113、死霊の墓場 〜様子のおかしいフロリス
「あら? ごめんなさい。お口に合わなかったかしら。今回のクッキーは、珍しく焦がさなかったのだけど」
集落の長の手作りクッキーを一口かじって、固まってしまったフロリスちゃん。そんなに酷い味なのだろうか。
僕も、ソーッと手を伸ばして、クッキーを一枚いただく。うん、少しベッチャリとした質感だけど、不味いとは思わなかった。使っているバターがミルクっぽいのか、独特な優しい香りがする。
「いえ、美味しいです。すみません、私、急に眠くなってきてしまって……」
フロリスちゃんは、何かをごまかすように笑みを浮かべた。確かに眠いだろうな。朝早くにガメイ村を出て、体感的には丸一日ずっと起きているような感覚だ。
「あらあら、じゃあ、空き部屋がたくさんあるから、お泊まりください。私達は、滞在してくださる方が嬉しいわ」
そういえば門番が、黒兎の予知の話をしていたな。僕達が滞在している間だけでも、黒ネズミ達に集落を守ってほしいと頼まれたっけ。
門番は、僕達より先にこの屋敷に戻ったから、長にはすべて報告済みなのだと思う。そんなことは彼女は何も言わないけど……。
「ヴァン、どうする?」
「えっ? あぁ、そうですね。せっかくのご厚意だから泊めていただきましょうか」
僕がそう返すと、フロリスちゃんはふわっとやわらかな笑みを浮かべた。だけど、何かに動揺したような目をしている。それをごまかすためか、眠そうなフリをして目に手を当てた。
「ぜひ、お泊まりください。レイラン、案内して差し上げて」
長がそう言うと、どこからか、さっきの門番が現れた。
「あの、長さま、このクッキーをもう少しいただいても良いでしょうか」
フロリスちゃんは、クッキーが気に入ったのかな。
「まぁっ、嬉しいわ。このお皿ごと全部部屋に持っていってくださって大丈夫よ。紅茶も運ばせますわ」
「ありがとうございます」
ふわぁっと、あくびをするフロリスちゃん。今のは本物のあくびだ。本当に眠そうだな。
「じゃあ、ごゆっくりね」
◇◇◇
僕達は、門番のレイランさんに連れられて、屋敷の3階へと上がっていった。ラフール・ドルチェさんも泊まるつもりらしい。
「私は、いつも借りる部屋があるので、失礼しますね」
そう言うとラフールさんは、さらに階段を上がっていく。
「ラフールさんは、よく泊まりにくるのかしら」
大事そうにクッキーの皿を持ったフロリスちゃんが、門番に尋ねた。
「あの人は、10日おきに来るみたいです。納品に来ると宿泊して、翌日販売会をしてから帰る感じかな。注文していないものが欲しい人もいるから、だいたい丸一日は、露店を出してますよ」
あぁ、なるほどね。この集落にとって、唯一の商人か。
「じゃあ、お二人は、こちらとこちらの部屋を使ってください。お腹が空いたら、さっきの部屋に誰か必ずいますから、声をかけてください。できれば、襲撃が終わるまで滞在してほしいですが……あ、いや、忘れてください。長に叱られる」
長は、僕達を頼るな、って言っているのか。
「私はヴァンと同じ部屋でいいわ。この部屋って、随分と広いもの」
フロリスちゃんは、部屋の中を覗くと、無防備な発言をしている。幼い頃ならまだしも、フロリスちゃんは成人の儀が終わった14歳。さすがに男と同室というのはマズイ。
「フロリス様、さすがにそれは……」
「どうして? 寝室もふたつくらいありそうだよ?」
僕を信用してくれているのは、嬉しいんだけど……。あ、違うか。フロリスちゃんの表情はいつもとは違う。ひとりになるのが不安なのか。
「この部屋は、客室なのですか」
僕がそう尋ねると、門番のレイランさんは、ハッと我に返ったように肩をピクリとさせた。フロリスちゃんの発言に固まっていたのかな。
「あ、いえ、客室というか……新たに集落に来た人達を保護する部屋なんです。ここで、記憶が戻るまで静養してもらうので、一つの部屋は、数人で利用できるような広さにしてあるそうです。家族や冒険者パーティでこの世界に来てしまう人も少なくないので。俺も、4階に住んでいます」
あぁ、なるほど。だから広いのか。
「じゃあ、私達も、一部屋で大丈夫です。ヴァンの奥さんは、私の母の妹だもの」
本当は、妹か姪っ子かは、フラン様はわからないと言っていたけど、アウスレーゼ家に生まれた人であることに間違いはない。フロリスちゃんにとってフラン様は、母親の妹だという感覚らしい。
「ご家族なのですね。じゃあ、こちらをお二人でお使いください。後で、別の人が紅茶を運んでくると思います」
門番のレイランさんはそう言うと、1階へと降りて行った。
部屋に入ると、フロリスちゃんはクッキーの皿をテーブルに置き、そのまま椅子に座ってジッとしている。
「フロリス様、寝室は3つあるみたいです。テーブル席も椅子が6つあるから、6人まで利用できる部屋ですね。ミニキッチンもあるし、小さなお風呂もありますよ」
ファシルド家のフロリスちゃんの部屋に比べると、ひとつひとつは狭いけど、寝室が3つなのは、偶然にも同じだな。商業の街スピカにある貴族の屋敷の客室も、こういう感じが多いと思う。
長の女性は、記憶を失っているというけど、それでもこの部屋の配置は、サラ奥様が最後に暮らしていた部屋に似ているように思える。
「フロリス様?」
フロリスちゃんは、ジッとしたまま動かない。なんだか、既視感を感じる。彼女が5歳の頃も、こんな感じで固まっていたっけ。
あの頃のフロリスちゃんは、全く食事をしなかった。部屋のミニキッチンは、フラン様が買ってきた大量のお菓子で溢れていたっけ。
フロリスちゃんは、母親を失ったショックから食べられなくなり、その現実から逃避するためか感情も失っていた。歩くこともやめてしまって、まるで人形みたいだったよな。
ファシルド家では、食事は食事の間で食べることが義務付けられていた。メイドさんが、彼女を抱きかかえて食事の間を往復する姿が、今も目に焼き付いている。
食事の間では、フロリスちゃんは何も食べずに時間が過ぎるのを待っていた。他の子供達に、嫌がらせを受けていたこともあったよな。
だけど部屋に戻ると、クッキーだけは食べていたっけ。5歳には見えないほど痩せていて小さかったけど、フラン様は彼女を生かそうと必死だった。
フロリスちゃんは、なんだか、あの頃に戻ってしまったかのような表情だ。
「フロリス様、どうされました?」
僕が少し大きな声で問いかけると、彼女はビクッと肩を震わせた。怯えさせてしまったか。
「あぁ、ヴァン、ごめん。なんだか私……」
コンコン!
「紅茶をお持ちしました」
フロリスちゃんの言葉を遮るタイミングで、扉がノックされた。さっき、追加の料理のために席を離れた人だな。
「あぁ、ありがとうございます」
僕がそう言ったときには、フロリスちゃんの表情は、いつものものに戻っていた。
「ありがとうございますっ。クッキーの前で紅茶を待っていました〜」
「あら、うふふ。お気に召したのね。このクッキーは、長が作れる唯一の物なの。記憶は戻らなくても、身体は覚えているのね」
「そうなのですね。優しい味がします」
「ふふっ、お腹が空いたら、夜中でもさっきの部屋に来てね。シチューやパンはたくさんあるから。おやすみなさい」
彼女は紅茶入りのポットを置いて、穏やかな笑顔を見せると、部屋を出て行った。
扉が閉まると、再び、フロリスちゃんの表情からは笑みが消えた。
「フロリス様、紅茶には、お花のクリームを浮かべましょうか? 子供の頃のように」
すると、フロリスちゃんは、ふわりとチカラない笑みを浮かべた。
「うん、懐かしいね。ヴァンのお花のクリーム」




