表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
66/82

夏期講習なるもの

 商店街を、捕虜か何かのように足を引きずって歩く男女三人。

 野宮みこ、元町実知、水野由起彦の三人である。


「あれ? どうしたの、みんな」

「ああ、響さん、おはようございます。これから、夏期講習なるものを受けに行くんですよ」

「そうなんだ、みんな受験生だもんねぇ。頑張ってね!」


 胸の前で愛くるしく両拳を握って応援してくれる響さん。

 しかし今の私には何の感慨も沸いてこない。


「じゃ、行ってきますんで」


 受験という敵軍に捕らわれた三人が歩んでいく。




「あ、来た来た」


 駅向こうにある学習塾の前で待っていたのは、白いワンピース姿もかわいらしい恵である。

 両手を振って軽く跳びはねている姿もまたかわいらしい。


「おはよ、メグ」

「オッス、メグ」

「桜宮、ちわーっす」

「どうしたの、みんな。雨に打たれてる泥人形みたいだよ」


 恵は天然で酷いことを言う。


「もうねー、この私が塾に来るとはねー」

「みんな成績悪いんだから、仕方ないじゃない」


 今日の恵は容赦なしである。

 とにかく中に入って受付をする。

 この塾は恵が普段通っているところで、二週間の夏期講習を私たちも受けることになってしまった。

 三人とも勉強嫌いなのだが、中学三年受験の年なんだから少しは気合いを入れろとばかりに、三人の親が共謀して押し込んだのだ。


「ここが教室だよ」

「おおっ」


 そこは学校の教室より広かった。倍以上あるんじゃないか? 椅子も机もずっといい物だし、なによりクーラーが効いていた。


「お金かかってる!」

「商売人らしい感想だなー」

「ナッツンが先に来てるはずだけど……あ、いたいた」


 前の方で手を振っているのは確かに夏生だ。なんか少し違和感があるけど。ああ、向こうから近付いて来た。


「何突っ立ってんねん。早よせな席なくなんで」

「え? ナッツンメガネ?」


 違和感の正体はメガネだった。赤いセルフレームのものをかけていた。


「どや、勉強でけそやろ?」

「え? それだけのためにメガネ?」


 しかし、こいつならやりかねなかった。


「んなわけあるかいな。うち、そこそこ目ぇ悪いねん。ガッコの黒板は見えんねけどな、集中したい時はクッキリ見えるメガネやねん。どや水野、メガネっ娘やで?」


 そう言われても、由起彦は首を傾げるだけだった。


「あそ、興味あらへんか。地味に傷付くわ。ほなみんなで座ろや」

「ちょっと待ってよ。あそこってかなり前じゃない?」


 前から二列目だ。


「前の方がええに決もてるやん」

「そうだよ、せっかくナッツンが取ってくれたんだし、早く行こうよ」

「いやいやいや、私たちはもっと後ろでいいし」


 実知の言葉に私と由起彦も激しくうなずく。


「なんで?」


 恵と夏生が首を傾ける。


「なんでって、勉強できない私たちは遠慮がちに後ろから見てるし」


 実知と由起彦も激しくうなずく。


「あ、ヤバイ、人増えてきた。はよ行こ、メグちゃん」

「じゃあ、みんな後でね」

「うん、二人とも勉強頑張れよ」

「あんたらはもっと頑張れよ!」


 夏生のツッコミが重く心にダメージを与える。


 さて、授業が始まってしまった。

 テレビで見るような強面の先生ではなかったので、さっそく実知が不満をたれた。


「それだけが楽しみだったのによ」


 それもいかがなものか。

 由起彦を見ると、早くも集中力を切らしてぼんやりしている。まぁ、数学苦手だしね。

 斜め前方向にいる恵と夏生の方へ目をやると、二人とも熱心にノートを取っていた。

 夏生があんなに真面目な顔でいるのを初めて見た。普段馬鹿なことばかり言っているあいつと今のあいつ、どっちが本当のあいつなんだ?

 教室を見回してみる。ああ、みんな真面目に授業を聞いている。ここにいるのは全員受験生だ。本気で勉強に取り組んでいる。

 一方の私たちはどうだろうか? 運動馬鹿二人に和菓子馬鹿。勉強なんて、今までのらりくらりとかわしてきた。

 ものすごく場違いな気がしてきた。いや、実際場違いだ。

 恥ずかしくて今すぐ逃げ出したくなってきた。

 ただ、時間が通り過ぎるのを待つだけだ。




 お昼を挟んでなんとか四教科の授業が終わり、塾の前で恵と夏生を待つ。


「はぁ、散々な目に遭ったわね」

「まぁ、意外に分かりやすかったけどな」

「そうだなー、ちゃんと聞いてたらちゃんと分かったよなー」

「え? 二人とも聞いてたの?」

「当り前だろ、そのために来たんだし」

「野宮は聞いてなかったのかよー」

「え? いや、聞いてたに決まってるじゃない」


 聞いていなかった。ぼんやりと考え事をしていた。

 運動馬鹿のはずの二人もしっかり勉強していた? 私だけが取り残されている? 胃の中に重いものが広がっていく。

 この後恵と夏生が合流し、しばらく話をして解散した。




 私だって今まで全然勉強してこなかったわけではない。学校の授業はちゃんと聞いていたし、宿題もちゃんとこなしてきた。

 ただ、受験勉強となると、なんだかおかしなかんじがしてくるのだ。

 どうも腰が引けるというか、斜に構えてしまうというか、まともに向かい合うことができなかった。

 なぜだろうか?

 思い当たるのはひとつだけだった。

 私は『野乃屋』で働くと決まっている人間。無理に受験勉強をしてまで高校に行く必要はないのだ。

 そんな考えが頭を巡り、本気で高校受験と向き合えない。

 そうだな。こんな中途半端な気持ちなら、塾なんてやめてお店で和菓子を作っていた方がいいな。

 そうしようか。




 うなだれながらお店に入ると、店番をしていた母さんが声をかけてきた。


「どうだった? 塾」

「どうもこうもないよ、散々だったよ」

「まぁ、すぐに慣れるわよ。ついでに新しい友達でも作ればいいのよ」

「そんな雰囲気じゃないわ。みんな本気で勉強してるし」

「そうなんだ、私の頃とはまた違うのかな? じゃあ、あんたも本気で勉強しときなさいよ」

「勉強なー」

「何そのため息」

「私、中卒でいいよ」


 お店の奥から笑い声がした。祖父さんだ。

 厨房から顔だけ出す。


「お前と同じこと言ってるぞ」

「うるさいなぁ、お父さん」


 顔をしかめる母さん。


「みこ、母さんがありがたい経験談を聞かせてくれるぞ」

「何それ?」

「はー、しゃーないわねぇ。お母さん、店番変わってー」


 呼ばれた祖母さんがお店に出てくると、母さんは私を引っ張って、勝手に私の部屋に入った。


「さて、三十年前にもこの部屋で同じような話がされたわけだけど」

「何の話?」

「進路の話。母さんは元々『野乃屋』が好きじゃなかったの。それは知ってるでしょ?」

「知ってる。お店が忙しすぎるのが嫌だったのよね」

「どこへも遊びに連れて行ってもらえなかったからね。でも、ちょうどいい逃げ場だったのよ」

「逃げ場?」

「母さんは『野乃屋』以上に勉強が嫌いだったのよ。あんたより成績悪かったし」

「え? いっつも小言言うじゃない」

「まぁ、それが親の仕事ですからねぇ。とにかく勉強が嫌いだった。受験なんて考えただけで寒気がしたわ。だからお父さんに言ったの、中卒でいいから『野乃屋』で働かせろって」

「どうだった?」

「ぶん殴られた」

「はあ? 女の子だよね?」

「あの人にそんなの関係ないから。殴られてこの部屋で泣いてたら、お父さんが勝手に入ってきて勝手に自分語りを始めたの」

「自分語りは母さんも好きだよね」

「お父さんが自分から話したのはこの時だけなんだけどね。お父さんは中学卒業してすぐに信州の師匠の下に入ったんだけど、本当はもっと勉強がしたかったんだって」

「勉強がしたいって変わってるわね」

「世の中には勉強が楽しいって人もいるのよ。その辺はあんたの父さんに聞いてみたらいいわ。あの人今でも数学馬鹿だし。で、本当は勉強がしたかったけど、家が貧乏で五男坊を進学させる余裕がなかったの。それを知ってたし、自分から職人に弟子入りしたの」

「それが昭和なの?」

「まぁ、みんながみんな、そんなんじゃなかっただろうけど。とにかくあんたのお祖父ちゃんはそうだったのよ。だから進学できるのにしたくないなんて言う私にカッときたのよ」

「でもそれだけで納得する母さんじゃないよね」

「よく分かってるわね。それでもっと話を聞き出してみたのよ。そしたら勉強できなかったのは悔しかったけど、後になって気付いたら、自分の世界が狭くなってた方が問題だったらしいのよ」

「世界が狭い?」

「お父さんは中学卒業してからずっと同じ厨房で職人やってたから、そこの人間関係しか知らなかったのよ。そりゃ、中学にもいろんな子がいるけど、高校、大学にはもっといろんな子がいるの。いろんな方向を見てる子が。そういう子らを知らずにいたのが問題なのよ」

「商店街にもいろんな人がいるわよ」

「そこが問題なのよ。今のあんたは商店街の人間しか知らなくて、それが世界の全てと思い込んでるのよ。でも本当は違うの。世の中にはもっといろんな人がいるわけ。それを知るために、高校へ行くの」

「うーん」

「本当は大学まで行って欲しいんだけどね。あんたの父さんは留学もさせたいらしいわよ」

「いや、そんなんじゃ、いつまで経ってもお菓子作り覚えられないじゃない」

「大学行かないで、製菓学校に行くって手もあるのよ。お母さんはその方がいいって言ってた。『野乃屋』以外のやり方を知っといた方がいいって。お父さんは修行に出させるつもりみたいだけど。やっぱりウチ以外のやり方勉強するために」

「ちょっと待ってよ。私の意志関係なしに、何みんな勝手に先走ってるのよ」

「みんないろいろ考えてるのよ。それって幸せなことなのよ?」

「うーん、うーん」

「あんたの世界はまだまだ広がっていけるんだから。もっと世界を知らないと」

「母さんは結局高校行ったんだよね?」

「そこの県立高校だけどね」

「それって行ってよかったって思う?」

「どうだろうねぇ。結局彼氏とか作れなかったし、勉強はお菓子作りにこれっぽっちも役立たなかったし、あの頃の友達もほとんど音信不通だし……」

「駄目じゃん」

「でもよかったよ。一言しか話したことない子がいるけど、その言葉はすごく印象に残ってて今でも憶えてるし。連絡取り合ってる子は今でも親友だし。母さん、たまに詩集読んだりするけど、それは先生の影響だし。ほんのひとつでも何かが見つかれば、それだけで三年回り道する価値があったってことだから。ていうか、人生に回り道なんてないんだけど」

「うーん」

「あんたの年じゃ、まだ分からないだろうけどね。だから今はおとなしく大人のいうこと聞いてればいいのよ」

「横暴よね」

「最終的にあんたのためになれば横暴じゃなくなるからいいのよ。というわけで、あんたに選択肢はないから。明日も塾行って真面目に勉強しなさい。分かった?」

「一晩考えさせて」

「考えてもいいけど、選択肢はないから」


 そう言うと、母さんはさっさと部屋を出ていった。




 翌日もまた塾へ向かう。


「あれ? みこなんか昨日と違うな?」

「そういう実知はあいかわらず死人みたいな顔よね」

「勉強なんてしないに越した事ないだろ?」

「まぁ、私もそう思うけどね」


 結局この日も碌に授業は聞いていられなかったけど、多分私は大丈夫だ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ