急に訪問する、となっても先触れがあるのが通常だ。その常識を見事に無視した公爵の行動に目をひそめるアンナだが、とは言え客人。それも公爵の希望を無視するわけにも行かない。


「わかりました。すぐに向かいましょう。急いで準備しますので閣下にはもう少しお待ちいただくようにお伝えして、それまではハンスさんにお願いしましょう。侯爵や侯爵夫人にはこの話は伝わっっていますか?」

「レーゼリア公爵閣下がいらした時点で旦那様と奥様の元へは知らせを送っております。ただお二人ともご予定がおありなのですぐの帰宅は難しいかと……」

「分かったわ。ありがとう。ではアンナ準備しましょう。できるだけ急いで着替えられて、公爵の前に出ても問題ないドレスはあるかしら?」

「はい、お嬢様。すぐに準備いたしますわ」


 執事を安心させるように、微笑んでみせたイザベラはアンナとともにやや早足で自室のドレッシングルームに向かった。






 可能な限り急いで、くつろいだ室内着から公爵の前に出ても恥ずかしくない薄緑のアフタヌーンドレスに着替えて、髪も整えたイザベラ。彼女は逸る気持ちを抑えてゆっくりと公爵家の廊下を歩いた。どんなときでも悠然と、常に余裕を見せて行動するーー礼儀の教師から教わった高位貴族としての心得の一つである。


 公爵が案内された応接室の前で、ゆっくりと一つ呼吸したイザベラは、軽く目線を斜め後ろのアンナに向ける。その短い合図で心得たように扉を叩いた。


 彼女のノックに応じて扉が開けられると、奥に設えられた皮のソファにはゆったりと足を組む初老の男性。一方こちら側のソファでは公爵家の家令が高位の貴族に臆することなく、かっちりとした、しかし穏やかな笑顔で話をしている。そんな家令は近寄ったアンナの姿を認めて、なにやら公爵に告げるとスッと立ち上がった。


 そのまま音もなくイザベラの後ろへと下がると、否応なく公爵の目線はイザベラに注がれる。彼女は緊張で鼓動が早くなるのを感じつつ、ことさら普段よりゆっくりした動きを心がけてつつ口を開いた。


「おまたせして申し訳ございません。お初にお目にかかり光栄にございます。グレンシャー伯爵が娘イザベラにございます。以後お見知り置きくださいませ」


 そう言って彼女はゆっくりと膝を折り、首を垂れる。イザベラの肩書きは伯爵令嬢であるため、目上の貴族に対する礼だ。


 姿勢を低くした状態で動きを止めたイザベラの姿に「ほぉーっ」と息をはいたレーゼリア公爵は次いでにこやかに「楽になさい」と彼女に声をかける。イザベラがこれまたゆっくりと姿勢を元に戻したところで、公爵も落ち着いた声音で彼女に名乗った。


「レーゼリア公爵、バードンだ。話には聞いていたが可愛らしいお嬢さんだ。どうぞよろしく」


 そう言って、イザベラの手をとると、手袋に包まれた甲にほんの軽く口付ける。


 その動きは洗練されていてかつ落ち着いており、年長者ならではの円熟味を感じさせた。

 お互い挨拶を終え、それぞれがソファに落ち着いたところで、二人の前にはほのかに柑橘の香るお茶が出される。

 イザベラが着替えるのに考えるに、おそらく公爵がお茶を一杯飲み終えるくらいの時間はかかるだろう、と公爵の分も新たなお茶をお願いしていたイザベラ。その考えはあたっていたらしく、すでに空になっていたカップは、使用人の手によってすっと新しいものに取り替えられた。


 イザベラがその香りを楽しむようにお茶に口をつけると、公爵もまたカップを持ち上げ、一口お茶を飲んで、顔を緩ませた。


「おや、先程とは違うお茶のようですね」

「はい、先程はしっかりとした味のお茶でしたので、今度は柑橘の香る優しいものを用意致しました」


 その回答に更に笑みを深めた公爵はもう一口お茶を飲む。そしてそれからさあ本題というように彼女に意味ありげな視線を送った。


「さて、それではなかなか頭の回転の速いイザベラ嬢に問題を出しましょう。あなたはまだ社交界においてはその存在を隠されている。ではなぜ私はあなたのことを知っていて、どうして今日突然ここへ来た、と思いますか?」


 微笑みつつも、有無を言わせぬ迫力もある。マイルウェル侯爵や夫人も時折する表情だが、彼ら以上に人生経験を積んだレーゼリア公爵がすると、それは一層強い力を持つ。


 それに負けないよう、なんとか笑顔を意識しつつ、イザベラは頭を高速で回転させた。


「恐れ多くも王太子妃殿下……のご紹介にあられますでしょうか。いらっしゃった理由は……王家とも近いマイルウェル家と婚約が噂される私が、王家にとって不都合な点がないか確認しにいらっしゃった、と考えます」


 レーゼリア公爵家はベルーザ妃の妹の嫁ぎ先だ。現王妃をはじめ外国出身の妃が多い、現在のハンヴェルトーン王国においては最も王家に近いと言われている。また古参でありながら強い経済力を持ち続けている、という点でも王国の貴族の中でも最も権威ある貴族、と言える。


 そんな公爵家の長が突然自分との面会を求める理由、といえば先日の王太子殿下夫妻との面会ではないか、とイザベラは答える。


 厳しいことで知られる教師が回答の正否を下すのを待つような面持ちでイザベラが公爵の方を見ると、彼はニコリと笑った。


「ベルーザ妃殿下のおっしゃるとおり、なかなか見込みのある令嬢のようだ。正解ですよイザベラ嬢。まあ……もっとも私がここへ来た理由はそこまでたいそうなものではありません。マイルウェル家の坊やが突然婚約を結ぶことになった。その上その令嬢は、つい最近まで下町暮らしだった、と聞いたから……ただの好奇心と思ってもらって良い」

「お褒めいただき光栄にございます。あの……ところで……坊やというのは……やはり」

「もちろんエドワードのことだよ。レーゼリア家とマイルウェル家は昔から親交があってね……エドワードも普段は澄ましているが、私からすれば坊や以外の何者でもない」


 そう言って笑う、公爵にイザベラがどんな顔をしようか戸惑っていると、突然硬質なノックな音が部屋に響いた。


「レーゼリア公爵閣下、イザベラお嬢様。ご令息が帰宅されましたが、お通ししてもよろしいでしょうか」

「おや、坊やが。思ったより早かったねぇ……もちろんかまわんよ」

「えぇ、通して頂戴」


 予定外の時間のエドワードの帰宅に公爵は少し残念そうに、イザベラは心底ホッとしたように言う。その言葉を受けて一度従僕が廊下に戻ると、すぐにエドワードが入ってくる。いつもよりはほんの少し慌てた様子でソファを立ったイザベラの横に並ぶと、ほんの少し視線が交差する。その瞬間、イザベラはやっと一人じゃないんだ、と心の底から安堵の気持ちが湧き上がるのを感じた。


「本日は我が家にお越しいただき大変感謝いたします。あいにく本日両親は不在、私も先程まで外出しておりまして申し訳ございません」


 そう言って頭を下げるエドワード、としかし元の姿勢に戻ったエドワードは少し剣呑な目を公爵にぶつけた。


「ですが……恐れながら申し上げますと、本来今日ご訪問の予定はなかったはずでは? レーゼリア公爵。このような場合『先触れ』があるのが一般的かと思いますが。閣下とは言えこのような振る舞いはいかがかと」


 公爵に対して堂々と非難するような声音にイザベラはギョッとする。が公爵は気分を害した様子もなく、飄々と笑った。


「おや……あの小さかった坊やが随分と言うようになったね。たしかに少々常識外れな訪問かもしれないが、この世界で生きるには、多少相手の意表をつく必要もあるのだよ」

「それは認めますが、だからといってまだ社交経験のほとんどないイザベラ嬢を一人で呼び出すことはないでしょう。彼女がどれだけの緊張を強いられたか……。あと坊やはやめてください」

「フッフッフ、このぐらいの緊張感は乗り越えてもらわないと高位貴族としてはやっていけない、それはあなたもこの2ヶ月で理解しているでしょう?」


 突然自分に話が振られたことに驚いたイザベラだが、すぐに落ち着きを取り戻し、


「はい、心得ております」


 と首肯する。


 その答えに満足気に頷いた公爵は、眼の前に並ぶ2人を見回し、それからおもむろに数回手を叩いた。


「ハハハ、感心感心。安心しなさいイザベラ嬢。試すようなことをして悪かったが、あなたの振る舞いは充分この世界で通用するものだ。ついでに坊やもどうやったのかは知らないが、私が来たことを聞きつけてこちらへ戻り、あと私の振る舞いを糾弾した点も含めて合格点をやろう。これからもちゃんと彼女を守るのだよ」

「ですから坊やはやめてください」


 まるで試験官のように言うレーゼリア公爵に、エドワードが心底疲れたように言う。一方レーゼリア公爵は漂わせていた緊張感を少し和らげ、二人に微笑んだ。


「さて、試すようなことをしたお詫びと言ってはなんだが、2人にこれをあげようと思う」


 そう言った公爵はそれまで微動だもせずに後ろに控えていた自身の従僕に軽く視線をやる。その一別だけで従僕は心得たように、一枚の封書を恭しく差し出した。


「その……これを私達に……ですか?」

「そうだ、イザベラ嬢。今度我が家で親しい親類等を招いた小さな園遊会を開くことになっている。そろそろカトレアが見頃だしの。小さいとは言えそれなりの規模だが、あくまでも私的な身内の会。本来社交の場には出れない子も数人出席する予定になっている。イザベラ嬢の練習にはもってこいだと思わんかね、エドワード」


 そう問いかけられたエドワードは封書を手に取り、そして美しい笑みを作り答える。


「ご高配に厚く感謝申し上げます。父上に一度相談させていただいても?」

「あぁもちろんだ」


 その言葉にエドワードとイザベラは揃って深く礼をするのだった。


 夕食時には両親とも帰宅する予定、ということでせっかくだから夕食を共に、と誘ったエドワードだったが、


「流石に連絡なしでやってきて夕食まではいただけないよ。それに夫人に見つかると、小言が1つ2つでは済まなさそうだからね」


 そう言ってレーゼリア公爵は、少し2人と話した後に屋敷をあとにした。


 公爵を2人で見送り、少し休もう、とリビングにもどってきたところで、イザベラは突然体中から力が抜けるのを感じた。


「おいっ!どうしたイザベラ嬢。誰か医者を」


 突然絨毯にしゃがみこんだイザベラ嬢にエドワードは慌てたように叫び、彼女のそばに膝をつく。その言葉にイザベラもまた声を上げた。


「だ、大丈夫です! ちょっと腰が抜けただけですわ」

「腰が……抜けた? ……あぁそういうことか。これまでずっと気を張っていたからな」


 イザベラの言葉に少し安心したように表情を和らげたエドワードは彼女の腰を支えて、ソファに座らせる。そばに寄ってきた侍女に「何か気を落ち着かせる飲み物、ハーブのお茶か何かを」と指示するエドワードを見ながら、イザベラはゆっくりと深呼吸をした。


「すいません、エドワード様。公爵閣下がお帰りになった、と実感した途端、体中の力がはいらなくなってしまって」

「いや、気持ちはわかる。レーゼリア公爵は飄々としているように見えて、場の空気を支配する威圧感の持ち主だからな。よく1人で頑張ってくれた」


 そう微笑んだエドワードはポンポンッと軽くイザベラの頭を撫でる。その仕草の甘さに一瞬を我を失ったイザベラは、しかしすぐに状況を把握して叫んだ。


「もうっ! 私子供ではありませんわ」

「あぁ、すまない……思わず」


 そう言ってエドワードは素直に手を引っ込める。その手元を見つめつつ、イザベラは気になっていたことを訪ねた。


「ところでエドワード様?」

「ん? どうした」

「先程公爵閣下がおっしゃってましたけど、エドワード様は出先から戻ってきて下さったのですか?」


 彼が戻ってきてくれて、イザベラにとってはとても心強かったが、そのことでエドワードに何か不都合があったのではないか。そう心配そうにするイザベラを安心させるように、エドワードはことさらなんでもないように微笑んだ。


「我が家の使用人たちは皆優秀だから。父上、母上の予定は早々切り上げられない、と知っていて、私にも公爵閣下の来訪を知らせてくれたんだ。私の訪問相手は歳も格も同じぐらいでね。『婚約者のピンチだ』と言ったら心よく送り出してくれたよ」

「そうでしたら良かったのですが……」

「むしろ、父上、母上のみ動きが取りづらく、私は予定を変えることが出来る日を狙われた気もするな。閣下ならやりかねない」

「やりかねないのですか……」

「ああ……昔からそういう人だったよ……」


 他家の予定を細かく把握している、と当たり前のように言われ、顔をひきつらせるイザベラにエドワードも苦笑する。微妙な空気を払拭するようにエドワードが明るい声を出した


「だが、とにかくイザベラ嬢には高評価を下さったようだ。閣下は敵にすると厄介だが、味方にすればこの上なく頼りになる。事実、園遊会の招待状もいただけたし……。どの道婚約披露の前に一度どこかのパーティーで場ならししたい、とは父上、母上とも話していたし、ちょうど良いだろう」


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