130、死霊の墓場 〜襲撃後の異変
「えっ……長さま?」
フロリスちゃんを見つめる集落の長の女性の様子は、襲撃前とは明らかに違う。やはり彼女は、サラ奥様なんだ。そして、記憶が戻ったのか。
「フロリス……私のフロリスなの?」
サラ奥様らしき女性は、あまりにも顔色が悪い。
この地下室に入り込んだ悪霊を、竜神様の火球が焼いたらしい。こんな空間で悪霊が燃えたら、誰でもこんな顔になるよな。
「長さま、記憶が戻ったのですか」
フロリスちゃんは、彼女のことを母とは呼ばない。きっと、臆病になってるんだ。母親と呼んで、もし違ったら……と不安なのだろう。
彼女は3歳の頃に母親を亡くしたことで、5歳で僕に会った頃には、完全に感情を失っていた。今も、まだ、完全には安定していないと思う。
フロリスちゃんの問いかけが聞こえていないのか、サラ奥様らしき女性は、頭を抱えてしまった。微かに震えている。自分が殺されそうになったときのことも、思い出したのか。
『我が王、他にも、ここにいた住人のほとんどが、おかしくなっています。長は、まだマシです。他の大勢が、錯乱状態になっているようです』
賢そうな個体が、僕にそう訴えてきた。
ラフール・ドルチェさんと、あと数人は、この厨房のある食堂にいるけど、それ以外の人の姿はない。集会所の外は、獣人の黒兎しかいなかったよね。
「みんなは、小部屋にいるのかな?」
『錯乱状態の住人は、部屋にいます。黒兎が付き添いをしていますが、それも受け入れられない人もいます。そのため、黒兎も、おかしくなってきています』
人が不安だと、それが伝わっていくのか。そういえば、黒兎の長のレイランさんも居ないな。
「そっか。皆さんの記憶が戻ったのなら、黒兎もそうなるね」
黒兎は、きっと、皆が集落を出て行ってしまうことを恐れているんだ。
『我が王! どうすればいいか、わかりません。このままでは、集落の住人が悪霊を引き寄せてしまうと、黒ネズミが言っています』
賢そうな個体は、完全にテンパってるみたいだ。扉にぶつかって転がっていたリーダーくんは、そのまま、ふわぁぁっとあくびをしている。対照的だよね。
「大丈夫だよ。フロリス様がいるから、黒兎は落ち着くと思う。記憶が戻った人達には、温かいスープを作ろうかな」
『えっ? あ、はい。あの、では、その……』
「キミ達は、癒し系だからさ。ここでいつものドタバタをやってれば、きっとみんな救われるよ」
僕の話が難しかったのか、賢そうな個体は首を傾げている。一方で、リーダーくんは、ヘラヘラしてるんだよね。
『我が王! 温かいスープもいいのでございますですが、冷たい果実も嬉しいでございますです』
あっ、果実!
「リーダーくん、めちゃくちゃナイスだよ」
そうだ、巨大な桃のエリクサーだ!
ボックス山脈の神殿跡の天兎の果樹園で、ゼクトとマルクと三人で創った奇跡の薬だ。継続のエリクサーとも言われる。いわゆるリジェネ効果が付与されているから、体力も魔力も、じわじわと回復を続けるんだ。
桃のエリクサーを創るために、エネルギー源として使ったマナ溜まりは、異界の悪霊が汚した地下水脈のマナだ。こちらの世界にいた人なら、より一層、効果があると思う。
僕は魔法袋から、巨大な桃のエリクサーを取り出した。
『うひょーっ! トンネル遊びをするのでございますねー』
リーダーくんは、目をキラキラと輝かせた。そういえば、お気楽うさぎのブラビィは、この巨大な桃に穴を掘って迷路を作っていたっけ。竜神様の子達も、そのブラビィの掘った迷路にハマって遊んでたよね。
「リーダーくん、ちょっと違うよ。これは、ゆっくり回復するエリクサーなんだ。しかも、ボックス山脈の神殿跡の天兎の果樹園の桃を使っている。きっと、この集落の人達を元気にしてくれるよ」
『トンネル遊びをすると、みんな楽しくなるでございますですよー』
「いやいや、トンネルは掘らないから。人間は、この桃のトンネルに入らないでしょ」
『ルージュさまは、テンちゃさまと一緒に……ぶふぉっ』
賢そうな個体が、リーダーくんの腹に飛び蹴りしたよ。そうか、ルージュも桃の迷路に潜るのか……。服がびちゃびちゃになって、フラン様が怒りそうだよね。そんな話は聞いたことないけど。
チラッと、青い髪の少女に視線を移すと……爪を立てて、もう掘ってるじゃん。桃にトンネルを掘るのが、そんなに楽しいのか?
「ヴァンさん、これは、まさか、あのリジェネ効果のエリクサーですか!?」
ラフール・ドルチェさんも、巨大な桃に惹き寄せられるように、近寄っていく。テンウッドが掘ってるから、部屋いっぱいに桃の甘い香りが広がっているもんね。
「ラフールさん、さすが商人貴族ですね。最近は、流通させてなかったんですけど、ご存知でしたか」
「ええ、知ってますよ。フリージアの伴侶が、独占販売をしていましたからね。あっ、いや、ヴァンさんはお友達でしたよね」
マルクに対する印象が悪いんだな。ドルチェ家の人は、みんな、そうかもしれない。
「このエリクサーは、特殊な作り方をしたものです。マルク・ルファスさんと、ゼクトさんと、三人で力を合わせないと作れません」
「ほ、ほう。それなら、フリージアが独占するのは、仕方ないことですな。闇市では、相当な価格で取引されていましたよ。このリジェネ効果のエリクサーは、ヴァンさんの木いちごのエリクサーと同時に食べると、数ヶ月は、体力と魔力は減りませんからね」
えっ? そんなの知らないよ。
「これをまるまる1個食べれば、半月から1ヶ月ほど効果は持続するでしょうが、一口で1日継続するので、危険な場所に行く時には、毎日一口ずつ食べるといいと思いますが」
「まるまる1個だなんて、とんでもない! ほんの一口、これくらいで十分ですよ。木いちごのエリクサーも高価ですが、数ヶ月分だと考えれば安いですからな」
テンウッドが掘り出した桃の果実に、こっそりと手を伸ばすラフールさん。こういう所は、商人なんだよな。
甘い香りに誘われたのか、住人が食堂に集まってきた。だが、皆、その表情はひどい。襲撃の恐怖と、記憶が戻ったことによる混乱で、疲れ果てているようだ。
「皆さん、床に放り投げられていますが、桃のエリクサーです。床に転がっていても、果実には汚れは付かないので、よかったら食べてみてください。甘いですよ〜」
そう。テンウッドは桃に穴を掘り、果実を適当に散らかしているんだ。香りを広げるためかとも思ったけど、きっと違うよな。ドゥ教会の中庭にも、こんな風に、桃の果実が散らばっていたことがあった。
「このトンネルをくぐるだけでも、消耗した精神は復活するよっ。迷路じゃなくて、トンネルにしたからっ」
青い髪の少女は、なぜか悔しそうな顔で、そんなことを言った。迷路を作ろうとして、失敗したのかな。
「彼女は、神獣テンウッド様だ! 皆さん、神獣様の加護も付されているはずです。桃のトンネルをくぐりましょう」
いや、人が通るには狭いでしょ。
だけど、ラフール・ドルチェさんの呼びかけに、住人達はふらふらと近寄ってきた。何も考える気力がなくて、ただ従っているだけに見える。
狭いトンネルだから、くぐるときには、必ず果実の壁に当たる。あぁ、それがいいのか。身体に果汁が染み込むんだ。桃のトンネルをくぐると、みんなの顔には赤みが戻っていた。
「主人ぃ、もう一個だして。今度は慎重に削るからっ」
やはり、迷路作りを失敗したらしい。
「あまり変な形にしないでよ? 果実を床に散らかさないで」
「うん、わかったっ」
新しい桃のエリクサーを渡すと、青い髪の少女は、嬉々として部屋の中央に持っていった。邪魔だよ? その場所。
「ヴァン、私にも一つ、ちょうだい」
フロリスちゃんまで?
あー、黒兎の分か。フロリスちゃんの周りには、いつの間にかたくさんの獣人がいた。サラ奥様らしき人の周りに集まってきたのかもしれないけど。
「はい、どうぞ。僕は、温かいご飯を作りますね」