第四十二章 ひとつのおわりはじまり
「希望」なんて単語を自分が記したのは、もしかしたら初めてかもしれない。それくらい俺には遠く不確かな言葉だった。
でも、自然に指がそれを記していた。書き終えると、先程までの緊張はほどけ身体が楽になるのを感じた。
すると、純白の書は自分からページをめくり始めた。しかし中身は読めないというか、真白で何も記されていない?
小さな破裂音がした。俺の手にしたペンは粉々に砕け、それを風がさらっていった。
何もない手のひらを見つめながら俺が困惑していると、周囲にゆっくりと落下しているものに気付いた。林檎だ。だが、先程とは違い、赤い林檎も緑の林檎もある。もっと細かく言うと、臙脂も紅色もあるし、黄緑も黄色のもある。え、青や黒いのもあったぞ!
様々な色の林檎たちはその皮の色の書物へと姿を変え、地上へと落下していく。ユクドラシルから落ちる林檎は止まらず、林檎は本へと変化し、皆の元へと降り注いでいる。
その美しい光景に見とれていると、急に何か重さを感じた。スクルドが俺に倒れ掛かってきている。慌ててスクルドを抱き上げ、しっかりと翼に力を入れて浮遊を続ける。
俺はスクルドの顔を見た。少し疲れたような表情をしていたが、俺と目が合うといつものにこやかな笑みを浮かべた。
「ありがとう」
俺は黙って頷く。
「今、どうなっているんだろう。悪いことが起きているとは思えないんだけど……」
おれがそう尋ねると、とスクルドは少し困った顔をした。
「分からない。私の中から、力が抜けているような気がする。もう、私はスクルドとしての役目を終えたのかもしれない」
「そんな言い方しないでよ! ちょっと疲れてるんだよ。一旦地上に降りるから休んだ方がいい」
俺はそう告げて降りて行く。ペンは砕けてしまった。スクルドに何か言葉をかけてあげたいけれど、思いつかない。ただ、とにかく彼女には休息が必要なんだと思う。力がどうだっていう問題はその後だ。
俺は地上に降り立つと、スクルドを下ろしてあげた。今自分がいる場所はユグドラシルの根元付近なのだが、リッチが見当たらない? それに地上に落下しているはずの書物も見当たらないぞ。
特に魔力反応やらアーティファクト反応とかも感じない。邪悪な物の気配もないようだ。リッチのことだから安心はできないけれど、終わったのか?
そんなことを考えていると、仲間たちが俺とスクルドの元へと駆け寄ってくる。エドガー、蓮さん、ジェーン、グレイ、ハレルヤ……
皆疲れたような、少し警戒しているような、ほっとしたような、複雑な表情をしている。
エドガーががしっと俺の肩を叩いた。
「よくやった。さすが俺様の一番弟子だ。褒めてつかわそう」
満足げな笑みを浮かべたエドガーを見たら、自然と自分も笑顔になっていることに気付いた。俺はにやけたまま、黙って頷いた。
「ちょっと、なんかよくわからないけどこれでいいの? たしかに天人とかいうのもリッチもいなくなったみたいだけど……このユグドラシルとかいうのはこの姿のままでいいのかしら? それと、フォルセティ様は未だ龍の姿のままなんだけど……」
ジェーンの冷静なコメントで我に返る。確かにフォルセティさんは大きな龍のままだな……エメラルドの鱗を持ち、角度によっては虹色に光る大龍。思わず見とれてしまう美しさだ。
「フォルセティ殿はあの姿になると、どの位で元に戻るのか?」
蓮さんがグレイにそう質問をするが、彼は渋い顔をする。
「その……話では聞いていたことがあるが、フォルセティ様があのような大龍へと変化した姿は初めて見たのだ……一応戦いは一段落着いたようですとは告げたのだが……返事がない……」
「ならよ、そういうのはエノク教会のやつらに任せて、俺らは帰ろうぜ。たしかここら辺に帰る用のポータルがあったよな。いつまでもこんなつまんねーとこにいたくねーし」
「ちょっと! エドガー! また勝手なこと言って!」
ジェーンがそう突っ込みを入れる。そうだよな。でも、フォルセティさんを元に戻すにはどうしたらいいんだろう?
あ、そうだ。プロメテウスはどうなったんだ? 彼も消えてしまったのだろうか……
そうだよな……今、平穏を取り戻したってことは、彼は消えてしまったとか封印されたってことなのかな。彼は、悪い存在ではないはずだった。俺にはそう思えなかった。でも、どういう理由かは分からないけれど、彼との対話は許されるものではなかった。
ぼんやりと目の前の大樹を見る。その大樹は昔からあったように、ゆるぎない物だった。そういえば周辺の気温も穏やかに変化しているようだ。身を焼く砂漠の熱が弱まっている。
「スクルド、この樹はどうすればいいんだ? ほっとけばいいのか?」
エドガーがそう質問をする。スクルドは顔を曇らせ「ごめんなさい、分からないの」と力なく答えた。
「エドガー。さっきスクルドの身体からアーティファクトを取り出して、その力を使ったんだ。だからスクルドに質問をするとしても、後にした方がいいよ」
俺がそう言うと、エドガーは小さく頭を下げてスクルドの肩に優しく触れた。
「そうか。悪かったな。お疲れ様。ゆっくり休め」
スクルドは黙ったままちょっと苦しそうな顔をして、大きく頷いた。
「じゃあさ、アポロ。僕のピジョン・ブラッドを返してよ」
いきなりそう言われて何のことかと思った。そうだ、ハレルヤの大切な宝石を預かっていたんだった。
俺にそう告げたハレルヤの口調は、いつもみたく飄々としたものだった。先程みたいに緊張感があるものではない。
やっぱり、戦いは終わったってことだったのかな。ハレルヤが何者なのか分からなかったけれど、俺達をサポートしてくれていたのは事実だもんな……ハレルヤの力っていうのはどういうものだったのだろう? 彼はその力を見せてはいなかったようだったけれど……
そんなとりとめのないことを考えながら、首に下げていた宝石を外してハレルヤに渡す。しかし彼は受け取ろうとしなかった。
「それと、君がゼロって呼んでいる緑の宝石もあるだろ。それも僕に預けてくれないか? そうした方が彼の為になるんだ」
言葉に詰まった。そうだ。一応この場の戦いは解決したらしいのに、ゼロは元の姿に戻っていない。俺は宝石を取り出した。手のひらの宝石は、緑色の輝きのまま。アーティファクト反応は無い。
俺にできることはないのかな? ゼロの存在については謎が多い。俺が彼を元の姿に戻すと意気込んでいたけれど、やり方のヒントすら分からない。俺の力で彼を救いたい。
頭が良すぎるのか常識が無いのか話がかみ合わなくって、それなのにちびっ子みたいに俺を慕ってくれたゼロ。どこかしら、俺は彼に弟のような感覚を抱いていたのかもしれない。
彼にまた会いたい。でも。
俺はぐっと奥歯を噛みしめ、宝石を首から外し、ピジョン・ブラッドと合わせてハレルヤに渡した。
「僕のこと信頼してくれてありがとう」
ハレルヤはそう返事をしてくれたけれど、なぜだか急にもうゼロとは会えないような気がしてきた。でも、きっと彼は幸せになる。ハレルヤの少し真面目そうな表情を見ると、根拠はないけれどそんな気がした。
今までありがとうゼロ。元気になれよ。
そんな俺の感傷を吹き飛ばす、凄まじい音がした。全身に鳥肌が立つ。空気が震えるすさまじい咆哮。
でも、リッチの気配らしきものはないのだけれど……なんだ? 地震や雷鳴? ではなさそうだが……でもその位の衝撃で、少しよろけてしまった。
周囲を確認しながら困惑していると、エドガーが大声で怒鳴った。
「おいクソオヤジ!! いきなり叫ぶんじゃねーよ!! びっくりするだろうが!!」