第二十五章 虫 モデル ぬくもりの一片
心が穏やかになる感覚。誰かに優しく抱かれているかのような。俺は身体を動かし前に進もうとした。
しかし、何かがおかしい。俺の身体は純白の世界の中で動いている。俺は身体を動かすことができる! なのに、俺の腕は妙な曲がり方というか、関節が、おかしい? しかも俺の手の先にはかぎづめらしきものすらついていた。
俺は白い翼を広げようとした。しかし、代わりに開かれたのは、透明で薄い翼。身体を動かすのも調子が悪くぎこちない。それに、身体が固いようだ。そうだ。俺は、昆虫になっていたのだ。
昆虫? 馬鹿なことがあるだろうか? 何かの間違いだ。どうせこれも何かの幻術かまじないにちがいない。だって俺は飛揚族なのだ。アーティファクトの力を使う、飛揚族……
俺は試しに商人の寝床を使おうとしたが、何も出現することはない。指や腕にはめられた指輪も腕輪もない。俺は、本当に昆虫になってしまったのか? エドガーとシェヘラの名前を呼んでみる。しかし、それは声にならなかった。俺は、「虫の言葉」を扱えないらしい。
しかし、こんな状況だというのに、俺は割と冷静に、純白の世界を慣れない手足で進んでいた。冷静というか、その先にある物に惹かれて、というのが正確かもしれない。
白い世界の中央にある物。金色の甘い蜜。俺は全身にそれをこすりつかながら、一心不乱に貪る。ああ、この世にはこんなにも甘美な食べ物があるのか! 今まで口にしたどんな美食とも異なる、麻薬のごとき誘惑。
俺は黄金色の虜になっていた。その時、白の世界はわずかに震え、花々が囁く声がする。
『そしりをゆるす
清い蝋の衣を着た美しい百合の花よ
一匹の虫が熱心にお前をほろぼさうとしている、
竪琴をかなでる詩人のやうに
お前の芯からは金粉がこぼれて敵を被ふ
フランシス・ジャム』
俺は、転がるように黄金色まみれになりながら、そこから逃げ出そうとした。甘い蜜の世界。豊潤な芳香と柔らかい城の世界。そこから逃げ出し、俺は身体中の金粉をはらっていた。手で!
五本ある! 人間の手だ! 俺は自分の目で、指で、全身を確かめる。身体はどこもおかしくない。羽だってあるし、動かせる。先程までの言葉や光景はやはり夢、幻術だったのか?
俺は疲労感を覚え「ふう」と大きなため息をつき、粗末な椅子に腰を下ろした。
粗末な椅子?
そこは、あまり綺麗とはいえない家の中だった。いや、家なのだが生活感が無いというか、そこらに土くれや人形が転がっている。魔道具? 何かを作っている最中?
俺は、自分の目の前に一人の男がいることに気が付いた。彫りの深い顔立ちで、やせぎすの、神経質そうな男。彼はカンバスにデッサンをしている途中らしかった。彼は鷹のような鋭い目で俺を見ると、先程の俺のようなため息をつく。
『「おお、君は美しい」と彼は嘆声を発する。「とらえるには美しすぎる、それは私の力を超えている」と。美しいのは私の顔ではない、彼が見ているものである。モデルは誰でもよかった。すべてのものが彼には、「とらえるには美しすぎる」ものとして
見えていたのである。
芸術家との対話 矢内原伊作』
「すべてが、うつくしすぎて、とらえられない?」
意味が分からないまま、俺がそう呟くと、世界が光に満ちた。比喩ではなく、俺は光の洪水の中で漂っていた。不思議な浮遊感と多幸感。
「母さん?」
ふと、何かを感じてしまった。それは、俺の心の奥底に、ずっと秘めて鍵をしていた感情だった。それを求めてしまったら、触れてしまったら、あの砂の本とは別の意味で、俺の人生が終わってしまうような気がして、全身に鳥肌が立った。
「母さんは、僕を捨てたのか? 母さんは、僕のことを……すき……でしたか?」
俺は無意識の内に両手で口元を押さえていた。荒い呼吸。震える身体。ふと、顔を上げると、俺は片方の瞳から涙を流していた。だが、そこにいたのは本を手にしたシェヘラで、ここは謎の図書館の中だった。
「アポロは特別感受性が強いのね。それともアーテイファクト使いだからかしら? それにしても、天使を描くなんて、ジャコメッティは困ったんじゃないかしら。それともクールベの前に出てきてもらうのも面白いわね」
シャヘラは上機嫌でそう語るが、俺にはその意味が分からないし、聞いた言葉はすぐに流れて行った。