最終章・Origin Snow
間接的なイジメ。というと何を思い浮かべるだろうか。自分では手を下さず、裏で手を引いて何かを行うこと。一般的にはそういうものかもしれない。しかし、とある少年――一夜快斗の受けているものは、それとはまた違った間接的なイジメだった。
快斗と仲のいい友人、快斗が好きな人だと噂された女子、はいじめられ、快斗と言葉を交わした者は無視される。そしてもちろん、快斗自身もあてにされることはない。そんな、自分の周りが自分のせいで不幸になっていく「間接的なイジメ」は、どれほど快斗の心を抉っただろうか。それ故快斗は、いつしか人と関わらないようになっていた。
ある日、快斗のクラスに転校生がやってきた。氷月陽菜という、可愛らしい少女だった。
「氷月陽菜って言います。後から来た新参者だけど、仲良くしてくれると嬉しいです」
たちまち陽菜はクラスの人気者になった。男女隔てなく接する彼女は、クラスの皆から信頼され、好意を寄せられるようになった。
そんな中、優しい彼女は、快斗の存在に気づいた。陽菜がクラスメイトに問いかけても、話をはぐらかされるばかり。おかしいと感じた陽菜は、快斗の周囲に誰もいないタイミングを見計らって、本人に話しかけた。
「ねえ、一夜くんで、あってるよね?」
「……僕に話かけない方がいいよ」
「どうして?」
「みんなにいじめられる。僕と仲良くなった人は皆そうなるんだ」
「へえ、どうでもいいや」
「え?」
「私は、みんなと仲良くしたいよ?」
「じゃあ僕に話しかけない方がいい」
「もちろん、一夜くんにも」
「……」
変わった子だな。と快斗は思った。言っても無駄だと確信した快斗は、一言言い放ってその場を離れた。
「好きにすればいい。僕は責任は取らないし、取れないよ」
「うん。好きにするね」
そう言って陽菜は快斗の後をつけた。
「何で着いて来るのさ」
「好きにするって行ったじゃん。ねえ、色々話聞かせてよ。私、一夜くんのこと知りたいな」
「全く、君は馬鹿なの?」
そう言いながらも、久々に話しかけてくれた存在に、快斗は心を許してしまった。奇跡的に家の方向が同じだったことから、他の生徒と下校時間をずらし、二人で色々話しながら帰宅した。そんな中、快斗の今の状況についての話になった。
「ふぅん、間接的にイジメられている。ね」
「うん。だからやめときなって言ったのに」
「そう言いながら、すごい楽しそうに話すじゃん」
「そ、それは……」
「友達いなくて寂しかったんでしょ? 私が友達になってあげようか?」
「え、あ、え?」
突然の発言に、快斗は戸惑った。長い間人との関わりを避けてきた快斗にとって、友達などという存在は幼稚園以来のものだった。
「ひ、氷月さんは、いいの?」
「私は一夜くんと友達になりたいよ? むしろ、クラスの中で一番気になってたし」
「へ?」
「いつも一人でいるから。何かあったのなら力になれないかな。って思ってて」
「氷月さんは優しいんだね」
「そうかな? 普通だと思うけど」
「僕はその「普通」を知らないから」
「あ、なんかごめん……」
「ううん。大丈夫だよ」
「それで、返事は?」
「え? あ、ええと、氷月さんがいいなら、お願いします……」
快斗は消え入りそうな声で言った。彼女にこれからかかるであろう災難も考えたが、彼女の優しさに負けてしまった。
「うん。これからよろしくね」
なんて話をしているうちに、分かれ道に着いた。「私、こっちだから」と、陽菜が別の道を歩いていく。そして快斗の方を振り向くと、大きく手を振った。
「また明日ね! 快斗くん!」
「うん。また明日……って、え!?」
聞き返そうとしたときにはもう、陽菜の背中は見えなかった。
翌日、学校に来た快斗は目を疑った。昨日まではまわりに人が集まっていたのに、今日は陽菜のまわりに人が一人もいないのだ。まるでそこだけ世界が違うかのように。
「あ、おはよう快斗くん!」
「え、あ、おはよう氷月さん……」
快斗にとってほとんど初めての教室での会話。しかしそれは、クラスメイトに二人の関係性を知らしめるには充分だった。
「あーあ」
「結構可愛かったのに」
「雰囲気で察せないもんかねえ」
「残念。おしまいだね」
クラス中からコソコソとした声が聞こえる。それは陽菜のこのクラスでの終わりを意味していた。
「あ、ねえ快斗くん。勝手に名前で読んじゃってるけど大丈夫?」
「あ、うん。別に大丈夫だけど」
すると陽菜は快斗に近寄り、耳元でささやいた。
「これで仲間。だね」
「えっ」
それだけ言うと陽菜は教室から出て行った。少しの間、快斗は陽菜の言葉の意味を理解できなかった。
昼休み。教室の隅の自分の席で快斗は弁当を食べていた。すると突然、陽菜が自分の椅子を持ってきて向かいに座った。
「え?」
「私一緒に食べる友達いないからさ。一緒に食べようよ」
「い、いいけど」
「やった」
陽菜は自分の弁当を机に置くと、楽しそうに食べ始めた。
「楽しそうだね」
「私病気がちであんまり学校とか行ったことなかったからさ。こうやって友達と一緒にご飯食べるのって夢だったんだぁ」
「へぇ……大変だね」
「快斗くんほどじゃないよ」
「いや、氷月さんのほうがずっと大変でしょ」
そう言うと、陽菜は頬を膨らませて拗ねてみせた。
「え、な、何」
「私達もう友達なんだからさ、苗字にさんづけやめよう?」
「え、じゃなんて呼べば」
「陽菜でいいよ。私も快斗くんって呼んでるし」
「よ、呼び捨て……」
「嫌?」
「嫌じゃないけど、慣れてないから……」
「一回言ってみて? 案外いけるもんだと思うよ?」
「え、ええと。ひ、陽菜……?」
陽菜はぱぁっと明るい顔になると、嬉しそうに声を上げた。
「そうそう! ね、いけるでしょ?」
「う、うん」
快斗は頬を赤らめた。こんな風に友達と、ましてや女子と話をするなど、夢にも思っていなかったからだ。
周囲のクラスメイトは軽蔑の視線を浴びせていた。しかし、今の二人にはそんなことなどどうでもよかった。互いに初めて得た「普通の友達」がいる。それだけで全てだった。
そうして二人は、完全にクラスから孤立した。
日曜日。快斗はそわそわした様子で駅の前に立っていた。数分たって、駅の中から明るい声が聞こえてきた。
「快斗くーん!」
「あ、陽菜」
駅の中から、可愛らしく着飾った陽菜がやってきた。今日は二人で遊ぶ約束をしていたのだ。
「快斗くん、私服似合ってるじゃん」
「そ、そうかな? 陽菜も似合ってるよ」
「ふふっ、ありがと」
快斗は正直、今日の陽菜が一段と可愛く見えた。
「さて、快斗くんとデートかぁ」
突然陽菜の放った発言に、快斗は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「へっ、はっ、へ!?」
「どうしたの急に。だって男女で二人なんだからデートでしょ?」
「そ、そうなのかな」
「別にカップルじゃなくてもデートって言うんじゃないの?」
「し、知らないよ」
「まあいいや。ほら、行こう?」
「う、うん」
歩き出す陽菜の後を、快斗は追いかけた。
それから二人は、町を思いのままに歩き回り、お互いに初めての「友達との休日」を満喫した。夕暮れ時になり、二人して電車で最寄り駅に向かっていた。
「楽しかったぁ」
「よかった」
「快斗くんは?」
「僕も楽しかったよ」
今日一日を通じ、快斗もあまりおどおどしなくなっていた。人の順応力とはすごいものだ。
「またこうやって遊びたいね」
「そうだね。次は僕が計画立てるよ」
「えー、快斗くんできるのー? 私とが初めてなのにー」
「ぼ、僕にだってできるよ! 多分」
陽菜はクスリと笑うと、からかうように言った。
「なーんか、カップルみたいだね」
「なっ、何言ってんのさ!」
「だってこうして、二人で次のデートの話するのとか……って、何赤くなってんのよー」
「なってないっ!」
恥ずかしくなってそっぽを向いた快斗の視界は、赤くなった陽菜の頬を捉えることは無かった。
駅に着き、電車を降りた二人は帰路に着いた。しかしいつもの分かれ道まで来ても快斗は順路を変えようとしなかった。
「あれ、快斗くん家向こうでしょ?」
「い、いや、もうこんな時間だし、家まで送るよ」
「えぇ~、大丈夫だよ」
「僕が心配なの! それに、あいつらと会う可能性だって……」
学校からはそれなりに離れているところだが、クラスメイトと出会う可能性が無いわけではない。もしも陽菜が一人のときに彼らに会えば、何をされるかわからない。彼らは快斗の目の届くところでは絶対にアクションは起こさない。だからこそ快斗は、ここ最近学校では必ず陽菜と共に行動している。
快斗の言葉を聴き、陽菜は納得した表情で答えた。
「そっか、じゃあお願い」
「うん!」
隣を歩く快斗の手に、陽菜が手を伸ばし、引っ込めたことを快斗は知らない。
数分歩いた後、二人は陽菜の家に到着した。何処にでもある、普通な家だった。
「ここが陽菜の家?」
「うん、そうだよ……って、あっ」
「ん?」
陽菜の視線が玄関に固まったのを見て、快斗も同じようにそちらを見ると、そこにいた中学一年生くらいの少女がこちらに気づいたところだった。
「あ、お姉ちゃんお帰り! その人がお姉ちゃんの彼氏?」
「へっ?」
「わっ、ばかっ、何言ってんの芽里ってば!」
「えー、違うのー?」
「ちっ、違うよ! この人は私の友達の快斗くん。いつも話してるでしょ?」
「あー、あの人ね!」
二人の空気に取り残された快斗がぽかんとしていると、思い出したように陽菜が快斗に向き直った。
「あ、あれ私の妹の芽里。あんな感じの子だけど気にしないで」
「あれって言い方ないじゃーん」
頬を膨れさせながら二人のところに歩み寄ってくる芽里を見て、快斗はさすが姉妹だな。と思った。
「あ、ねえねえ快斗さん」
「な、何?」
「こんなお姉ちゃんだけど、どうかよろしくお願いします」
そう言ってペコリと頭を下げる芽里を見て、二人は一瞬固まったが、すぐにその意味を察すると二人して頬を紅潮させた。
「な、何言ってんの?!」
「は、え、えぇ!?」
「あはは、二人とも面白い! お幸せに~」
「ちょっと芽里!?」
言い残すと、芽里は一足早く家の中に戻っていった。取り残された二人は。同時に一つため息をつくと、互いに苦笑した。
「面白い妹ちゃんだね」
「まあね。たまに調子のるけど」
「それじゃあ、僕はここらで」
「うん。今日は楽しかったよ。ありがとう」
「こちらこそ。じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
手を振り、後ろを向いて快斗は歩き出した。もちろんその視界には、少し寂しげな表情をした陽菜の顔が映るはずもない。
快斗はただ、「普通の高校生同士の友人」という立場にある自分を、愚かにも楽しんでいた。
氷月宅。陽菜は妹の芽里と二人で部屋にいた。
「お姉ちゃん、やっぱり快斗さんのこと好きなんでしょ?」
「どうなのかな……私恋っていうのあんまり知らないからさぁ……自分じゃあんまりわかんないんだ」
「じゃあ多分好きなんだと思うよ? すっごい楽しそうだったし、帰って来た時の声のトーンがすごい寂しそうだった」
「え、そ、そんなに!?」
一人顔を赤らめ、自分の行動を思い返している陽菜に、芽里は真剣な面持ちで言った。
「それで、あのことは、言ってるの?」
突然投げかけられた話題。その意味を察すると同時に、陽菜の顔色が曇った。
「……まだ」
「まあ、気持ちもわかるけどさ、好きな人なら、言うべきなんじゃないの?」
芽里は少し呆れたように、しかし泣きそうな声で言った。
「……」
「私だってこの話はしたくないよ。でも、お姉ちゃんが後悔しないために……」
「うん。わかってるよ芽里。ありがとう」
芽里の言葉を遮るように、陽菜は精一杯の笑顔を作って見せた。
「ちゃんと言うよ。快斗くんに」
陽菜は声を絞り出した。
「あともう、一か月半だから」
月日は流れ、快斗と陽菜が出会って早くも二か月半が経った。その頃にはもう、二人は完全にクラスから孤立し、誰の目にも留まらなくなっていた。しかし、二人にいじめが及ぶことはなかった。なぜなら、常に二人は一緒にいたからだ。周りの者たちは、快斗の目の届くところでアクションを起こすことは望まない。それ故、常に一緒にいる二人に危害を加えることは無かったのだ。
「快斗くん、帰ろう!」
「うん。少し待ってて」
すでに二人は周りの目を気にしなくなっていた。そもそも周りから向けられる目など無いに等しかったが。
二人は、自分が相手に抱く感情に気づき始めていた。いや、既に二人ともわかっていた。この感情が「恋」だということに。
帰り道。陽菜はイヤホンで音楽を聴いていた。ふと気になった快斗は、陽菜に尋ねた。
「何聴いてるの?」
「ん?」
陽菜はイヤホンを外して聞き返した。
「いや、何聴いてるのかなって思って」
「ああ、米津玄師さんの「灰色と青」だよ。私この人好きなんだ」
「ああ、有名な人だよね。僕も何曲か知ってるよ」
「ほんと!?」
陽菜は目を輝かせた。そこまで食いつくと思っていなかった快斗は、少し気圧されたが、何とかこらえて話を合わせた。
端から見れば、カップルといわれてもおかしくはない。昔の二人ならば顔を赤らめて否定するだろうが、今の二人は平然と「そんなことないよ」と否定するだろう。現にそんなことが二、三回あった。相手はすべて芽里だったが。
「あ、そうだ! 快斗くん、来週の日曜日空いてる?」
「空いてるけど、どうして来週? 今週でもいいのに」
「今週は私が予定あるの。だから来週、遊ぼうよ」
「いいよ。今回は陽菜が決めてね。前回は僕だったから」
「うん、任せて!」
二人が遊ぶとき、毎回交代でプランを立てるようになっていた。回数は互いに二回づつ。次は陽菜の番だ。
「楽しみだなぁ」
「僕もだよ」
そんな話をしながら、二人は電車に乗るのだった。
一月三十日。夕暮れ時。二人はとある公園に来ていた。公園といっても、高台にある休憩スペースのような場所だ。そこからは町が一望でき、絶好の穴場スポットだった。
「すごい、こんな場所があるなんて……」
「えへへ、すごいでしょー」
いつになく得意そうな陽菜を見て、快人は笑った。
陽菜は町が見える崖の淵まで歩いていくと、振り向かずに言った。
「ねえ快斗くん。私ね、快斗くんに話さなきゃいけないことがあるの」
「話さなきゃいけないこと?」
陽菜はにっこりと笑って振り返った。背景には綺麗な夕焼けが見える。
「私ね、快斗くんのことが好きみたい。最初はわかんなかったけど、最近気づいた」
「え、あ、え……?」
突然の告白に、快斗は狼狽えた。快斗は次の言葉を探したが、上手い言葉が見つからなかった。しかし何とか絞り出した言葉は、自分の想いだった。
「僕も」
「え?」
「僕も好き。みたい。初めてだから、よくわからないけど」
「そっか……」
陽菜は申し訳なさそうな表情をした。快斗には、その表情の意味がよみとれなかった。
「あのね、快斗くん」
「うん?」
陽菜の頬に、キラリと光るものが見えた。気がした。
「私ね、死んじゃうの」
「え……?」
陽菜の言葉に、快斗は耳を疑った。あまりに突拍子もない発言に、頭の理解が追い付かなかった。
「私ね。昔から病弱だったって言ってたでしょ? あれ、半分嘘なの」
「半分?」
「うん。私は昔から重い病気を患ってて、突然発作が起きたりするの。原因は、難しいからよくわかんない」
「……」
陽菜は努めて明るく、しかし泣きそうな声で続けた。
「三か月前に、お医者さんから言われたの。「余命三か月だ」って」
「三か月前……それって」
三か月前の十月末。それは。
「そう。私が転校してきたころ。快斗くんに、初めて出会ったころ」
「そんな……じゃあ」
「うん。きっと、今日か明日くらいまでの命。だから死んじゃう前に、伝えたかったの。まさか両想いだなんて、思ってなかったけどね」
そう言って、陽菜は笑った。その笑顔に、快斗の胸は締め付けられた。
「陽菜……」
「ねえ、快斗く……」
陽菜が言い終わる前に、快斗は陽菜を抱きしめていた。自分でも経験したことのないくらい、強く。
「かいとっ……くんっ……?」
「ごめん……急に。でも、少しの間、このままで……」
「うん……」
陽菜は快斗の肩に顔を埋め、泣き始めた。快斗はどうしていいか戸惑ったが、陽菜の頭を優しく撫でることにした。
「快斗くん……私、死にたくないよ……」
「僕も、死んで欲しくないよ」
「やだ、快斗くんと離れたくない……」
「……僕も。すぐ行くから」
「でも……それは……」
「陽菜のいない世界に価値なんか無い。陽菜のいない世界に一人で生きるくらいなら、死んだ方がマシだ」
「快斗くん……」
陽菜の快斗を抱きしめる力がいっそう強くなる。それに呼応するように快斗もより強く陽菜を抱きしめた。
「いままで、ありがとう」
「こちらこそ。本当にありがとう」
「急がなくてもいいから、待ってるね」
「すぐ行くよ。一人にしない」
「ばかっ」
陽菜が腕を解くと、快斗も陽菜を離した。すると次の瞬間、陽菜は快斗に歩み寄ると、その唇に、自らの唇を重ねた。
永遠のようで、刹那のような瞬間。離れた後、陽菜は紅い頬を緩ませて笑った。
「ありがとう。大好きだよ」
二月一日。朝学校に来た快斗は、残酷な光景を目の当たりにした。
「陽菜……」
陽菜の机の上に置かれた花瓶。それが意味するものは、ただ一つ。さすがのクラスメイトたちもざわついていた。
数分経ち、ホームルームの時間になって担任が教室に入ってくる。そして担任は、淡々と告げた。
「昨晩、氷月陽菜さんが、お亡くなりになりました」
再びざわつく教室。快斗は覚悟していたが、襲ってきた絶望は思っていたものよりずっと大きかった。
ホームルームが終わり、授業が始まるまでの十分間。その間に、快斗は学校の屋上に来ていた。柵の外側に立ち、町を見下ろす。
「陽菜のいない世界に、生きる価値なんか無い」
五階建ての校舎の屋上から見えるのは、色を失った冷めた世界。
「今、行くよ」
秒速九・八メートル毎秒毎秒の世界へ、快斗は体を委ねた。
快斗が目を覚ますと、視界に真っ白な天井が映った。
「ここは……」
規則正しい機械音が耳に届く。この音は、まさか。
「あ、一夜さん。気が付いたんですね」
白衣を着た女性が現れ、部屋を出て行った。その瞬間快斗の意識は収束し、状況を理解した。
「失敗した……のか」
すぐに行く。と言ったにも関わらず、自分は無様にも自殺に失敗したらしい。これじゃ陽菜を一人にしてしまう。
「……でも。少し冷めたな」
変わらずこの世界に生きる意味など見出せなかったが、今すぐに死ななければという気持ちは湧かなかった。
親や親族が押し寄せてきたが、適当な理由と言い訳をつけて話は流しておいた。
一ヶ月、二ヶ月と時間は過ぎてゆき、七月に入った頃。あと一ヶ月で退院だと告げられた快斗は、病室でぼうっとテレビを見ていた。すると、テレビで流れていた内容が目に留まった。
「願い……雪?」
それは、とある場所にあるという島の話だった。その島では、毎年八月三十一日の夜に数分だけ雪が降るという。快斗は噓だと思ったが、昨年の記録映像を見ると、信じざるを得なかった。
「すごいな……」
なんでも、その雪に願い事をすると、一生で一度だけ叶うと言われているらしい。
「そんな馬鹿な」
そう言いながらも、快斗は興味を持っていた。実際に両思いになった人や、故人と数分だけ会話することが出来た人、過去にタイムスリップした人などがいるらしい。
「本当……なのかな」
快斗の心の中に一筋の希望が灯った。もしも本当ならば。
「陽菜を救える……のかな」
自分が行くんじゃない。死ななくていい人生を、歩ませてあげられるかもしれない。
「退院したら、行ってみよう」
八月二十九日。快斗は最低限の荷物を持って駅へ向かっていた。すると、突然携帯電話が鳴った。着信元は、見知らぬ電話番号。
「もしもし?」
「もしもし、私メリーさん。今、あなたの後ろにいるの」
「え?」
電話の意味を掴めず、快斗は後ろを振り向いた。するとそこには、陽菜の面影を持った少女がいた。
「芽里ちゃん……」
「快斗さん、何処に行くの?」
「少し、行きたいところがあって」
「そっか」
振り向いて歩き出そうとした快斗に、芽里は言った。
「快斗さん」
「ん?」
「お姉ちゃん、笑ってたよ」
「……そっか」
「うん。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
今度こそ、快斗は歩き出した。芽里は振り向くと、一つ涙を零し、歩いていった。
八月三十一日。快斗は島に来ていた。
「ここが……」
船着場を出て、あてもなく島を歩き始めた。何処にでもある、何の変哲も無い街だった。
「本当に、雪なんか降るのかな」
夕方とはいえ、本当に雪が降るか疑ってしまうほど気温は高い。快斗は自販機で水を買うと、近くにあったベンチに腰掛けた。
「願い……か」
目を閉じて、陽菜のことを想う。あの煌びやかな三ヶ月間は
決して夢ではなかった。むしろこの半年間の方が夢だと思えるくらいだ。
「陽菜……。きっと、必ず」
あの時交わした言葉、感じた体温、触れた唇。一つ残らず、快斗の記憶に刻まれていた。快斗にとって、陽菜は快斗の人生そのものだった。
ふと、頬に冷たい感触があった。快斗が目を開けると、そこには。
「本当に、雪だ……」
それは、紛れも無く雪だった。いつの間にか空に集まっていった雲から降り注ぐ、白い光。
「願い、叶うのかな」
一瞬疑った。しかし、この神秘的な風景には、願い事の一つくらい叶えてしまえるような雰囲気があった。
「願い事……ね」
叶えたい願いなどいくつもある。しかし、願うのはたった一つ。迷う必要など無い。
「彼女に、陽菜に、もう一度、違う、幸せな、普通の、人生を」
陽菜に、あんな残酷な人生など似合わない。彼女には、もっと普通な、恵まれた、幸せな人生が与えられてしかるべきだ。
「僕のことはどうだっていい。きっと、彼女の人生に僕は必要ない。彼女の次の人生に、僕はいなくていい」
それでも、もし、わがままが通るなら。この願いも叶うなら。
彼女の好きだったあの曲の一節をなぞるなら。
「今度は、すれ違うように、互いに気づかないように、芽里と出会いたい」
突然輝きだした空に、快斗は目を閉じた。
全てがゼロになる最後の瞬間に、まぶしい彼女の笑顔が見えた。
気がした。
時は遡る。数十、数百、数千、数万、数億年。さらに永い永い時が巻き戻る。ゼロになる。始まりとなる。
たった一人の少年の願いは、叶えられた。
「おい快斗! 早くしろよー!」
「ちょっと待ってよ春樹!」
六月初頭。快斗は友人の春樹と二人で登校していた。一度目の人生で願った、普通の友人と共に。
「今日の一時間目って何だっけ?」
「確か現代文だよ」
「よし、じゃあ置き勉してるわ」
「春樹は全部置き勉してるでしょ」
「へっ、バレたか」
歩いていく二人の背後から、女の子の声が聞こえた。
「おーい、早く行くよ陽菜―」
「蒼―、今行くよー!」
快斗たちの横を陽菜が通り過ぎていく。もちろん快斗が陽菜を知っているはずも無い。春樹も然り。
すれ違うその光景が、一度目の最後に願った光景だということを、快斗は知らない。
「おはよー」
「ういっす」
「一夜くん、弥河くんおはよー」
「おはよう」
快斗が知ることは決してない。
『またね、すみれ』
あの時の自分の選択によって、陽菜の変わりに死んでしまったすみれの花と。
『こんなくだらないこと、そろそろ辞めたらどうだ?』
自分の代わりに苛められる運命を辿った光があったことを。
「これは、僕がずっと住んでいた島に昔からある言い伝えだ」
(願い雪かぁ……。ファンタジーみたい)
そしてもちろん、知る由も無い。
「では、教科書三十二ページの羅生門を開けてください」
あの時の願いが、全ての始まりだったということを。
作中で使用した楽曲名:灰色と青/米津玄師




