第三十一章 夢から覚めても
シェヘラはエドガーが握った手の上に、もう片方の、骨しかない手を重ねた。
「私は……昔、身分違いの恋をした。今でもその人を愛している。夢の、悪夢の力を持つ、傲慢で残虐な王様。でも、なんでかしら。千の夜を越えて、今は私が恐ろしい黒夢姫。人間は誰もいない城の、たった一人だけのお姫様」
そう告げると、シェヘラはエドガーに重ねていた手を離し、どこか遠くを見つめているようだった。それから、何かを探るような口調で語り出す。
「私は……シェヘラザード。私は……黒夢姫。私は……殺した。愛しい人を。私は、愛しい人を、あの人を愛していた……愛していたのかしら? 分からない。私は、誰なのかしら? 私は、沢山の人を……」
その時、髑髏の眼窩から、転がる財宝の間から、大小様々な蛇が出現していることに気が付いた。俺は寒気を覚え、無意識の内に太陽の外套を発動していた。
光が辺りを照らす。バリアが割られることも、蛇が襲ってくるわけでもない。でも、この状況はあまりにも危険だ。
「エドガー!! シェヘラから離れて!!」俺は大声で叫ぶ。しかし、彼はその場から動こうとはしなかった。
「それ以上はいい」とエドガーは彼女の口元を、大きな手でそっと包む。
「愛した人との思い出は、シェヘラだけの物だ。大切にしまっておくといい。でも、悪い思い出は捨てちまってもいいんだ。俺が忘れさせてやるから。もう、喋るんじゃねえ」
エドガーの声に応えるように、シェヘラはうなだれる。
よく分からないのだが、シェヘラザードが暴君の王様を殺して、その結果黒夢姫になり、多くの人を手にかけた、ということだろうか。
もし、そうだとしたら、それは許されないことだと思った。でも、多分エドガーはそんなことは承知で、彼女を許そうとしているのだ。
それは愚かでいけないことかもしれない。でも俺は、この場面で彼女を許すと言えるエドガーの強さと優しさに胸が熱くなった。
「アポロ。来て」
「はい!」
これまで全然役に立ってなかったし、いきなり名前を呼ばれて驚きつつ、俺はシェヘラの前に立った。彼女の顔は、やはり最初に見た時よりも屍に近づいていた。それを思うと胸が痛んだが、顔にはださないようにして「どうしたんですか」と尋ねる。
「あなた、私の兄弟の末っ子にそっくり。見た目もそうだし、落ち着きなくて、好奇心旺盛な所も」
そう言った彼女は微かに笑ったようだった。え? それだけ?
そう思っていると彼女は言葉を続ける。
「あなたは千以上の物語を知っているのね。ちょっとだけ嫉妬しちゃう。誰かに利用されちゃ駄目よ。物語は万人の、世界の為に。勿論、アポロ自身の為に」
「え? どういうこと?」
彼女は俺の質問には答えず、エドガーに向き合うと、骨しかない両手でエドガーの大きな手を握った。
「今度恋をするなら、貴方みたいな人にするわ。千年後、迷子にならないように祈っていて」
エドガーは黙って、微笑み頷いた。それを合図にして、世界が、シェヘラの姿が薄くなっていく。エドガーが優しく彼女の名前を呼ぶが、返事はない。
ゆっくりと、俺達は夢から覚めていく。もうここには財宝も、屍も、蛇も、真鍮の都もない。お城も羊人間の執事だっていない。俺達は砂漠の中にいた。
急に俺とエドガーが出現して、周りが消え去ったから、皆は驚いている様子だった。
でも、俺は気づいた。すべて消えたわけではないことを。
エドガーの手には可愛らしい菫のリュートと共に、一枚の読めない文字で書かれた一ページが握られていた。それこそが無限のひとひらだと、俺は確信した。
「よく分からないけど、任務達成って感じ? ご苦労様」
ジェーンがそう声をかけた。多分、ジェーンも分かるんだ。だって、不思議な魔力反応を放っているんだ、あの、一枚のページから。
でも、エドガーは何だか浮かない顔だった。
「彼女は……シェヘラは未だ迷ってんのかな。もし、彼女の魂を鎮められたならば、この銀龍聖騎士ってのの力も、まあ、悪くねーかな」
エドガーはそう口にして、自分の手をじっと見た。俺は何か言葉をかけてあげたかったが、安っぽい慰めしか思い浮かばなかった。だめだな。余計なお世話だって分かってるけどさ、助けになりたいんだ。
そんな物思いにふける俺達の前に、なぜかフォルセティさんがやってきて一言「無限のひとひらをよこせ。お前の用は済んだ」