第三十九章 龍戦士の祈り
ぞくりとした。これは、スクルドの声だよな……
俺は慌てて周囲を見回すが、スクルドらしき姿も魔物の姿も見えない。
「惑わされるな! この声はバンシーの類だ! 死を招く声に耳を貸すんじゃない!!」
グレイの大声で俺は我に返る。よく目をこらすと、何か靄のような物が周囲に漂っているような気がしてきた。しかし、グレイの作ったバリアの中にいるおかげなのか、俺が聖職者のスキルが無いからなのか、はっきりとした姿が見えない。
「普段なら、俺がバリアに集中している時にギルディスが浄化の魔法を使っているのに……クソ!」
グレイのその苛立ったつぶやきは、痛ましい物だった。親友がいなくなった傷が簡単に癒えるわけがない。
「分かった! 俺が太陽の外套で自分にバリアを張るから。その間にグレイは浄化の魔法を使ってよ」
「駄目だ。ここの悪霊を甘く見るな。俺はフォルセティ様からお前の命を預かるように命令を受けている。身勝手な行動で命を粗末にするんじゃない」
返ってきたのは厳しい言葉だった。俺は何も言えずに歯を食いしばる。クソ。俺がもっと強かったら。守ってもらっているばかりなんて、嫌だ。
「蓮、エドガー様にこの本を渡してくれないか?」
グレイがそう言って蓮さんに手渡したのは、小さくて使い込まれた表紙の本だった。何か大切な物らしいけれど、魔力反応はないから、マジックアイテムではなさそうだ。
「これは、エノク教会の聖書か? エドガーに浄化の呪文を使ってもらうということなのか?」
グレイは黙って首を縦に振った。でも、エドガーは光の剣は使えるようになったけれど、光魔法はどうなんだ? それに教会の人が使う浄化の魔法なんて扱えるのだろうか。
多分、蓮さんも同じことを思ったのだろう。その場で少し渋い顔をしたまま動かない。
いや、その本を受け取ると、素早くバリアの中から出て駆け出した。蓮さんならこの闇の瘴気の中でも行動に支障はないようだ。
しかし、バリアの中にいるのに、誰かの叫びや嘆きが聞こえる。スクルドらしき声は、もうしない。その代わり、声の主は増えているような気がする。怒り、嘆き、叫び、悲しみ。そういった負の感情が辺りに渦巻いているようだ。
あ、こちらに駆け寄ってくる人影が。それはジェーンの姿だった。息を切らせてバリアの中に入るジェーンは、呼吸を整えながら、小瓶に入ったポーションらしきものを口にする。
「あれ? エドガーは置いてきていいの?」
俺はそう言いながら空を見ると、スレイプニルらしき物はいないのに、エドガーは素早く空を左右に移動しているようだ。しかし、俺には敵らしきものが見えないのだが……戦っている? 何かから逃げているのか?
ジェーンはポーションを飲み干し、大きな息をはいた。彼女は俺の質問には答えずに、深刻そうな声でグレイに話しかける。
「これ、どうなってるの? そこら中に悪霊が漂っているみたいな……前にレギオンが出現した時と似てるの……」
「レギオン?」
「悪霊の軍団。人の頭部が集まってできた巨大な風船みたいなのが沢山出現してくるの。人の嘆き憎しみ怒り、そういった物を原動力にして生み出される悪霊。恐ろしいのは、そいつらがどんどん巨大化してとんでもない大きさに膨れ上がる。しかも、亡者の嘆きで人々を絶望させて命を奪い、レギオンに殺された者はレギオンの一部になる。もしレギオンなら、出現する前に先手をうたなきゃ」
「うわ! そうなのか! でも、俺には瘴気は感じられるけれど、悪霊の顔までは分からないんだけれど……」
「それなら、無理に見えなくてもいいから。それよりグレイ、どうなの? レギオンが出現しそうなら早めに手を打った方がいいんじゃない?」
「それはエドガー様に任せてある。安心してくれ」
一瞬ジェーンの反応が止まった。多分、俺と同じことを考えたはずだ。そして、俺と同じ疑問を口にした。だって、エドガーは光の剣を使えるようになったとはいえ、ずっと魔法が使えなかったし、エノク教会の信者でもない。浄化の魔法なんて使えるのだろうか?
「できるはずだ。おそらく、レギオンや他の恐ろしいアンデッドが完全に出現していないのは、フォルセティ様がこの場を鎮めてくれているからだ。俺とギルディスがいるならば二人で祈りを捧げる所だが、それはかなわない。エドガー様の力を、俺は信じる」
エドガーの戦闘力が凄まじいことはしっている。でも、魔法や聖なる力を使うことに関しては力を得たばかりのような気がするんだけれど。でも、グレイが防御に集中している今の状況ではエドガーに頼らざるをえないってことなのかなあ。
「そういえばハレルヤ、どうにかできないの?」
ジェーンがハレルヤにそう告げた。そうだ。彼なら色んな魔法やら使えるはず! そう思ってハレルヤを見ると、瞳を閉じたまま動かない? え? 立ったまま寝ているようにも見えるぞ。
「ハレルヤ? どうかしたの?」
俺がそう言いながら彼に触れようとすると、「触るな!」とグレイが声を上げた。
「先程からずっと、ハレルヤには俺が使うバリアの魔力源になってもらっているんだ。彼に余計な負担をかけないでくれ。俺一人で強力なバリアをかけ続けるのには、限界がある」
そう言われると、集中したまま動かないような、深い瞑想状態にいるようにも見えてきた。とにかく、エドガーを頼るしかないってことか。
そう思っていると、空で奇妙な動きをしていたエドガーが地上に降り立っていた。その近くには蓮さんがいる。何やら話し合っているようだが、ここからではよく聞き取れない。
と、どこかで感じたような、心地良い感覚に包まれるような気がした。身体の内からあったかくなるような、気持ちが前向きになるような、そんなぬくもり。
「彷徨う者よ 祈りなさい
汝らにも等しく 安息の日はおとずれる
神の愛は等しく 万物を抱き慰撫する
汝の穢れは払われ 大地の熱を取り戻すだろう
恐れることなかれ 汝もまた天の子である」
その言葉の持つ力強さと清らかさは、フォルセティさんが口にした言葉に似ていた。
これは、エドガーが口にした浄化の言葉……だよな……
気のせいか、辺りから瘴気が消えたような気がする。俺は少し不安になって無言でジェーンを見ると、彼女は黙って首を縦にふった。大丈夫ってことだよな……?
「つまらないね」
その声で一気に緊張が戻ってくる。恐ろしくて、嘲るような声。姿は見えないけれど、これはリッチの声だ!
「世界に住む人間は等しく凡人。等しく死を迎える。そして、憎しみ嫉み妬み怒り、報われずに惨めな生と共に歩み、死んでもそれは終わらない。つまらないねえ。本当につまらない」
「うるさい! 余計な事を言いやがって! 何が目的なんだ! 姿を現せ!」
俺がそう怒りをぶちまけるけれど、やはりリッチの姿も存在も分からない。だけれど、悪意のつまった声は続く。
「アポロ、忘れたのか。凡愚が求めるものこそ戦火。大衆の為に君ができることをしないで、何のために君は存在しているんだ?」