第二十四章 数多の物語
「おい、アポロ。大丈夫か?」
エドガーが心配そうに俺を見つめている。俺は慌てて「う、うん。平気みたい」と返す。
シェヘラは小さく笑って言う。
「アポロは特別なのね」
「特別? アーテイファクト使いってことですか?」
シェヘラは微笑んだまま答えてくれない。色男が、
「俺じゃあシェヘラを満足できないっていうのか?」と少し拗ねた素振りを見せる。
「貴方達はどちらも好きよ。貴方達は聖なる者。光を、歌を、詩を知る者。千の夜を思い出させて。千の夜を歩んで。そして、千の夜を還してあげて」
「シェヘラ。その言葉はどういう意味なんだ?」
エドガーがそう尋ねるが、彼女は無言で微笑む。
彼女は真白な手の平を広げると、そこには一冊の本が出現していた。
「かつて私は千の夜を知っていた。エドガーやアポロといると、少しずつ、物語が私の中に蘇ってくるの。お話、してもいいでしょ?」
そう告げた彼女の表情は、あどけない少女の様だった。俺もシェヘラが言っていることの意味は分からないけれど、静かにその言葉を待つ。
『
前時代は太古の種族たちが
まだ花咲き綺羅を飾って、
童子らは天国へ行くために
苦悩や死を望んでいた。
たとい快楽と生命は語りはしても、
数多の心は愛の為に疲れた。
全時代は 若き熱情に燃えて
神自ら示顕し給い、
愛の情けに
その楽しい生命を
早い死にささげ給うた。
そして不安や苦痛を払いのけ給わず
それだけでわれらには貴くもあった
我らは不安な憧れを抱いて
暗い夜の中に包まれた前時代を眺める。
このはかない現世に住んでいては
我らは熱い渇望も医されはしない
我らは故郷へ帰らなくてはならない、
あの聖なる時代を見るために。
ノヴァーリス 夜の讃歌』
その言葉の響きは、預言を口にする、スクルドに似ていた。やはり、俺は発せられた言葉の意味をほとんど理解できなかった。それなのに、なぜかそれは心地よかった。
詩人さんが歌ってくれた、神話の話、どこかの国の物語を思い出す。世界と歴史の広さの中に放り出されたような気持ちになって、とまどいながらも、わくわくしてくるのだ。
シャヘラは本を閉じると、手の平には別の本が出現した。やはり今回も、本棚には触れていない。
「久しぶりに口にすると、何だか不思議ね。貴方達はもっと不思議かもしれないけど。でも、まだ始まったばかりよ。夜は無限。本も、記憶も、歴史も円環を成し、回転し続ける」
彼女が意味深な言葉を告げたかと思うと、目の前が真っ暗になった。図書館の灯りが消えた? 俺はライトの呪文を唱える……呪文が、使えない?
俺はエドガーの名前を呼んだ、はずだった。しかしそれは声にならななかった。
なのに、俺はエドガーの存在を感じていた。真っ暗なのに、触れているわけでもないのに。
「エドガー」と、心の中で呼んでみる。答えはない。
答えはないのに、身体のどこかで、俺はエドガーの存在を感じていた。手を握っているとか、身体が触れ合っているとか、そういうのともまた違う。敢えて言うならば、同化している?
しかし、俺にエドガーの思考や声は伝わらない。なのに、俺は自分の身体がまるで竜人であるかのような、妙な錯覚を覚えていた。
戸惑う俺の前には、草木が生い茂る美しい湖が広がっている。そこには亜麻色の髪をして、白蜜色の肌の女性が裸で水浴びをしていた。
彼女はこちらに気付いたらしかった。彼女は豊かな髪を結い上げ、足を水面の上で動かし遊ばせる。その度に、豊かな乳房が揺れる。
彼女は小首をかしげると、名前を呼んだ。名前。それはきっと俺の名前だ。でも、彼女とは初対面だ。
それに、服を着ていない女性を前にしているのに、俺は全く動揺していない。
それどころか、胸の奥に熱い欲望のような物が燃えていた。触れたい。俺のものにしたい。何よりも、彼女は美しい。
俺は欲望のまま近づき、声をかけようとした。その時、彼女は俺に向かい歌う。
『キプリスの小鳥、鶺鴒よ、
萌え出る妾たちの欲望に、合わせて歌を唄っておくれ、
乙女の肉体は瑞々しく、地面のやうに花に覆われる。
妾たちのあらゆる夢に 夜は近づき みなひそやかにそれを語らふ
ピエール・ルイス ビリチスの歌』
甘い、香り。純白の色に俺は包まれていた。俺は陶然となりながら、それを全身で感じていた。