知らない技術と考え方
次の日は仕事が休みだったため、アポロ君を連れて絵を描きに出た。
二人分のスケッチブックと鉛筆を持って目的地へと向かう。
家から少し離れた場所にある花畑だ。
ここ最近、暇な時はいつもそこに行って絵を描いている。
「アポロ君は絵とか描かないの?」
「うん」
「そうなんだ。じゃあ休みの日は何してるの?」
「勉強」
「何それ」
「本をたくさん読んだり、昔のことを教えてもらったりするの」
「楽しそうだね」
「そんなことないよ」
「そうなの?」
「じっとしてるのも嫌だし、そもそも別に好きでやってるわけじゃないから」
どうして好きでもないことを休みの日にやっているのか、疑問に思ったが訊かなかった。
「お母さんは将来後悔しないために今頑張りなさいなんていうけどさ。僕からしたら余計なお世話だよ。将来のことばかり考えてたら、死ぬまで好きなことができないもん」
「なんか忙しそうだね」
空に線を向けて曖昧に頷く。
アポロ君の言っていることを半分しか理解できなかった。
花畑に着いた俺たちは、大きな石の上に隣り合わせで座った。
小さな昆虫が草花の間を飛び回っている。
この落ち着いた空間で絵を描くことが好きだった。
明け方まで降っていた雨の水滴が植物の葉の上で輝いている。
夜空で輝く星のようにそこらに散りばめられていた。
鼻の奥に抜けていくような瑞々しい香りが心地よい。
描きかけのページを開き、鉛筆の先を画用紙に当てる。
景色を観察して背景と花の境界線を探し、そっと一本の線を引いた。
絵が完成するまで、この作業を地道にやり続ける。
気の遠くなる話だが、完成した瞬間のあの感覚が忘れられず何度も描いてしまう。
「描かないの?」
しばらく経っても真っ白なままのアポロ君のスケッチブックを見る。
画用紙の真ん中だけが黒ずんでいた。
一本の線を描いては消してをずっと繰り返しているみたいだ。
「初めてでやり方がわからないんだ」
「やり方なんてないよ。自分が思ったように描いていけばいいんだから」
画用紙の中に残したいと思った景色を描いていく。
それ以外に父さんから教わったことはひとつもなかった。
アポロ君は眉間に皺を寄せたままゆっくりと首を上下させて、鉛筆をぐっと握った。
花々が風に揺れる景色の中、鉛筆の先が紙の上を滑る音だけが鳴っている。
時折咳をしたり悩んで唸り声をあげたりしたが、これといって会話を交わすことはなかった。
「……やっぱりうまくいかない」
五分ほどかけて描いた絵を消しゴムで消してアポロ君がポツリとこぼした。
「消しちゃったの? もったいないよ」
「だってへたくそだったから」
消されてしまう前の絵を盗み見ていたが、アポロ君の絵が下手だとは感じなかった。
「うまくなくてもいいんだよ。好きなことなんだから、自分がいいなって思えればそれでいいでしょ?」
「でも恥ずかしいじゃん」
「別に恥ずかしいことじゃないよ。最初は誰だってうまくできなんだからさ」
今も特段上手ではなかったが、書き始めた頃と比べればいくらか上達した。
俺なんて最初は綺麗な線を引くことすらできなかったのだから、それに比べたら十分センスがあるように思える。
「タロ君は凄いね」
「どうして?」
「だってしっかり自分を持ってるから」
アポロ君は時々、俺が理解できない難しいことを言う。
自分を持っている、なんて言葉は父さんからも聞いたことがなかったが、どうやら褒められていることは間違いみたいだ。
「タロ君は大人になったら絵描きになるの?」
「絵描き?」
「描いた絵を売るお仕事だよ。なるのは大変だけど、お金も稼げるみたいだよ」
将来のことなんて考えたことがなかった。
農作業と家畜の世話以外に、自分が働いている姿を想像したことはない。
「まずさ、そのお金って何?」
「知らないの?」
「うん。初めて聞いた」
「これのことだよ」
アポロ君はそう言ってポケットに手を突っ込むと、中から一枚の紙を取り出して俺に見せた。
画用紙を四等分したくらいの大きさだ。
四隅に数字の1が書かれており、右側には人が描かれている。
これも写真という技術を使って作ったものなのだろうか。
「これで何ができるの?」
紙は小さいため絵を描くには適していない。
余白が少ないのでメモ用紙としても機能しないように見える。
「なんでもできるんだよ」
「なんでも?」
「うん。これがたくさんあればタロ君がしたいこと全部叶えられる」
「全部⁉︎」
思わず大声を出してしまった。
そんな紙があるなんて話は一度も聞いたことがない。
父さんならこのお金というものを知っているだろうか。
差し出されたお金を受け取り、回したり裏返したりして観察する。
やはりそれほど効力があるようには思えない。
触り心地や見た目からもわかる通り食べることも出来なさそうだ。
「……でもこれどうやって使うの?」
ただこの紙一枚で、どうやって叶えるのかわからなかった。
「これと欲しいものとか自分がしたいことを交換するんだよ」
「それだけ?」
「うん。だからこれさえ持っていれば、美味しいものを食べることができるし鳥みたいに空を飛ぶこともできるの。病気を治すことだってできるんだよ」
「じゃあ、これを使ったら上手な絵を描けるようにもなるの?」
「それは……どうだろう……」
アポロ君は俺の質問を聞くと、顎の下に左手を当てて首を傾げた。
「とにかくね。僕の住んでるところではこれをたくさん貰うためにみんな頑張ってるんだよ。お金を持ってれば偉くなれるし、欲しいものもたくさん手に入るの。だからみんな一生懸命勉強してお金をいっぱい貰える立派な大人になろうとするんだよ」
「これをたくさん貰える人が立派な大人なの?」
「僕の住んでるところではね」
「なんか、よくわかんない」
この村では、みんな生きるために仕事をして豚や野菜を育てている。
もちろんお金なんて貰った経験はない。
それは俺や隣に住むおじさんもそうだし、村を管理している村長や父さんも同じだ。
もしアポロ君の言っていることは本当なら、お金を稼いでいない俺たちはみんな立派な人ではなくなってしまうように思えた。
「それで、アポロ君は将来何になるの?」
「僕? 多分お医者さんかな」
「さすがだね」
お医者さんは俺でも知っている。
月に一度村に来て、俺たちの健康状態を診てくれる人のことだ。
白い服を着て大きなカバンを持っている。
村の大人たちの振る舞いを見るに、きっと偉い人なのだろう。
頭が良くないとできない仕事だと父さんは言っていた。
「でも、どうしてお医者さんなの?」
村を転々とするお医者さんという職業はとても忙しく、自由な時間もないように思える。
「お母さんがなれって言うから」
「それだけ?」
「お医者さんになるとお金もいっぱい貰えるし仕事も失わないから将来安泰なんだって。それにいい人と結婚もできるから私みたいにならないってお母さん言ってた」
「だからなりたいの?」
「なりたいってわけじゃないけど。でも立派な大人になるためには、お医者さんを目指すのが一番なんだよ」
「ふーん、そうなんだ。アポロ君の住んでる村っていろいろ大変なんだね」
チラリとアポロ君を盗み見る。彼は少し寂しげな顔をしていた。
描いた花や葉に薄い影を入れていく。
将来のことを考えて行動するなんて頭の悪い俺にはできない。
けれどこのまま絵を描き続けていれば、いつかは絵描きという仕事に就くことが出来るのではないかと小さな期待を抱き始めてもいた。