第03話
『ミリア! こっちだ! 会いたかったぞ!』
出会って十四日目。ぶんぶんと尻尾を振ってアピールする森の主に、ミリアは少し呆れたように小さく笑った。
「分かっているよ。そもそも君、ここから動かないんだから」
『元より動く気もないが、ミリアが見失っては困るのでな』
それもどうなんだとミリアは思うが、けれど高位の龍種は食事すら取る必要はないらしい。ならば餌を探しに動き回る必要すらないというわけだ。
人間のミリアには驚くべき話だが、クゥからすれば食事は劣った生物の生態であるらしい。
『そも、この世には魔力も霞も満ちておる。わざわざ他の命を奪う必要もあるまい』
そんなことをあっけらかんと言われてしまっては、返す言葉を無くしてしまったミリアである。
すり寄るクゥの鼻先を撫でてやりつつ、ミリアは小さく息を吐く。
こうして目の前で甘えてきている彼の言葉が、それだ。自分の無力さや見地の無さが、どうしても見えてくるというもの。
定例の石に腰を下ろしながら、ミリアは疲れた肩をぐるんと回した。
その途端、ミリアの腹がぐぅと鳴る。初めて聞く音に、クゥがぴょこんと尻尾を上げた。
『腹が鳴ったぞ! 腹が空いているのだな!』
「恥ずかしいから、そんなに騒がないでくれるかな」
しまったとミリアは頬を染めて苦い顔をした。今日の日雇いはキツめだったからか、普段以上に身体が栄養を欲している。それにクゥが気になって食事も取らずに来てしまった。
「すまないが、ここで食事を取らせてもらうよ」
これ以上鳴らすわけにもいかない。ミリアは肩からかけていた革の鞄を開けると、紙に包まれたサンドイッチを取り出した。膝の上に置き、丁寧に包みを剥がす。
パンに野菜とハムを挟んだだけの簡素なものだ。忙しくて、結局いつもの時間に食べられなかった。
『……なんだそれは?』
ミリアが両手に握ったサンドイッチを見て、クゥが警戒するように目を細める。
その視線に、今度はミリアが首を傾げた。
「なにって、サンドイッチだよ。パンに肉や野菜を挟んだものでね。ほら」
パンを開いて、中身をクゥに見せてやる。変哲もない野菜とハムにクゥはふむと頷いて、けれどパンを鼻先でちょんとつついた。
『中身は分かるが、これはなんだ? 肉でも植物でもないぞ。それに、肉も血の匂いがせぬ』
「えっ?」
クゥの問いかけにミリアが言葉を詰まらせる。一瞬なにを言っているかが分からなかったが、数秒遅れて、彼がパンを知らないのだと理解した。
興味深げにクゥはパンの匂いを嗅いでいる。
『……植物のようだが、こんな実も花も見たことがない。ふむ?』
首を傾げ、納得がいかないとクゥが唸る。
そこで初めて、ミリアはクゥが人間の文化をなにも知らないのだと察した。
旅の話を特に疑問も持たずにこにこと聞いているから勘違いしていたが、少なくともパンを知らないくらいに無知なのだ。
パンは別に生きているわけでも、木に実るわけでもない。要は、素材を加工しなければこの世に存在しないもの。
「そうか。いや、そうだね。これはパンといってね、小麦を挽いて粉にしたものを、練って焼き上げたものなんだ」
『ほう。何故にそんな面倒なことを。そのまま啄めばいいではないか』
ミリアはどう説明したものかと苦笑してしまう。確かに、鳥は皆そうやっているわけで、クゥの疑問も当然だった。
「人間は不便でね。小麦をそのまま食べるとお腹を壊してしまうんだよ」
『……ならば、小麦以外を食べればよい。毒をわざわざ食べる必要もあるまい』
この辺りの違いはクゥは疑問には思わない。種によって食べられるものとそうでないものがある。ある種にとってはご馳走でも、ある種にとっては致命的な毒であるのはよくある話だ。人間が小麦で腹を壊すのも不自然ではない。
ただ、ならばなぜそれを無理して食べようとするのか。毒などなんであれ身体に入れない方がよいに決まっている。
説明するより見せるのが早いかと、ミリアはサンドイッチをひとくち頬張った。
「……ほら、美味しい。手間をかけるとね、食べられるものも増えて味もよくなる。つまりは食が豊かになるということだよ」
『うーむ、豊かなのはいいことだが。やはり手間過ぎるのでは?』
納得がいっていない様子のクゥに、ミリアはどうしたものかと思案する。そして、至極単純な見解にたどり着いた。
「全部あげるわけにはいかないけど……はい」
残りのサンドイッチを二つにちぎり、クゥに向かって差し出す。それを興味深げにクゥは見つめた。
「あ、食事はできなかったんだっけ?」
『いや、取る必要がないだけで食事自体は可能だ。……だが、それはミリアの分なのでは?』
先ほど腹を鳴らしていたのを思いだし、クゥは遠慮するようにミリアに告げる。別に自分は食べなくともなんともないのだ。腹が空いているミリアが食べるべきだというクゥの視線に、けれどもミリアはにこりと笑った。
「半分あるから大丈夫だよ。それよりも、君に私たちの営みを知ってほしい」
食事とは文化であり叡智だ。差し出されたサンドイッチに、クゥは首を傾げながら口を近づける。
『そこまで言うなら食べるが、肉以外はあまり好きでは……』
遠い記憶。まだ食事が必要な程に未熟な頃、イノシシや鹿を狩っていた思い出。血の匂いには確かに腹が鳴り興奮したものだ。
それがちっとも存在しないサンドイッチの前で、クゥは大きく口を開ける。一瞬ミリアがびくりと身体を竦ませるが、笑顔に戻るとそこにサンドイッチを放り込んだ。
『ふーむ、やはり血の味も匂いも……』
サンドイッチをクゥがもぐもぐと咀嚼する。興味深げに見守っていたミリアも、あまり好みではなかったかなと眉を寄せた。口に並ぶ大きな牙は、どう見てもパンを食べる用には見えない。
しかしその瞬間、サンドイッチの味が鈍い竜神さまの舌にじわりと溶けていった。そして――
『なんぞこれはッ!?』
クゥは驚きに目を丸まると輝かせた。
べろべろと、自分の口の中を舐っては先ほどの味を確かめる。
焼いた小麦の香りに、少ないが確かな肉。野菜は正直微妙だが、それよりもほんのりと塩気の味が付いていた。
『美味である!! 美味であるぞ!! どういうことだこれは!?』
信じられないとクゥは驚愕していた。
なにせ、食事の価値など多いか少ないか。それに加えて、硬いか柔らかいかを考えられたら上等――そんな世界しか知らない彼にとって、料理というものは素晴らしかった。
『とてつもなく味が濃いぞ!?』
「塩……かな? 振ってあるからね」
クゥの質問に、ミリアも再度ひとくち食べてみる。ごく普通の味だ。普通のパンに、特に塩気が強いわけでもないハム。特に濃いめの味付けではないが、クゥにとっては衝撃だったらしい。
『塩ッ!? それなら知っているぞ! 我も地面とか舐めていた故!』
「そ、そうなんだ。なんでだろうね」
今度はミリアが驚く番だ。ミネラルの存在など知らないものだから、地面を舐めていましたと言われてもピンとこない。けれど、確かに動物って舐めているよなと思い起こし、ミリアはひとまず納得した。
「わざわざパンを作る意味、分かってくれたかな?」
『完全に理解した! 美味故に! 美味故に!』
興奮冷めやらぬクゥに安堵しつつ、ミリアはくすりと笑った。こうまで喜んでくれるのならばあげた甲斐があったというものだ。
最後のお土産にもなっただろうしと、ミリアは竪琴の準備を始める。
「今日は君に別れの歌を唄おうと思ってね。いやなに、私にとってもこの半月ほどは貴重で楽しい時間だった」
『うぬ?』
クゥはきょとんとミリアを見つめた。まるでもう会えないとでも言うようなミリアの言葉に、クゥが怪訝そうに聞いてみる。
『何故に別れの歌なんぞ。どうせなら、もっと楽しい歌が聞きたい』
「え? ああそうか、そういえば言っていなかったね」
クゥの不満げな表情に、ミリアは何の気なしに言葉を続けた。
「旅の資金も貯まったからね。そろそろ次の街に行こうかと思ってるんだ」
本当に、なんの気もなくミリアは言ってしまった。
ミリアの言っている意味を、クゥは少し考える。それはつまり、自分の前からいなくなろうとしているということだ。
『……もう会えないというわけか?』
「ふふ、そういうわけではないよ。私は旅人だ。時が交わえば、また出会うときもあるだろうさ」
ポロンと、竪琴の音色が響いた。クゥの細くなる目に、ミリアは気づかない。
彼女は勘違いしていた。森の竜の親愛が、ただの好奇心であると。
なにせ、相手は千年を生きると言われる竜神だ。そんな彼がたかだか二十余年しか生きていない自分に、なんの感情を抱くのかと。
それこそ彼にとって、自分との邂逅など瞬きにも等しい時間ではないのかと。
彼女は、森の主が抱く親愛を理解していなかった。
永遠とも言える退屈の中で、光明のように出会えた奇跡。彼にとって、ミリアがどれほど濃密な時間を作り上げてくれる存在かを。
彼女を見送り、次の日に出会うまでの時間に比べれば、眠気眼の三十年など無にも等しい。
『許さぬ』
のそりと身体を起こすクウテンケンコクーラの一言にミリアは彼を見上げた。
見下ろしてくる、殺気にも似た竜神の視線。
『ミリアは我と共に暮らすのだ』
物言わせぬ竜神の言ノ葉。それもそのはず、雌を組み伏せる手段など贈り物か、そうでなければ力付くか。
相手は知力に富む個体とはいえ、非力な人間。痛い目を見せる必要すらない。何もせずとも、逆らえば待つ自分の死を理解できるだろう。
そこで初めて、ミリアは彼の想いが本物であると知った。
幼稚なわけではない。これが自然だ。雄と雌、理由などあれこれ求めるほうがおかしい。
ぎらりと光るクゥの牙と爪を交互に見つめ、ミリアは弱ったなと頬を掻いた。
誰が悪いかといえば、自分が悪い。純粋な森の神を誑かした罰だろう。
「私を殺すのかい?」
『殺したくなどない。だが、我の前から去るというなら致し方ない』
真っ直ぐに見つめてくるミリアへ竜神は返答した。
言葉通りだ。殺したいはずなどないが、そうでもしないとミリアがいなくなってしまう。彼女を留めるには、死への恐怖を以て他ないだろう。
『もう街にも返さぬ。一度でも我から背を向ければ、その瞬間に首を跳ねよう』
賢い雌だ。本気であるかどうかは伝わっているだろう。
躊躇などしない。クウテンケンコクーラは最愛の雌を切り裂く爪を準備した。
歪に見えるが、これが自然だ。それを理解しているのか、ミリアは困ったように笑みを浮かべた。
「そうか、弱ったな。私は旅をしないといけないから」
『死ぬよりはマシであろう? 諦めるがいい』
クゥはミリアを諭す。子も為していない雌だ。死に勝るものなどあるはずがない。
けれど次にミリアが発した言葉は、クウテンケンコクーラの思慮の外のものだった。
「しかたがない。君に殺されるというのなら、それが私の旅の終わりなのだろうね」
聖域に踏み入り、竜神の心を奪った人間の女。そんなおとぎ話の結末には相応しい最期だ。
『……なぜだ? 我と共に暮らすのがそんなにも嫌か?』
爪が止まったのは、彼女が背を向けなかったからではない。こんなにも頑ななミリアに、クウテンケンコクーラは傷ついていた。
『あんなにも、ミリアも笑っていたではないか。楽しそうだったではないか。……あの笑顔は、我を謀るための偽りであったのか?』
自分は、あれほどまでの最愛を生きたことなどなかったというのに。
見下ろしてくる竜神を見やり、ミリアはそっと竪琴を置いた。
「君への敬意だ。私には、為さねばならぬ夢がある」
ミリアは、真っ直ぐにクウテンケンコクーラを見つめる。
「ともすれば君を騙し、この森を抜け出すことは可能なのかもしれない。君は優しく、純粋だから。……けれど私は、これ以上君を誑かしたくはない。だから、偽りのない真実を話そうと思う」
なんてことはない。自分もまた、この時間が大切だったということだけ。なればこそ、嘘ごまかしは彼と過ごした時への侮辱だ。
ミリアは、揺れる竜神の瞳を一瞬の乱れもなく射抜いた。
「私には、夢がある。ここにいては叶わない夢だ。だから私は、君と森では暮らせない」
この一瞬、言い切った途端に首がなくなるのも覚悟した言葉。その決意は僅かながらも魔力を帯び、森の主へと届いていく。
自らの命よりも重い想い。クウテンケンコクーラはそんなものを初めて見た。あるとすればそれは、母が子に持つ愛情くらいなものだろう。
これが人間か。そう思ったが、それは間違いだと竜は首を振った。
これが彼女なのだ。これが、自分が憧れたミリア・アバンテールという人の雌。
『……やはり我はミリアと共に生きたい』
こぼれた言葉にミリアは目を見開いた。そんな声で言われても、先ほどまで首を跳ねるなどと言われた相手だ。
しかし、どこか切なそうになにかを諦めた竜を見上げながら、ミリアはポリポリと頬を掻く。
そうして、ミリアはひとつの妙案を思いついた。
どうしてこんなにも簡単な答えに気づかなかったのか。ミリアは、危ない危ないと胸をなで下ろす。この答えに自分の首を跳ねた後に彼がたどり着いていれば、数百年も悩み苦しんだかもしれない。
ミリアは、微笑みながらクゥを見上げた。
「ならば、君も来るかい?」
差し出された右手は、さながら女神のようだった。