あいつの憂鬱
さて、ひな祭りである。
私はこの日に備えて特別企画を用意していた。
「いや、みこは受験でしょ? お店はいいからさっさと勉強しときなさいよ」
「何言ってるの、母さん。私は受験生である前に『野乃屋』の娘。この稼ぎ時に何もしないなんてあり得ないわ」
私はドンと机を叩く。
ここはお店の二階にある事務室兼会議室。
お店のメンバーを集めてひな祭りに向けた企画会議だ。
「あり得ないのはみこだよ。滑り止めはうまく合格したけど、本命の県立高校はまだなんだからな。行きたい高校へ行きたかったら、ちゃんと勉強しとけ。落ちたら後悔するぞ」
父さんもやる気のないことを言う。
何よりお店が大事に決まってるのに。
「勉強もちゃんとしてるわ。それはそれとして、お店の方の手も抜けないわよ。手を抜いて負けたら後悔するに決まってるんだから」
「負けたらって、また『オオキタ』と勝負する気なのね。とりあえず休戦しときなさいよ。滝川さんに言っとこうか?」
滝川さんは『スーパーオオキタ』の生菓子部門を支えるやり手のパートさんだ。今まで私とは数限りない勝負を繰り広げていた。
たまにウチの和菓子をチェックしに来るので、敵ながら母さんとも知り合いになってしまっている。
「情け無用。そこにイベントのある限り、『野乃屋』と『オオキタ』は戦う宿命にあるのです。私の受験なんてその戦いの前では取るに足らないものと言えましょう」
「だが、こんな事をしておいて受験に失敗するのは許さんぞ」
祖父さんがギロリと睨んでくる。ちょっと怖い。
「まぁ、ちょっとの息抜きくらい、いいんじゃないかい」
祖母さんが優しく取りなしてくれる。ありがたい。
「息抜きではありません。本気です。私はいつだって本気で勝負しているのです!」
高々と拳を振り上げる。
もはや、誰にも私を止める事は出来ないのだ!
そんな日の夕方。
今日も由起彦がお店にやって来た。
「ちわーっす」
「いらっしゃい。なんか、あんた元気ないわね。大丈夫なの?」
今だってうなだれている。
ここ最近、ずっとこんな感じだ。それと言うのも。
「まだ私立落ちたの引きずってるの? もういい加減、忘れなさいよ」
「そんなの関係ないぞー。どうせあそこは滑り止めだしなー」
「そうよ、ただの練習なんだから。本番がうまくいけばそれでいいのよ」
「お前は余裕だよなー」
「まぁ、私は合格だしね。どっちみち、あそこは遠いから行けないんだけど」
「はぁ、受験なんて早く終わんねぇかなぁ」
どうにも元気がない。
初の受験、というか、初めて本格的に勉強に取り組んで大いに参っているようだ。
当然とも言えよう。こいつは部活のハンドボールに青春を捧げた運動馬鹿なのだから。
うーん、ちょっと見てられないな。
「明日、学校が終わってからビラ配りするんだけど、あんたも手伝ってよ」
「はぁ? 俺勉強あるんだけど」
「あんたにはいい息抜きになるわよ。私は本気でビラ配りだけど」
「一日の遅れが積もり積もって結果につながってくるんだぜ?」
「ああ、塾の冬期講習でそんなこと言ってたわね。でもそんなのあんたの柄じゃないわ。何も考えずに私の言うこと聞いてればいいのよ」
「まぁ、いいけどな。どうせみこは言い出したら聞かないんだし」
「その通り」
この後私が選んだ和菓子を買って、由起彦は帰っていった。その背中はとても情けなかった。
そして次の日、ビラ配り。
駅前で由起彦と二人でビラを配っていく。
本当なら、二手に分かれて配りたいところなのだが、今のこいつを一人で放っておくのは何だかまずい気がした。それほどに、元気がない。
「よろしくお願いしまーす」
「『野乃屋』で期間限定品を販売しまーす」
二人並んで帰宅途中のお兄さん、お姉さんにビラを渡していく。
「あれ? みこちゃん、お店のお手伝いなんてしてていいの?」
声をかけてくれたのは大学一年生の咲乃さんだ。
「お店の手伝いは何よりも優先しますよ」
「いや、受験は? もう試験は始まってるんじゃないの?」
「勉強は勉強でしてますから。それよりお店ですよ」
当然の事である。私は誇らしげに胸を張る。
「ああ、そうなんだ。でも水野君まで引きずり込むのはどうかな?」
と、由起彦を気づかう。しょっちゅうやらかす人だが、基本、私たちには優しいのだ。
「勉強なんてどうでもいいですよー」
力なく言う由起彦。
いや、今もめちゃくちゃ元気ないの、受験のせいでしょうが。
「うーん、でもちゃんとやっとかないと後悔するよ。どうせ後ひと月のことなんだし。こういうの、後でいい経験になるしね」
「いい経験にですか?」
私が聞いてみる。受験なんて、何の役にも立ちゃしないんでは?
「そうだよ。頑張ったことは後から自信につながるからね。これは去年、大学受験をくぐり抜けた私の経験談」
「私はいつもお店を頑張ってますよ。水野君は部活頑張ってましたし」
「好きなことは大抵頑張れるよね。苦手なことを乗り越えるのがいい経験なんだよ。やってるうちに面白くなったりもするし」
そうなのかな? 私なりに英語なり国語なり頑張ってみたが、あいかわらず苦手なままだ。面白いなんてこともない。
そうやって首を傾げていると。
「大人はみんな、勉強しろって言うでしょ? やっぱりそれだけ大切なことなんだよ。大抵みんな、ああ、あの時もっと勉強しとけばなぁ、って思うらしいよ。だまされたと思ってやっときなよ」
うーん、だますのは咲乃さんの得意とするところだが。
「まぁ、適当にやっときますよ。近くの高校じゃないと、通えませんしね」
「俺も遠くは嫌ですしねー」
「通学ありきか。まぁ、それでもいいのかな? じゃ、二人とも息抜きも程ほどにね」
咲乃さんは軽やかな足取りで去っていった。
そう、受験勉強は大事なのだ。私にとって、お店よりかは劣るけども。
それなのにこいつのやる気のなさ。マジでヤバいんではないか?
しばらくして高瀬と柳本がやって来た。元ハンドボール部で由起彦の友達だ。そして私たちの仲を冷やかすウザい奴らなのだ。
「よう、水野」
「何してんだよ」
「おう、ちょっとなー」
「私のお店の手伝いよ。何か文句ある?」
最初から強気な態度で迎え撃ってやる。
来るなら来やがれ。
「ああ、息抜きか。まぁ、そういうのもありかもな」
「たまには休まないとな」
あれ? なんか反応がいつもと違うぞ。
「俺はむりやり付き合わされてるんだけどなー」
「それでもいいんじゃないか?」
「お前、ずっと試験ミスったの引きずってるからな」
「だよね。だから私も引っ張り出したのよ」
「野宮にしてはいいアシストだ」
「まぁ、野宮の場合は息抜きにかこつけてただ働きさせてる気がするけどな」
こいつらにしては随分大人しい。やっばり由起彦を気づかっているのだろうか?
と、由起彦が深いため息をついた。
「まさか滑り止めに落ちるとはなー」
「今さら言うなよ」
「運が悪かったんだって」
高瀬が由起彦の肩に手をやって慰める。こいつらなりに友情はあるようだ。
「でも高瀬は本命の私立に通ったんだろ?」
あ、そうなんだ。
「まぁ、そうだけど。俺の受験は終わった」
「今、家で何してるんだー」
「ゲームばっかしてる。大分積んでたからな」
「いいよなー」
情けない、あまりに情けない由起彦の声。
「お前も頑張れよ。もうちょいの我慢だって」
「柳本君はどうなの?」
「一応本命は県立だけど、私立も通った。まぁ、どっちでもいいわ」
「お気楽なものね」
「はぁー、俺だけだよ。全然駄目だ」
ついにその場でうずくまる由起彦。
「ウザいわねー。要は県立の試験がうまくいけばいいだけじゃない」
「簡単に言うよなー」
「今の野宮の言い方には愛が感じられなかったな」
「もっと愛で支えてやれよ」
「愛とかないし」
二人を睨み付けてやる。
するとなんだか情けない顔で由起彦がこっちを見上げた。愛がないは言い過ぎたか。でもこいつらの前で下手なことは言えない。
「じゃあ、俺らもう行くわ。野宮、あんまり振り回すなよ」
「大事な時なんだからな」
「分かってるわよ。さっさと消えろ」
二人とも元気のない様子で去っていった。本気で心配しているようだ。
「さて、もうちょいで終わりよ。お店で祖父さんが試作品作ってるからあんたも何か食べて行きなさいよ」
「俺、和菓子は駄目だってばー」
「他にもなんなとあるわよ」
このまま帰すのはなんとなくためらわれた。
今日はお店は休みである。その時間を使って、祖父さんが季節限定の特製和菓子の試作に励んでいるのだ。
「おお、ちょうどできたところだ。食べてみろ」
祖父さんが出したのは桃の形をした和菓子。薄い練り切りの皮で白餡を包んでいる。そしてその白餡に、シロップ漬けにしておいた桃を細切れにして混ぜてあるのだ。
桃のシロップ漬けは、今日の日のために去年のうちに作っておいた。案外手間がかかっている。
他にも葛饅頭に同じ餡を入れたものや、「桃山」つまり焼き菓子に桃の欠片を入れたものも用意した。
ひとつ食べてみると、餡の中からわずかに桃の食感を感じ取れる、その柔らかさのバランスがうまく取れていて、すぐにもうひとつ食べたくなった。
「由起彦も食べなよ。美味しいよ」
「まぁ、せっかくだしひとつだけ」
そう言って、もそもそと食べる。
元々甘いものが好きではないとはいえ、あまりに無気力すぎる食べ方だ。
「うん、美味しいですね」
その言い方も、なんか気持ちが入っていない。
「どうした、由起彦。えらく元気がないな」
「前に試験に落ちたのずっと引きずってるのよ」
代わりに私が答える。
「なんだ、そのことか。因果が巡ってきたわけだ」
「どういうことですかー」
「お前、今までずっと勉強サボっていただろう。それで失敗したわけだ。ざまぁないというやつだ」
「なんで勉強してなかったって知ってるの?」
「お前らの親はいつもそれでため息をついてるんだ。だから塾の講習会だとかに放り込んだりしたわけだ」
確かにその通り。私たち二人に実知も入れた三人は、今まで塾なんて無縁の生活をしてたのに、夏期講習だの冬期講習だのに放り込まれたのだ。いい迷惑だった。
「まぁ、俺に言わせれば焼け石に水だがな。勉強なんか、したくなければしなければいいんだ」
「そういうものなんですか?」
あ、ちょっと由起彦の目に光が灯った。
いい逃げ口上が手に入ったとか思ってないだろうか? 祖父さん、余計なこと言うなよ。
「ああ、勉強なんて、したくなければしなければいいんだ。俺は中卒だが、こうして今まで生きてこれた。高校なんて行かなくても気にすることなんてないんだ」
「そういうものなんですね。どうせ俺はここを継ぐんですしねー」
「そうはいかん」
「え? そうなの?」
いっつも大人達は由起彦に跡を継がせるとか勝手なことを言ってるじゃない。
「今のお前は『野乃屋』に必要ない。負け犬は負け犬らしく、俺の店とは関係ないところをうろちょろしてればいいんだ」
「いやいやいや、お祖父ちゃん。今、由起彦めちゃくちゃ落ち込んでるんですが。そんな追い打ちかけるようなこと言わないでよ」
「そうなったのは自業自得だろう? サボってたくせにいい目を見ようなんて虫がよすぎるぞ」
「いやー、そうかもしれないけどさー」
「俺がこうして店を持てたのは、それだけの苦労をしてきたからだ。何もしてないのにいい目を見ようなんて、到底許せるものじゃない」
由起彦がうなだれていく。ヤバいなぁ。
「由起彦はやればできる奴だよ? 今までは部活に一生懸命だったから、ほんのちょっぴり勉強がお留守になってただけだし」
「じゃあ、いつ本気を出すんだ?」
「今よ今! 今から本気出すわよ。ねっ、由起彦!」
「明日からにしようかなぁ……」
「駄目じゃないか、みこ」
本当に駄目だ。
いつもぼーっとしている奴だが、ここまで酷い有様は見たことがない。これというのも祖父さんが追い詰めすぎたせいだ。
「私は信じてるわ。由起彦はやる奴だって。今はほんのちょっびり気合いをなくしてるけど、すぐに復活して何でもやり遂げてくれるわ。私はそう信じてる!」
「みこ……」
ようやく顔を上げた。でもあいかわらず情けない顔。
「だが今はまるで駄目だ。こんな奴に『野乃屋』を継がせるわけにはいかない」
「そんなの駄目。そんなの許さない。由起彦が『野乃屋』を継ぐのは昔から決まってるじゃない」
「だからって負け犬に用はない。負け犬っていうのは単に負けただけの奴を言うんじゃない。気持ちの上で負けてしまった奴のことを言うんだ。そうなった奴は頑張れない。何回でも負けてしまうんだ。『野乃屋』には必要ない」
「由起彦は負け犬じゃないわ。ちょっぴり気弱になってるだけよ。誰だってそんな時はあるわ。そんな時、温かく迎えてくれるのが『野乃屋』なのよ。非情な『野乃屋』には私こそ用がないわ」
「じゃあ、どうする?」
じゃあ、どうしようか。
祖父さんが言うような、由起彦を見捨てるようなお店は私の愛する『野乃屋』ではない。それは確かだ。
『野乃屋』とは、祖父さんがいて、祖母さんがいて、母さん、父さんがいて、パートさんもいて。みんなでお客を温かく迎えるのだ。そういう包み込むようなところが好きなのだ。
よもぎ色の壁に囲まれた店内で、店番をしていると私は幸せな気分でいられる。ここは確かに私の居場所だ。
そしてそこには由起彦がいる。
今はお客として。やがてはお店を継ぐ。由起彦がいるのは当たり前。もうずっと前から決まっている。
これが『野乃屋』。私の『野乃屋』
「どうもこうもないわ。由起彦が『野乃屋』を継ぐのはもう決まってるの。お祖父ちゃんでも今さら覆せないの」
「そうなのか?」
「そうなのよ。由起彦も含めて『野乃屋』なのよ。だから却下。由起彦に跡を継がせないなんて却下」
「随分偉いんだな、みこは」
「だって私は『野乃屋』の三代目なんだから」
得意げに胸を張ってやる。祖父さんの意地悪になんて負けてられない。
「ふん、じゃあ勝手にするんだな。由起彦、ちょっと片付けを手伝え。ただで菓子を食って帰れると思うな」
あれ? 由起彦はビラ配りで十分働いてますよ?
でも私が何か言う前に、由起彦が前に出た。
「分かりました。手伝わせて下さい」
そして洗い物をし始めた。
由起彦が寸胴を洗う脇で私もオタマなんかを洗っていく。
由起彦は黙々と洗っている。さっきみたいな情けない顔はもうしていない。
「みこ」
「何?」
不意に声をかけられて由起彦を見ると、向こうもこっちを見ていた。
「ありがとうな」
「うん、いや、私の好きに言っただけだし」
「でもありがとう」
「おい! 手が止まってるぞ!」
祖父さんが思いっ切り由起彦の背中をぶっ叩いた。
「はい!」
言われるまま、力を込めて器具を磨き上げていく由起彦。
それだけに留まらなかった。厨房の床をブラシで磨き上げるよう、祖父さんは命令した。
祖父さんの怒声を浴びながらブラシを動かす由起彦を私は脇から眺める。
それは何だか、とってもいい光景だった。
そうして散々こき使われた後、由起彦は解放された。
「ありがとうございました、先代!」
深々と頭を下げる由起彦。
声に張りが出ていて、清々しい顔をしていた。
「ふん、単純な奴だ。馬鹿は身体を動かせればそれで満足なんだ」
あ、なるほど。祖父さんはいいストレス解消を由起彦に与えたんだ。だったら最初からそう言えばいいのに。
この日から、由起彦は暗い顔を見せなくなった。
ひな祭りフェアは大当たりだった。早々に品切れになって、お客に謝り続けるハメに。
そして由起彦がいつものようにやってきた。
「ちわーっす」
「いらっしゃい」
「今日はえらく機嫌がいいな。ひな祭りがうまくいったのかー?」
「そうよ。私達の大勝利。由起彦もビラ配り手伝ってくれたしね」
「あれはむりやり手伝わせたんだろー」
「そうかな?」
「そうだってー」
「まぁ、いい気晴らしになったでしょ?」
私はしれっと言ってやる。
由起彦がちょっとうつむいて、すぐに顔を上げた。
「俺、負け犬になんてならないからな」
「うん、『野乃屋』で待ってる」
私が微笑むと、鼻をすすって横を向いた。