第二十八章 わたしなんてしらない
「シェヘラ、大丈夫か」とエドガーが声をかける。しかし彼女の視線は相変わらず俺達を見ていないようだった。エドガーは厳しい顔をして、俺に問う。
「アポロ、ヒールの呪文か何かアーティファクトとかで、彼女を回復できるか?」
「う、うん。やってみる」と俺は少し困惑しながら答える。俺の水魔法のレベルでは、回復できるとは思えないし、かと言って使えそうなのは、あ、千のチャイム? 可能性はある。
そう思い、俺は彼女の近くに歩み寄ろうとした、その時、つま先に本が当たった。自動でページがめくり続けている本に。
その瞬間。俺は別の場所にいた。
だが、何かが先程とは違った。さっきは物語の中に入り込んで、登場人物の一人になっているようだった。でも今は、ワープしたような感覚。さっきはどこか夢の中のような感じだが、今の意識ははっきりしている。
俺は周囲を見渡す。白い壁は金属製らしく、アカデミーの建造物と似ている。ここにあるのは、清潔そうなベッドや、仕切りやカーテン、硝子の棚には薬品や何かの器具が収められている。診療所、病院?
白い金属製の不思議な壁を除けば、ここは街の病院の一室のようだった。
ということは、俺が患者なのか、医者なのか?
そんな思いが頭をよぎると、自分の目の前に一人の人間がいることに気が付いた。白衣を着たその人間は、妙な顔立ちをしていた。何と言ったらいいのだろう……失礼だが、見ていると不安になるのだ。男か女かも断定できない。マネキンのような人物。その人間と目が合うと、そいつは口を開き喋り出した。
『わたしは空なんです。身ぶり、反射、習慣などしかありません。わたしは自分を満たしたいんです。だからこそ、わたしは人びとを精神分析するんです。(中略)わたしは同化しません。人びとの思想、コンプレックス、ためらいを取ります、ですがわたしにはなんにも残りません。同化しない、というか同化しすぎる……それらは同じことです。もちろんわたしは言葉、容器、レッテルは取っておきます。わたしは情熱や感動を整理するための用語は知っていますよ、でも、自分でそれを感じることはないんです
ボリス・ヴィアン 心臓抜き』
意味が分からない。だから俺は思わず「え、何を言っているの?」と言ってしまった。しかし相手は黙ったまま。
ここで俺はあることに気が付いた。今までならこういう質問なんてできずに、次の物語へ次の物語へと飛ばされていたことを。流されるだけじゃ駄目なんだ。自分から介入しないと切り開けない。
「ねえ、君は誰なの?」
俺がそう言うと、マネキンのような顔立ちが変化していく。赤茶色の髪に、茶色の瞳。大きな瞳は、快活そうで、好奇心旺盛そうな印象を受ける。それは、俺の姿だった。
これは、何だ? 俺が治療対象ってことか?
まさか! 俺はその考えを振り払う。ここまできていきなり治療だなんて、話がおかしい。俺がそう考えていると、またその顔が変わった。
銀水晶の髪、エメラルドグリーンの瞳。少し優男っぽい甘いマスク。
俺の全身が震えた。声が出なかった。でも、その顔は、ゼロだった。俺がずっと、元の姿に戻してあげたいと願っていた、ゼロだった。
興奮状態で、でも何も言葉にできずに、その宝石の瞳を見つめる。彼は俺と同じく黙ったまま、動こうとしない。
ここで、ふと、少し冷静になった。俺は胸元にしてあるペンダントを確かめる。ブラッドスターの横には、エメラルドグリーンの鍵があった。
目の前にいるのは、ゼロではない。俺でもない。それに、俺に治療の必要はない。だとしたら。
俺は一歩踏み出し、目の前の人間の手を優しく握った。
「シェヘラ、どうかしたの? 何かあるなら助けになるよ。俺に教えて」
目の前の人間が、景色が溶ける。白い診療所は数秒で消え失せ、真夜中のような暗黒の世界が現れた。俺はすぐにライトの魔法を使って辺りを照らす。よし、魔法は有効のようだ。
ここは、洞窟なのか? 随分天井が高い、洞窟らしき場所に俺はいた。魔力反応はないし、敵の気配も感じないのだが……その代わり、本当にただの洞窟なのか、ライトで照らしても周囲には岩肌だけ。でも、とりあえず進んでみるしかないよな……
「お、お前もここにいるのかよ」




