第十九章 圧倒的な存在
蓮さんの怒鳴り声で俺は水辺の景色に戻された。水辺と言っても、水の魔力を感じることがない、俺の衣服も濡れることがない。そして俺の頭は未だ、甘い酩酊の中にあった。それを与えてくれた存在のことを意識してしまう。目の前にいる青年。獣を背負う皇。
「龍と天人を連れて来るとは、試しに喰えと言ってるのではないのか?」
その言葉を発したのは上皇、四式朱華だった。彼は魅惑の微笑を浮かべており、それとは対照的に、修羅の金の瞳で蓮さんは上皇を睨みつけていた。
そしてあのエドガーでさえも、俺の様に腑抜けたような、幸福なような、緊迫した状況に不釣り合いな表情をしている。彼が、愛らしい龍の子供のように見えてきた。おかしい。そのことは分かる。なのに、俺は、俺の身体が自分の物ではないような変な気分だ。変で、幸福だ。
「もう一度言う。西京の悟道閻慶へ文を書いて、八咫鏡を貸してもらいに来た。世界の存亡、いいや、そんな理由じゃない。僕が奴を滅する為に必要なんだ。頼む」
上皇は大声で笑い、口にした「ならば、お前の手でそこにいる男を殺してみろ。どちらか一人でも、どちらも殺してもいいぞ。やれ。俺の力が継がれているのか、見物だ」
上皇の言葉が、心地良く俺の心に響いた。彼の傍らには拾嘉がいることに今更気が付いた。ゆらめく虹の中に上皇がいて、俺達を楽しそうに眺めている。俺はまたエドガーを見た。あのエドガーがこんな言葉を吐かれても、口を挟むどころか構えさえとっていない。それは、俺も同じだった。殺されたいなんて思いは、無かった。死ぬ、ということが分からないわけでもなかった。頭は働いているはずだった。ただ、俺は甘い夢の中でこの状況を眺めていた。
ちらりと、光が俺の瞳に映る。修羅の瞳の奥にある、光のきらめきの魅惑。
「お前が屍鬼に堕として、その心臓を喰らわなければこいつらの能力を生かすことはできないはずだ。下らない余興をさせるな」
蓮さんの冷ややかな声が、氷菓子のように喉に抜けていった。心地良い。その言葉が、甘い菓子がもっと欲しいと思った。
「おい、蓮。俺達を殺しても、その八咫鏡の力を借りてあいつを殺したいのか? 俺は怒らねえし、恨まねえし、お前のことを変だなんて思わねえ。お願いだ、正直に答えてくれ」
それはエドガーの声だった。その口調は迷うような優しく尋ねるような、不思議な気がした。エドガーらしくないという理由だけではない。そう、エドガーも俺と同様に何かを受け入れているような、甘い夢の中でおとぎ話を聞いているかのような風で、何故だか俺の心も晴れやかだった。いや、暖かい中で、どこか霞がかったような……
「おい、碌典閤。お前の連れに正直に話す時が来たんじゃないのか」拾嘉がそう口にした。
「何をだ」と蓮さんが冷静に返す。
「ただ一人、俺の血を受け継いだ息子だってことだ」
上皇がそう口にすると、蓮さんは上皇ではなく、俺達に向き合った。
「少し、つまらない話をする。聞いてくれるか」