夏が終わる前に
「夏が終わる前に、どうしてもやりたいことがあるの…、付き合ってくれない?」
夜中の9時頃だった。冷房の効いた塾から出て携帯を出すと、彼女からのメールが来ていた。クラスで時々喋る程度の女の子。それでもメールでは仲が良かった。それだけなのに友人が何、お前告られたの?とからかってくる。そんなんじゃねえとふざけて笑いながらOKと返信した。秒で返ってくる彼女からのメール。位置情報が素っ気なく添付されていた。此処から歩いて十分程の河川敷だ。家とは反対方向だったが気にせず、僕はイヤホンで音楽聴きながら大通りを歩き始めた。
夏が終わる前に、か。なんかボカロの曲名でありそうだなって思った。夏が終わる前に何かを変えようとする主人公なら腐る程いる。僕とは程遠い人種だけども。彼女も大急ぎでなにか変えたいものでもあったのだろうか。それは美しいと同時に僕には眩しすぎて直視出来ないものでもあった。
河川敷にある公園のジャングルジムの下で、彼女はヘッドフォンで音楽を聴きながら本を読んでいた。街灯は辺りになく、月の光だけが彼女を照らしている。それは壊してはいけない風景に思えた。けれど彼女が顔を上げ僕に気付く。おーい、と手を振りながら僕を呼ぶ。綺麗な向日葵のような笑顔だ。僕は内心照れ臭く思いながらも手を振り返した。
「こないだ従兄弟が来てね、花火したんだ。だけどさ、沢山買ったのにあの子達線香花火だけしないんだよ、沢山余っちゃって…。なんか寂しくなっちゃって捨てらんなくって。独りで花火するのも寂しいから、君を巻き込ませて貰いましたっと。良いかな?」
明るく、向日葵の様に凛とした声だ。けれど、どこかが違う。彼女の雰囲気はよく注意しないと解らない程だけれどもささやかな変化があった。でも、それは良いことでは無いと思った。何かあったんだ。普段そんなに話さない人間にすら頼らなきゃいけない、何か。良いよ、と曖昧に返事をして彼女の顔をこっそり覗き込んだ。目の奥に、キラリと光って滲む何かが見えた。
一本ずつ線香花火を手にとって、百円ライターで火を付ける。炭酸水みたいな音が身体の中を走って、オレンジ色の火花がパチパチと鳴った。
「わあ…」
彼女が顔を花火色に染めて小さな歓声を上げた。僕も、ほっと息をつく。久しぶりにやる線香花火は、自然と僕と彼女二人の世界を創った。何本も何本も火をつけて辺りを花火色に染める。灯を絶やすことがまるで許されないかのように。
二人ともが、最後の一本を手にとった。
「ちょうどよかったね」
そうはにかんで見せる彼女の頬を、綺麗な雫が伝っていた。声が水っぽくなる。それでも彼女は百円ライターで火を付けた。最後の花火。これで、彼女の夏は終わる。
「ねえ、君は夏に変われたって思うことある?」
声が濁るのも構わず、彼女は言った。
「どうだろう…。まあ受験勉強もあったし、有意義ではあったと思うよ」
「そっか…、そうだよね、みんな変わるよね。君は、変わったこと、後悔する?」
「後悔?」
「そう。私もね、勉強したよ。曲がりなりにも自分で頑張ってみたんだけど、変わって、視点もガラッと変わっちゃって…。ちょっぴり、ううん、物凄く嫌だって思った。今までの自分が消えちゃって。言葉もなにも、素直じゃなくなって。初めて、生きるのが大変だって思った。死んじゃいたいって思った。今までが一番良かったの。何も隠さないで済むから。ねえっ、きっ、君はっ…」
嗚咽が彼女を飲み込む。それでも彼女は涙を手の甲で拭って声を出す。線香花火と一緒に雫が落ち、辺りを暗闇と静寂が包んだ。存在してるのは彼女の嗚咽だけ。
僕は何も答えられなかった。僕には、彼女が想う様に素晴らしい今までなんてなかった。僕には、これからしか無い。そんな気がしてた。
彼女は、この先の方が良いと思わないのだろうか。そんな稚拙な思いを読んだ様に、彼女が言葉を紡ぐ。
「過去を振り返っちゃいけないって誰が決めたの?変わらなきゃいけないって誰が言ったの?その先は素晴らしいなんて解る訳が無いっ。今を最高だと思っちゃ駄目なの?縋るのは駄目なの?私は、線香花火の落ちる直前でいたいの。なのに落ちちゃったら…もう二度と同じ花は咲かないのにっ」
「同じ花は、咲くよ」
彼女の目が大きく見開く。僕だって驚いてた。自分は一体何を言ってるんだ。
「君の中で、君の知らないところで咲いてるから。君が過去の自分を願うなら、もう一度変われば良い。…人間ってすぐ変わるからさ、大丈夫。また元の君が戻ってくるから。もっと綺麗になって戻ってくるから」
とてつもなく恥ずかしく青春臭い言葉だった。こんなので伝わる訳もないのに。彼女の瞳が、水の向こうではっきりと輪郭を帯びた。
「…ありがとう」
滲んだ声でそう言った。僕はまだ言葉が足りないと思ったのに。それでも、彼女のどこかで僕の言葉が咲いた。
「ありがとう…、私、こういうことを話すのは君だと思った。一緒に線香花火するのも、私を泣かせてくれるのも、君だって思ってた。それだけだけど…ありがとう」
彼女に僕の何が響いたのかはわからない。それでも今、彼女の心の中に火花が小さく散った。美しかった。そんな感想しか僕は持てなくて。
二人で後片付けをして途中まで一緒に帰る。彼女は泣いていた。それでも笑っていて、彼女自身わからないくらいぐちゃぐちゃになっていて。僕の心の中で何度も小さな花火が咲く。もどかしくて、夏の終わりに相応しいと思った。
来年の夏は、大きな打ち上げ花火を彼女と見たいと思った。