七章・思い出の車輪
「ごめんね、トラ」
少女は悲しそうにつぶやいて、子猫にビスケットを差し出す。トラと呼ばれたその子猫に人間の言葉がわかるはずもなく、差し出されたビスケットをおいしそうにほおばる。
「じゃあね、バイバイ」
少女は子猫を優しく撫でると、立ち上がって後ろを向いた。どういう意味かわからない子猫は、「待って」と言いたげに小さくニャアと鳴き声をあげる。その声を振り払うかのように少女はかぶりを振り、涙を溢して走り出した。その小さな背中に、小さな鳴き声が響く。
今はもう、色あせた昔の記憶。
「それでさ、道に迷っちゃったけどすごい楽しかったんだよ~」
「えー、めっちゃ楽しそうじゃん。私も行きたいなぁ」
放課後、友人である水原芳香の一人旅行の話を聞きながら、朝倉柚葉は羨ましそうに声を弾ませた。
「なんだったら、次は柚葉も来る?」
「えー、行きたいけどお金ないもん」
「まあ、京都だしね」
柚葉はあまり後先考えず買いたい物を買うタイプな上、趣味の幅が広いので常に金欠状態なのである。
「私っていつもお金ないよなぁ」
「デートに使いすぎなんじゃない?」
「な、何言ってんの。春樹とのデート費は別にとってあるもん!」
「その計画性を普段から使いなよ」
春樹とは、柚葉の彼氏のことで、高校一年生のころから付き合っており、つい先日一年を迎えたところである。
「あ、そうだ、お金ないんだったら、自転車で遠出してみなよ」
「自転車? めっちゃ疲れるじゃん。しかも行ける範囲限られてくるでしょ」
「いや、案外遠くまでいけると思うよ?朝から行って夕方くらいに帰ってくれば」
「か弱い体力のないレディには無理ですー」
「バスケ部の二年生リーダーが何言ってんだか」
「それは言っちゃダメ」
「はいはい」
「でも、自転車旅かぁ。面白そうだなぁ。今度の日曜日にでも行こうかな」
「結局行くのね」
「うん、楽しそうだもん」
「まあ、楽しんできたら。まだ水曜日だけど」
「ああ、日曜日が待ち遠しいなぁ」
時は過ぎ日曜日、柚葉は家を飛び出した。
「よし、どこに行こうかなぁ。旅と言っても、特にあてがあるわけじゃないしなぁ」
自転車に跨り、帽子をかぶる。今は七月、真夏だ。
「まあ、とりあえず学校の方面に行って、そこから適当に道なりに進んで行こうかな」
まださほど高くない太陽を背に、柚葉は自転車を漕ぎ出した。
自転車を漕ぎ続け早二時間。柚葉は、右手に見えた公園に目が止まった。
「あれ、私この公園見たことある気が……」
柚葉は咄嗟に自分の記憶を探った。そして記憶から掘り返されたのは、幼い日の思い出だった。
「そっか、私引っ越す前にここでよく遊んでたなぁ」
柚葉は小学校に入学するタイミングで引っ越していた。この公園は引っ越す前によく遊んでいた場所だった。
「え、じゃあ、近くに幼稚園とかあるかな? 探してみよっと!」
柚葉は懐かしむように公園の写真を撮ると、十一年前の記憶を頼りに自転車を漕ぎ始めた。
「我ながらすごい記憶力だね。まさか着くとは思わなかったな」
柚葉も驚くほど十一年も前の記憶はしっかりと残っていたらしく、案外あっさりと幼稚園に着いてしまった。
「懐かしいなぁ……」
十一年前と変わらない幼稚園の姿を眺め、柚葉は思い出に浸った。唯一変わっていたところといえば、閉園の危機なのだろうか、幼稚園の壁に園児募集の貼り紙が貼られていたことだけだった。
「そっか、減ってるんだなぁ」
少子高齢化社会の片鱗を少し思い知った柚葉は、ふと思い立った。
「前住んでた家までの道覚えてたりするかなぁ?」
もちろん、柚葉が引っ越すときに前に住んでいた家は取り壊されて新しい建物が建っている。しかし柚葉はそれでも、前に住んでいた家のあった場所を目指してみたいと思った。
「よーし、記憶との勝負と行きましょうか!」
柚葉は自転車に跨り直し、ペダルを踏んだ。
母の自転車の横に立って待った踏切。鞄を背負って走り抜けた商店街。幼稚園の頃の記憶が次々と蘇る中、柚葉は確かに前の家へと自転車を走らせていた。
とある路地にさしかかり、柚葉は自転車を漕ぐ足を止めた。この道は柚葉も覚えている。家への近道だった。しかし、柚葉が足を止めた理由はそれではない。微かに、猫の鳴き声が聞こえた気がしたのだ。
「猫……?」
柚葉は自転車を降り、手で押して歩き出した。
「私……何かを忘れているような……」
ニャア。今度は、しっかりと声が聞こえた。柚葉はあたりを見回す。すると、道の脇に植えられた植木の陰に、大きなトラ猫がいた。その猫を見て、柚葉の閉まっていた記憶の引き出しが一気に開いた。
「トラ……?」
ニャア。と猫は返事をするように鳴いた。その声は成長していても、柚葉の記憶の中の声と一致した。
「トラ! 久しぶり! よく生きてたね!」
柚葉は自転車を止め、猫に駆け寄ると抱き上げた。柚葉が引っ越す前、幼稚園の帰りにのみ会った野良猫。それがトラだった。
「こんなに大きくなって、今何歳? あの頃で一歳だとしたら、もう十二歳? ずいぶんお年寄りだね」
トラは久々に柚葉に会えて嬉しいのか、柚葉の頬をペロリとなめた。
「ちょっと、くすぐったいよトラ。あ、そうだ! ビスケット食べる?」
トラは返事をするようにニャアと鳴いた。柚葉はトラを降ろし、バッグからビスケットを取り出した。
「はい。そういえば昔もこうやってビスケットあげたなぁ」
おいしそうにビスケットをほおばるトラを撫でながら柚葉はつぶやいた。色あせていた思い出が、今は鮮明になって蘇ってくる。
「ごめんねトラ。急にいなくなっちゃって。ずっとここに住んでたの? ほんと、よく生きてたよ」
すごいだろ。とでも言うようにトラはニャアと鳴いた。その姿が愛おしくて、懐かしくて、柚葉は少し涙を溢した。
「こうやってまた会えたのも何かの縁だね。嬉しい」
どこかから、五時を知らせる音楽が鳴る。それを聞いて柚葉は立ち上がった。
「ごめんね、トラ。そろそろ帰らなきゃ」
ニャア。
「また来週あたり来るよ」
…ニャア。
「次来るときには、お母さん達を説得しておくね。きっとお母さんも、トラなら飼ってもいいって言ってくれると思うんだ」
……ニャア。
「またね、トラ」
柚葉は最後にもう一度トラを撫でて自転車を漕ぎだした。その背中に、もう悲しい鳴き声は響かない。
きっと、次なんかないことは、柚葉も分かっていた。
月曜日、柚葉は昨日の出来事を楽しそうに芳香に語っていた。
「それでさー、結局前の家に行くの忘れちゃってて」
「なにそれ」
「まあでも、またトラに会えたからいいの」
「そりゃよかったわね」
「うん!」
柚葉はふと、窓の外を見上げた。綺麗な青空。この空の先に、トラがいるような気がした。
「来週も行こうかなー」
「また行くの? そんなに楽しかったのね」
「まあね」
次は途中の花屋で花を買っていこう。そう、柚葉は思った。




