謎の美女
和音と復讐の話をしてから数日後。
講義を受けるため、俺は視聴覚室へと向かっていた。
数日間はほとんどゼミで気にすることはなかったのだが、今日の気分は絶不調。視聴覚室に行く足取りはいつにも増して重たく感じていた。
理由は至極簡単で必修科目だからだ。
必修科目じゃ意味が分からないと思うだろう。
必修科目とは卒業までに学校が定めた教育課程に従って履修しなければならない科目のことである。
つまり全員が出席する。ということは、数日前に俺に別れを告げた藤村美咲も出席するのだ。
当然、俺もこの講義に参加せざるを得ないわけで必修科目で一つでも落としたりしたら留年になってしまう。
「……でも顔合わせるの辛いなぁ」
しかし、それよりも俺は、講義を受けるよりも藤村に会いたくないという気持ちが強かった。
ーーー『友達』でいよう、ね?
藤村の言葉がシミのように脳内にこびりついていて、拭いきれていない。
忘れるわけがない。
思い出すだけで胸のあたりが刃物で刺されたかのような痛みが走り、傷口から怒りとも憎しみとも判断ができないどす黒いヘドロが漏れ出して、それを生み出した自分自身を焼け爛れやがて溶かしていくような居心地の悪さが体内に溜まっていた。
きっと刃物で腹部を切り裂けば内臓は溶解した液体のように飛び散るに違いない。
いっそのこと、ここで俺の中身を抜き取れば楽になれるのだろう。まぁ、無理なんだろうけど。
「……何が友達だ」
よくいけしゃあしゃあと言えるよな。
やっとの思いで視聴覚室にたどり着くと、早めに入室し友人の席を占領している人たちがちらほらといた。
その中には藤村はいなかった……が、藤村が所属するゼミのメンバー二人が参考書を囲碁みたく机の上に乗せていた。
俺は近くには座らず正反対の席に座る。そして隣の席の机に参考書を置いた。
「……講義まであと五分か」
スマホの電源をつけ時間を確認する。
そしてスマホから目を離すと、講義を受ける人達がわいわいと話しながらぞろぞろと入ってくる。
「……」
藤村が目に入った。
藤村の隣には、他のゼミに所属している男が並んでおり仲睦まじく歩いていた。そいつは美形のイケメンで、ザラとかエイチアンドエムとかのメンズファッションが似合いそうな奴だった。数日前まではその席に座っていたのは俺だったはずなのに。
左手を力の限り握りしめながら見つめていると、藤村は俺に気付き目があってしまった。
数秒もかからないくらいの短い時間がフィルム映像のようにコマ送りに感じていると彼女は俺に笑みを向けてきた。
思わず俺は顔を伏せる。どんな顔をしたらいいのかわからなかったし話しかけられても何を答えたらいいのかわからなかったからだ。
「ねぇ、ここにしよ?」
藤村は隣にいた男に声をかけ、席に座る。
そこは俺が今座っている席から近くはなく、それでいて声が聞こえるくらいの距離だ。
座った藤村に男は難色を示した。
「今日、映画鑑賞会だろ? こんな端の席に座る理由はないんじゃないか?」
「私映画見ると眠くなっちゃうのよ。だから先生に見つからないようにしようかなーって思って……それに先生から見えないってことは……」
「……そっか。じゃあそうしようかな」
含みを持たせた藤村の言い方に、男はすぐに了承し彼女の隣に座る。俺からの視点だと完全に藤村の姿を捉えることはできないが、二人の姿ははっきりと見える。
明らかにわざとだと確信する。
俺とのデートで映画は大好きと言っていたし、映画鑑賞中も居眠りしているところを見たことはなかった。
男は藤村の頭を優しく撫でると、彼女はくすぐったそうに笑う。
彼が本命なのかと確信するほどの反応だった。
俺に見せつけるその行動は、一見俺の存在を気にしていないという風に見える。しかし明らかに俺に見せつけているようにしか見えない。
無視をしようと視線を外すも、居心地の悪さは治ることはなく今すぐにでもその場から離れて抗議をすっぽかしたいと思い席を立とうとする。
しかしタイミングが悪く講師が入ってきた。教卓に荷物を置いた後マイクの電源を入れた。
「あーあー、少し早いけど……はじめるかな」
「和音のやつ遅いな……」
講義に行こうと声をかけたが、少し時間がかかるから後で行くよ。と言っていた気がする。
もう一度スマホの電源をつけて時間を確認する。講義の開始時間まで一分になっていて本人ではないのにそわそわとし始めていた。
バタンと扉が開く音が響く。
モデルとも思える長身の美しい女性が、息を切らしながら立っていた。
「すいません。ちょっと……寝坊しちゃって……」
「まだ始まっていないから大丈夫ですよ。早く席に座りなさい」
「はい、ありがとうございます」
女性は講師に一度お辞儀をした後キョロキョロとあたりを見回し、そして俺を見つけるなり堂々と胸を張ってこちらに歩いてくる。彼女が通り過ぎると近くをすれ違った人達はざわりと風に靡く雑草のように揺れた。
俺はほっと胸を撫で下ろすと、彼女はふふっと笑った。
「ごめんね。待った?」
女性特有のキャピキャピした声ではなく年上の女性と思わせる大人びた声に、快感がぞくりと俺の背中を走った。
「……待ってはないけど。間に合ってよかったな。席取っておいたけど……」
「あらありがとう。気がきくじゃない、雄一?」
完璧な返答。こんな完璧美女がこの世の中にいるだろうか?
彼女は隣に座ると、俺の腕に巻きつく蔓のように組んでくる。
「ちょ、くっつくなって!」
「えー? 今日は映画鑑賞でしょ? 身を寄せ合って見なかったら面白くないじゃない」
「そうじゃなくて、暑いし……他人の目も気になるから」
「ふふっ。そんなこと言ってー……本当なここが当たるのが気になるだけでしょ?」
肘の角張った部分に当たる柔らかい感触……彼女の胸が執拗に当たっていた。
藤村と比べると多分控えめではあるが、マシュマロみたいなふわふわとした感触にドキドキと心臓の動悸が早くなっていった。
「ねぇ、気付いてる?」
顔を近づけ、彼女は耳元で話しかけてくる。
「あの女、ボクたちをみているよ」
「……」
ほくそ笑むような声音。それは先ほどの大人びた声ではなく聞いたことのある男性の声だった。
バレないように目だけを動かし藤村の方を見る。
俺たちのやりとりをずっと見ていたからなのか、藤村は不機嫌そうな顔をしてこちらを見ていた。藤村の隣に座っていた男も、こちらを……特に俺の隣に座る女性に釘付けのようだ。
そして藤村は注視をやめると、男の脇腹にコツンと肘を当てた。びくりと肩を震わせた男はすぐに藤村の方を見て手を合わせたが、気まずい雰囲気が二人の周りに漂い始めた。
「くくく、みた? すれ違ったときのあの男の顔。『僕』に釘付けだったよ。間抜けな顔してたね」
くつくつと笑うその表情は、美女がしちゃいけない笑みを浮かべていた。
視聴覚室の電気が映画館のシアターみたく落ちると、腕に絡む彼女から解放されると、俺は気疲れした。
「……性根腐ってんなぁ……和音」
「何言う。この復讐に賛成したのは雄一でしょ?」
にやにやと悪魔みたいに笑う人物。
それは俺の同居人である飯田和音その人だ。
そう飯田和音の趣味……というか特技は女装だった。