第01話
龍種。それは深い深い森の中に棲むと言われる伝説の存在。
木々を束ね、花を束ね、動物達を束ねる森の王。
百年も、千年も、ずっと森を見守っている。
退屈だと欠伸をしながら。今日も暇だと目を閉じながら。
森のさざめきを聞きながら、古い祠で眠りにつく。
やってきた日のことなど思い出せない。いつしか鱗に苔が生える頃、竜は聞いたことのない鳴き声に片目を開けた。
るるるーるるるー
鳥ではない。人間の声。
だが、人間とはこのような美しい鳴き声の連中だったであろうか。
ぐちゃぐちゃと、小難しい人語を喋る輩であった気がする。
竜は警戒するように頭を起こした。ぼろぼろと肌から土が落ち、顔の周りを這っていた草の蔦が切れていく。
るるるーるるるー
まだ聞こえる。やはり人だ。けれど美しい旋律に、竜は鳴き声の聞こえる方へ顔を向けた。
ガサガサと茂みをかき分けてくる音が聞こえる。
猛獣すら恐れて近づかない竜の寝床に、その日、珍しい来客が足を踏み入れた。
「って、うわぁ!? なッ……ど、ドラゴン!?」
目を丸くして自分を見上げる人間の雌を見下ろして、竜は満足そうに笑みを浮かべる。
『そうだ、それが我の知る人間だ』
先ほどの鳴き声は聞き間違いであったに違いない。そう思った森の王は、小さな客人を嬉しそうに歓迎した。
◆ ◆ ◆
ミリア・アバンテールは呼吸をするのも忘れて目の前の竜を見上げていた。
街からほど遠くない森の奥。古い祠の伝承に龍種の記述があったので、竜の爪痕のひとつでもあれば幸いと来てみたのだが。
まさか、本人が未だに健在だとは予想していなかった。
「えっと。……こ、こんにちは」
『ふむ、知っているぞ。人語の昼の挨拶である。人間の雌よ、こんにちは』
丁寧に挨拶を返された。これまた予想外の出来事に、ミリアは後ろにかけていた重心をそっと元に戻した。
話が通じるというのはありがたい。ひとまず一目散に逃げる必要はないらしいと、ミリアは今一度目の前の竜を見つめる。
「気を悪くしないでくれ。貴方の住処を脅かすつもりはない」
大きな体躯に、大きな翼。というか何もかもが大きい。
両腕になにも持っていないことを示しながら、ミリアは敵意がないことを竜に伝える。
心に抱いた僅かな恐れを察し、竜は大丈夫だとミリアに告げた。
竜はミリアをじっと見下ろす。
赤毛の髪に、豊満な身体。人間の雌の中では背は高い方だろう。人の美醜には疎い竜だが、それでも目の前の人間がいわゆる上等な女であることは理解できた。
供物だろうか。一瞬、頼んでもいない肉を捧げられていた日々を思い出すが、それにしては薄汚れたマントだ。卑しいほどではないが、神に捧げるにしては衣が見窄らしい。それに、人と交流があったことなど数百年前の記憶――
『なに、怖がることはない。元よりこの森もこの祠も、我のものというわけではない。久しぶりの客人だ、歓迎しよう』
竜の言葉に、ミリアはホッとしたように胸をなで下ろした。龍種と話すのは初めてだが、どうやら言葉通り歓迎されているようだ。
鱗で覆われた身体を見つめる。土塊か岩石のようで、生き物にはとても見えない。まるで古い石像が動き出したかのようだ。
『おっと、これは恥ずかしいところを。なにせ三十余年ぶりに動いたのでな、土草のやつらが我を寝床にしていたようだ』
「さ、三十年!?」
竜の呟きを聞き、ミリアは驚いて声を上げた。千年生きる個体もいると伝えられるが、時間の概念が人間とはまるで違う。
腕で鱗の苔や土を落としている竜を、呆然とミリアは見つめた。
考古学を嗜んで十数年。自分が学んだ時間など、この竜からすれば昼寝の間の出来事なのだろう。
古来より神として崇められてきた存在。現在では、確認されている個体など十体もいない。
『なんだ人間よ。我の顔になにか付いているか』
「あ、いえ……そうですね、目の上に苔が」
感動して眺めていると、竜に視線を指摘された。流そうと思ったが、つい瞼の苔が気になってしまう。
『ふむ、本当だ。すまない、礼を言う』
「い、いえ。こちらこそ」
くしくしと顔を両手で擦りながら、竜は頑張って身体の土を落としていく。細かい作業は苦手らしい。
『どうだ? 綺麗になったと思うのだが』
「あ、はい。大丈夫だと思います」
満足いったのか、竜はむふーと鼻息を荒くする。どうもイメージと違うなと、ミリアは不思議に思って竜を見上げた。
けれど、見れば嫌が応にも目の前の存在が神域のものであると確信できる。一夜にして国を滅ぼすことすら可能と言われる高位生命体。こうして会話していることが奇跡に近い。
学者としての好奇心は疼くが、機嫌を損ねれば殺される。あまり長く居座ってはまずいかと、ミリアは竜に一礼した。
「突然押し掛けた形になり、申し訳ない。貴重な時間を頂きました。ありがとうございます」
『ふむ? なに、我も久しぶりに誰かと話せて楽しかったぞ』
竜の機嫌が変わらないうちに。そう思い会釈をして振り返ったミリアを、竜は名残惜しそうに見送る。
『もう帰るのか?』
引き留めてしまったのは、退屈だったのだろうと竜は思う。