第07話
「誰かを殺そうとしちゃだめだー!!」
初等学校どころか幼児にすら説明不要の常識を、ミリアは宿屋の一室で叫んでいた。
床の上では正座をしたクゥがしょんぼりと肩を落としてミリアの説教を聞いている。
「だが、あの者たちはよりにもよってミリアを……」
「私でも誰でも、殺しちゃだめだ! 絶対!」
再度ミリアに叱られて、クゥが目に見えて落ち込んでいく。
自分のことを考えての行動だ。可哀想な気はするが、しかしこれだけはしっかりと叩き込まなければならない。
「……君が私を助けようとしてくれた気持ちは素晴らしいものだ。感謝もしている」
「なら怒るのはおかしい。あのような連中、数秒も経たぬうちに肉塊に変えられたというのに」
不満げなクゥの表情にミリアは困ったと眉を寄せる。
事実、クゥの行動は全く以て正しい。けれどそれは、獣として森の中で生きる場合の理だ。
彼は獣ではない。否、自分が彼を人に変えてあげなくてはいけない。ミリアは自分の背負った責任を感じ、頭を抱えつつもクゥを見つめた。
「人の世では人殺しは重大な犯罪だ。たとえ肉親を殺した相手だろうと、その裁きは己の手ではなく司法に委ねなければならない」
「そんなのは間違っている。敵は自らの牙で討たねば意味がない。第一、そんなものを待っていてミリアが殺されれば取り返しがつかんではないか」
クゥの反論にミリアは言葉を詰まらせた。要は正当防衛の正当性だ。当然それはミリア達の世界でも認められているわけだが、それを話しては話がややこしくなる。
「人の世は殺されそうになっても身を守ってはいかぬというのか?」
「そ、それは。……正当防衛として認められているよ。致し方ないという判断だ」
ミリアの言葉にほらみろとクゥが唇を尖らせた。つまりは程度の問題なわけだが、その匙加減を竜である彼に説明するのは困難だろう。
けれどミリアの葛藤を見てとってか、クゥも偉そうには話さない。彼女が自分の身を案じていることをなんとなく理解して、クゥはミリアの顔色を伺った。
「怒っているのか?」
「いや、違うんだ。すまない。私の学では君を納得させる説明をしてあげられそうにない」
深く息を吐いてから、ミリアは一旦ベッドへと腰を下ろした。くしゃくしゃと髪を乱すミリアを、心配そうにクゥが見つめる。
上目遣いで見上げてくるクゥの視線に、ミリアはぐっと両手を合わせた。
「素直な私の気持ちを話そう」
ミリアの唇が動き、クゥはミリアの言葉に耳を澄ます。先ほどの叱り声よりも、クゥの耳には通って聞こえた。
「結論から言えば、私は君とずっと旅がしたい。君が人を殺してしまえば、旅どころか一緒に居てあげることすら困難になる。……それは君も嫌だろう?」
優しいミリアの声に、クゥはこくりと頷いた。
説明不足を恥じているミリアに、クゥは彼なりの解釈を以て答えてみせる。
「つまり、共に居たいのならば人として生きよということであろう? ならば同胞殺しが禁忌であるのも納得だ」
単純明快なクゥの答えに、ミリアがぽかんと口を開けた。大ざっぱだが、実に要点を突いている。
「人間の群の掟は複雑なようであるが……致し方ない。我とミリアのためだ。あい分かった、今後一切の人間への殺生をせぬと誓おう」
顔を上げ、クウテンケンコクーラは宣言した。ホッと胸をなで下ろすミリアだが、少々申し訳なさを感じてしまう。クゥを人の掟の中に閉じこめてしまったのは自分だ。
「ありがとう。……私を守ってくれたのは、本当に感謝しているよ。頼りにしてる」
「なに、任せるがいい。次からもきちんと半殺しにしてみせる故」
ミリアの礼にクゥが嬉しそうに顔を輝かせた。頼りにしていると言われ素直に喜ぶ。相変わらず手加減は教えないといけないが、実際強盗まがいの人物には昼くらいのお仕置きは許されるだろう。
「そういえば、ミリアはなんで旅をしているのだ?」
お説教は終わったと理解したのか、脚を崩したクゥがミリアに問いかけてきた。話が変わり、ミリアも普段の表情へと顔を戻す。
これから共に旅をしていく間柄だ。しかも先ほどはつい「ずっと」等と言ってしまった。答えておくべきだろうとミリアはベッドに手のひらを付ける。
「そうだね、私は考古学者でね。分かるかな? 古の歴史を紐解く者たちだ。その中でも私は特に、神々の伝承を研究している」
「ほう。つまり、我のような者たちだな」
クゥの相づちにミリアはこくりと頷いた。こうして当然のように同じ部屋で話しているが、これは本来ならばあり得ないほどの奇跡だ。ミリアも神と呼ばれる存在に出会ったことはこれまでにもあったが、まともに言葉を交わしたのはクゥが初めてである。
「今だから言うけれど……君と話し始めた頃は多少舞い上がっていたよ。研究対象として見ていたようで申し訳ないけどね」
「構わん。要は我に興味を持ってくれていたということであろう? むしろもっと持ってくれていい」
クゥの不満げな顔にミリアはくすりと笑った。確かに、今は少しクゥの扱いがぞんざいになっている気もする。あんなにも恋い焦がれた相手だというのに。
「ふふ、ごめんごめん。君の手綱を握ろうと必死だったんだよ。……そんなにも今の私は薄情者かな?」
優しく微笑むミリアに、クゥは隠しもせずに不満をぶつけた。その不満があまりにも予想外で思わずミリアは面食らってしまう。
「森ではあんなにも撫でてくれていたのに、今日は全然撫でてくれんではないか」
ぶすりと頬を膨らますイケメンに、ミリアは軽く絶句した。言っていることは分かるが、非常にまずいとミリアの視線が泳ぐ。
「え? いや、あれは君が竜だったから」
「竜だろうが人だろうが、我は我である。竜でなくては撫でてくれないというならば、人化の術などもう使わぬ」
本気の目であった。最初の約束はどうしたと思うが、クゥにとってはそれほど大事なことらしい。
この狭い客室で人化を解かれては宿が壊れてしまう。仕方なしに、ミリアはぐっと覚悟を決めた。
「しょうがないな。……おいで」
「ふむ、そこまで言われては仕方がない」
ミリアが観念して手を広げた瞬間、クゥが満足そうに近づいた。
「へ? ちょ、ちょっと」
ミリアの身体がベッドに押し倒され、少々あれな絵面になる。
けれどすり寄ってくるクゥの頭を、ミリアはなんだかなぁと撫でて上げた。
「まったく……こんなのでいいのかい?」
「勿論だ。ミリアの手は気持ちよい故」
それはもう幸せそうに顔をすり寄せてくる銀髪の青年に、ミリアはたまらず上を向いた。元が竜だと分かってはいるが、なんというか人の姿でやられると非常にこちらが恥ずかしい。
そのうちクゥの顔が首筋に近づいてきて、ミリアはぎょっと目を見開いた。
「ちょ、待ちたまえ! 髪の匂いを嗅ぐんじゃない! こ、こら!」
「いい匂いだから大丈夫だ。なんの問題もない」
すんすんと首やら髪やらの匂いを嗅がれて、ミリアの顔が真っ赤に染まる。珍しい反応に気をよくしたのか、クゥはそのままミリアの身体に自分の匂いをすり付けだした。
「あ、待て! そ、そこはだめだ! 本当に怒るぞ!」
クゥを突き放そうとするが、ミリアの腕力ではどうにもできない。これで自分のものだと言わんばかりにごろごろと甘えられて、ミリアの羞恥と我慢が限界に達する。致し方なしと腰に下げた調査用の金槌に手を伸ばし、ミリアはそれをクゥの頭に振り下ろした。
「いい加減にしろ!」
「ぎゃうッ!」
金属を叩いたような音が部屋に響き、たまらずクゥが声を上げる。ようやく脱出したミリアは、息を乱しながら暴漢犯を睨みつけた。
「何故だ。おいでと言ったのはミリアであろうに」
「加減ってものがあるだろう!」
身体を抱きしめながら怒るミリアに、クゥはしょんぼりと肩を落とした。先ほどのお説教よりも素で怒っているミリアに、クゥは何かを失敗したことを悟る。
「人間の雌は面倒だ。強い雄と認めたのなら、素直に股を開けばよいのに」
「君、絶対にそれ外で言っちゃだめだよ。最低の台詞だからね」
なおも不満そうにベッドで転がるイケメン姿の竜神に、ミリアはこれからの旅路を思って深く息を吐くのであった。