行動が遅い少年のはじまり
異世界転生。
おおまかに、事故などで死んだ主人公が異世界に転生し、神様のような存在から与えられた特殊能力や生前の現代知識を駆使して活躍する創作物のジャンル。主人公には苦難の道が用意されている場合もあるが、最初から成功が約束されたような状態であったり、落ちこぼれかと思えば工夫ひとつで輝かしい未来が拓いたりする。素敵な異性から期待され、困難を越えて異世界での居場所や平穏を得ていく。
そんな知ったような説明があれば、元・男子高校生、伍貝シズルは心の中で反論する。
比較的知名度の高いものから異世界転生モノの作品をいくつか挙げ、そんな一面があることは認めつつも、必ずしもそうではないことを主張し、人気の傾向などを引き合いに出しながら奥深さを語る。
一方、安心して読み進められるほど主人公に力があり、ヒロインが魅力的で、仲間に囲まれて最後にはハッピーエンドの明るい物語に憧れてもいた。ダークな世界観と劇的な展開にハラハラするのも、決してハッピーエンドではない終わり方に胸を締め付けられるのも好きではあったが、繰り返し読んだり観たりしてしまうのはやはり明るい作品であった。
決して本人は声を大にして言わないが、シズルは異世界転生モノが大好きである。
だからこそ、自分が異世界転生の当事者になったことを理解した時、酷く混乱した。
最期の景色、赤信号に突っ込んできて自分を轢き殺したトラックと、そのドライバー。怨まないわけがない。可能ならば思いつく限りの方法で命を奪わずに痛めつけ続けたいくらいである。
しかし、意図せず到来した「終わりだと思っていたその先」は否応なく判断を迫ってくる。
未だ呑み込めない自分の死と「どんな世界」に飛ばされるのかわからない不安。そして、自分に与えられる能力と「あの主人公たち」のような物語に対する期待。
水中を漂う夢のような世界で、実体のない鼓動が激しく打ち鳴らされる。
自分は「この状況」について多少なりとも予備知識がある。
このアドバンテージを最大限、活かさなければならない。
その思いがシズルを昂らせ、また、冷静であれと努めさせた。
神様役はいなかったがシズルは感覚的に、やるべきことは自分がきちんと欲しい能力を自分の中から選ぶことと解釈していた。あくまでもこれは前の世界からの引継ぎによるボーナスであり、積み上げてこなかったものを得ることは難しい。
体を鍛えていれば身体能力をもっと上げられたかもしれないし、学校や趣味でももっと学びを得ていれば使える能力として挙げられたかもしれない。やろうと決めてもまだ始めていなかった様々なことが惜しく思える。
しかし、後悔を並べ立てるその途中、明らかに自分にとって特別な能力を見つけた。
別に金色の枠が見えたり「レア度S」や「ユニーク」などと浮かんできたわけでもない。それが思い浮かんだ心当たりがあって、なおかつ自分らしいと思える能力。「あの主人公たち」のようにはなれないかもしれないが、シズルはその能力が頼もしく思え、新しい世界に心躍らせた。
遮蔽物に裂かれることなく、雄大に、しかし優しく流れる風が草の香りを運んでくる。
木造家屋の二階の窓から望む景色は、家々と小川を利用した田畑、教会のような建物、そして柵の向こう側に広がる波打つ草原のみである。
時刻は昼過ぎくらいだろうか、とシズルは思う。
シズルは天井が高く、天窓から差し込む光が美しい建物の石台の上で目覚めた直後、強烈な不快感に襲われ、ぐるぐる回る視界の中、石台から転げ落ちたところまでは覚えていたが、次に気付いた時にはベッドの上であった。
「お決まりで言えば、助けてくれた女の子が登場して気遣ってくれるところだけど……」
一応、待ってみたもののなかなか現れないので、慎重にベッドから降りて体を動かしたり部屋の中を観察したりしてから、窓の外を眺め始めたところである。
教会のような建物の上部に天窓を見つける。
「僕が最初に目覚めたのはあそこかな」
不快感とめまいの原因となった、脳みその表面を、生ぬるい温度だけを持った細くて枝分かれした何かが伝っていくような気持ちの悪い感触を思い出してゾッとする。今思えば、あれが「能力の付与」だったのかもしれないとシズルは考えた。まだ試してみてはいないが、能力の使い方をわずかながらわかっているような気がしているのだ。
「お、目が覚めたか」
蝶番の金属音とともに開かれたドアから現れたのは、麦わら帽子に蓄えた髭という、いかにもロールプレイングゲーム内の農夫といった風体の男。
「俺はウッドル。具合はどうだ?」
シズルは正直、かなり女の子を期待していたので少々残念だが、ウッドルに対して優しくて気のいい男のような印象を受けた。
「僕はシズル。最初は酷かったけど、今は大丈夫です。ありがとうございます」
「シズルだな。いいって事さ、あそこから落ちたのもお前が最初じゃない」
その言葉に対して、シズルの心中は穏やかではなかった。
「僕が、最初じゃない?」
「そうさ。転生者、だったか? この村で俺が知っているだけでも10人は来ているよ。中には時折、遠い国の名産品と旅の話を土産に戻ってきてくれる律儀な奴までいる」
シズルは頭を抱えたくなった。転生者がそんなにゴロゴロいるのであれば、相対的に自分の能力の価値が下がってしまう。
「良い人ですね。戻ってくるのも楽ではないでしょうに」
「それがな、そいつはなかなか達者に空を飛ぶんだ。鳥みたいに滑空してな」
「へ、へぇ。それはすごいですね」
精一杯のコミュニケーション能力で会話しているつもりだが「飛行能力なんてずるい。前世で何やってたんだよ」と心の声が反響して口元を歪ませる形で表へと出てしまっている。
「けどお前さんも、他の奴らと同じように何か持ってるんだろう?」
シズルは迷った。
正直に話して笑いものにされるのは怖い。だが、自分の能力が果たしてどれほどのものなのか、10人以上を見届けてきた目の前の人物で評価してもらうのも悪くない。
「ええ、まあ。そんな大した能力ではないですけどね? ちなみに、ほ、他の皆さんはどんな能力をお持ちだったんですか?」
心の中で「あー、日和った!」と叫びながらも、悪くない質問だとも思う。
「そうだなあ。物をあっという間に移動させる奴や、雷を狙ったところに落とせる奴もいたな」
「へ?」
「なにか?」
「いや、なんでもないです」
シズルは思う。
この世界の名前は『仙人が異世界転生したらオニにカナボーすぎた件』ではないかと。
前の世界ではやると決めたことでもグズグズして二の足を踏み、目の前の娯楽に飛びついてなかなか行動に移さない、決して「できる奴ではなかった」と自負するシズル。この異世界転生でその脱却ができないかと思っていたが、アポート使いに雷使いが現れては、活躍できる気が全くしないのであった。
結局自分の能力も明かさず、妙な反応を見せただけのシズルだったが、ウッドルはさして気にしていない様子でにやりと笑みを浮かべた。
「そういやお前さん、腹は減ってねぇか?」
心のどこかでその言葉を待っていたと自覚するほどに空腹であった。
「それがもう、ペコペコで」
「ははは、そうだろう。みんなそうなんだ。待ってな、何か持ってきてやる」
「はい、お願いします」
ウッドルが部屋を後にする。
再びドアが音を立てて開閉され、部屋にシズル一人となった時、自分の能力でひとつ試せそうなことを思いついた。
いつだって行動が遅かったシズル。しかしシズルはやるべきことは最低限やってきていた。行動は遅くとも、やらなかったわけではないのだ。そんなシズルが恩恵として引き継いだ能力。
能力を使うためにシズルは集中して呪文を唱えるように意識する。
――僕の空腹感を、食べ物が到着するくらいまでかな。《後回し》にする!
「……ん?」
シズルはお腹をさする。
「おおおっ」
そして、お腹から「空腹感」と書かれた薄いフィルムがゆっくり剥がれていくような感触で空腹感時特有の不快感が徐々に消えていく現象に驚きの声を上げた。
「これが《後回し》能力か……」
さらなる検証のために、枕を軽く上に放りながら唱える。
――この枕の落下を数秒間《後回し》にする。
枕はストンとベッドへと落下した。
「あれ?」
もう一度、枕を持ち上げ、今度は唱えてから手を放してみることにした。
――この枕の落下を数秒間《後回し》にする!
「ととととっ!?」
枕を放ろうとした手が途中で投げるのをやめてしまい、予想外の自身の体の挙動に思わず焦ってしまう。
まだ三回しか試していないが、シズルは今のところ自分の能力は自分に対してしか有効ではないものとして認識しておくことにした。
そして《後回し》ということは、いずれその現象が起きうる可能性が大きいため、迂闊に使える能力ではないだろうと思考を巡らせている最中、枕は床へと落とされた。握っていた手の力が勝手に抜けたのだ。
「思ったそばから……」
利点よりもリスクのほうが目に付く能力に思えてしまうシズルであった。
そしておよそ十分後、ウッドルが食事を持ってきた際に強烈な空腹感に襲われたことで、それはシズルの中でかなり確信に近いものとなった。