DEAD END
気がつくと、俺はここにいた。
ここが一体どこなのか、そもそも俺は一体誰なのか。そんなことは一切何も分からなかった。
ただ一つ分かることがあった。それは、この“空間”には俺以外のものが一切存在しないということだった。
……何を言っているのか分からないかもしれないが、そう表現するしかない。
何せ、壁も天井も何もない、ただただ白いだけの光景が目の前に広がっていたのだから。
……床はある、と言っていいのだろうか。そうでなければ、俺がこうして立っていることの説明ができない。
しかし、俺は立っていると言うよりも、まるで宙に浮かんでいるかのような感覚を感じていた。
何がなんだかよく分からないが、ともかく人を探そう。
こんなところにいつまでも、ただじっとしている道理はない。
もたもたしていると、そのうち空腹で倒れ餓死してしまうかもしれない。ともかく前へ。
どちらが前なのかすら分からなかったが、ともかく俺は歩き始めた。
歩いて、歩いて、歩き続けた。時間の感覚すらよく分からなかった。
さっき歩き始めたばかりなのに、不思議と何年も歩いているかのように感じた。
しかし、そんなはずはない。不眠不休で何年も歩いているのだとしたら、俺は化け物か何かだろう。
しかし、あり得ないことだが、やはり俺は実際に何年も、下手をすれば、何十年、あるいは何百年もの間、歩き続けているのかもしれない。
いつから、この空間にいるのかさえ分からないのだ。疲れも空腹も感じないが、俺の感覚は何もかもおかしくなっているのかもしれない。
歩くのを止めようかとも何度も思った。だが、そのたびにこう思った。
「歩くのを止めて他にすることはあるのか」と。……何もない。この何もない空間でやれることなど、他に何もない。
だったら、せめてやれることをやるべきだろう。例え意味のない行動だとしても、何もしないよりはずっとマシなのだから。
そして、ようやく俺は奇跡を目にした。……人だ。俺以外にも人がいたのだ。しかし、なんと声をかければいいのか分からない。
よろよろと近寄った俺がようやく発した言葉は「初めまして」だった。
明らかに、この状況には適していない気がしたが、他にかける言葉が見つからなかったのだから仕方がない。
女は(――女だったのか)、座り込んだままこちらに顔を向け驚きの表情を見せた。
「だ、誰、ですか……?」と、女は俺に問いかける。
良かった。少なくとも言葉の通じる相手らしい。俺にもようやく人間らしい感覚が戻ってくる。
「分からない」
俺は正直に答えるしかなかった。そして、同じ質問を問い返してやる。
「お前は、自分が誰だか分かっているのか?」
すると、女は首を振り、「私も分かりません」と呟いた。
……まあ、予想はしていたことだ。
むしろ彼女がここで「分かっている」と答えたのなら、俺と彼女のどちらが異常者なのかで悩まなければならないところだったので、安心した。
「いつからここに?」
「分かりません」
「どうしてここに?」
「分かりません」
「他に誰か人はいるのか?」
「分かりません」
「……俺たちは、一体何者なんだ」
「それも、私には分かりません……。私は何も分かりません……」
やはり彼女も同じだ。俺と同じで、何も分かっていない。
……ああ、一つだけ分かりそうな質問があった。意味のない質問だろうが、とにかく聞いてみる価値はある。
「ずっと、ここでこうしていたのか? 他に人はいないかと探してはみなかったのか?」
「最初は、確かに探しました。でも、私はすぐに諦めてしまったんです。
歩いても、歩いても、ただ何もない空間が広がっているだけ。
だから、何をしても無駄なんじゃないかって思って、ずっとここで座り込んでいました。
誰かが来るのを、ここでずっとずっと待っていたんです。だから、あなたに会えて凄く嬉しいです」
「……だが、俺は神様でも救世主でもないぞ。お前をこの空間から出してやることなどできない。
ただの無力で無価値な人間の一人でしかないんだ」
「構いません。私は絶望しかけていたけれど、二人なら怖くはありません。
ああ、側に人がいるというだけで、なんて安心できるんだろう。
私は一人じゃないんだ。それだけで、凄く凄く勇気が沸いてきます」
「それならば、」
俺はそこで一つ呼吸を置いた。
「お前も俺と一緒に歩いてみるか?」
俺のその問いかけに対して、彼女は意外そうな顔をする。
「どうして、ですか……?」
「どうしてって……」
「二人でずっとここにいられればいいじゃないですか。
どうして歩く必要があるんですか? どうせここから出られる方法なんてありませんよ。
……もしかしたら、私たち以外にも人がいるかもしれないけど、私はそんなの興味ない。
一人じゃないってだけで、私は十分だから。
他には何も必要ない。何も望まない。何も叶わなくたって構わない」
ふうっと、俺は溜息を吐く。呆れてしまったのだ。どうせたいして歩きもせずに諦めたくせに何を言う。
俺は諦めなかった。だから、こうして他の人を見つけるという奇跡を叶えたのだ。
何かを為す前に諦めることなどしなかった。
俺は黙って、女に更に近づく。そして、女の顔を平手で叩いてやった。
女は更に意外そうな顔をするが、俺にだって言いたいことはある。
「ふざけるな。俺がどんな想いでここまで歩いてきたと思ってる。
別に俺は、お前に会いたくて歩いていたわけじゃない。この訳の分からない空間から抜け出すためだ。
お前とずっとここにいるなんて、俺にはとても耐えられない。
いつまでもここにいたいのなら、好きにしろ。それはお前の意思だ。俺には関係ない。じゃあな。
短い間だったが、お前のおかげで諦めなければ叶う奇跡があることを知れた。そのことだけは感謝するぜ」
そう言って、俺は女の横を素通りしようとする。すると、女は慌てた様子で俺を引き止めた。
「ま、待って! ごめんなさい、私が間違ってた。私も歩くよ、一緒に歩く!
だから、お願いだから私を一人にしないで!」
ふう……、二度目の溜息。だが、今度は呆れたわけではない。俺も安心したのだ。
このまま一人で歩き続けるなんて、とても出来そうにないと感じていたからだ。
「最初から、そう言えばいいんだ。お前だって、ここから抜け出したいはずだ。
何かを為す前に、諦めるなんて言うんじゃない」
「う、うん……、そうだね。私だって諦めたくなんてない。
きっと普通に暮らしていける世界があるんだって信じたい」
「違うな。信じるんじゃない。叶えるんだ。信じることで奇跡を叶えやがれ」
「うん、分かったよ。私も奇跡を叶える。絶対奇跡を起こしてみせる」
……そして、俺は。俺たちは共に歩き出す。道なき道を進み続けた。
出口などないかもしれない。それでもずっと諦めなかった。
ひょっとしたら、今度は何千年、あるいは何万年も歩き続けたかもしれない。
きっと、だからこそ、奇跡が起こったのだろう。
扉だ。俺たちの目の前に、黒い扉が現れた。
互いの姿以外で、白以外の色を目にしたのは、それが初めてだった。
俺たちはしばし呆然としてしまう。
「幻覚、……じゃないよな。確かに扉だ。お前も触ってみろ。確かに扉の感触がある」
「……本当だ。本当に存在する扉だ。ちゃんと触れられる。ドアノブもちゃんとある。このドアノブを掴んで開いたら、私たちはここから出られるの……?」
「一緒に開こう。手を取り合って。ここまでだって互いに励ましあってきたんだ。最後も共に行こう」
こくりと、彼女は頷く。もはや言葉は必要ない。
まず俺がドアノブを掴み、彼女がその上から俺の手を握ってきた。
そして、俺たちはゆっくりとドアノブを回し、開く。
そして、俺たちが見たものは。俺たちが目の当たりにしたものは。
ああ、それは、それは、それは。それは、きっと。
「……そういうことか」
俺は納得してしまう。それを見た瞬間、全てを理解した。
俺は、彼女の顔を確かめる。きっと彼女も、俺と同じ表情をしているだろうと思った。
「私も、全部分かっちゃった……。私たちは、アダムとイブだったんだね」
「多分もう誰もいない。みんなみんな、いなくなってしまったんだ。だけど、俺たちだけが生き残った。
神様が俺たちだけを助けてくれたのかもしれない。いつか二人で再生を果たしてくれるだろうと信じて」
そうさ、多分俺たち以外の人間はもう存在しない。……でも、行こう。それでも行くんだ。
それが俺たちに与えられた使命ならば。叶えられる奇跡は必ずあるのだと信じて。
俺と彼女は、もう一度だけ顔を見合わせる。ここからは更に過酷な試練が待ち受けているかもしれない。
だけど、それでも俺たちは二人で前を向いて扉の向こうの世界へと足を踏み出した。