夏期講習なるもの
商店街を、捕虜か何かのように足を引きずって歩く男女三人。
野宮みこ、元町実知、水野由起彦の三人である。
「あれ? どうしたの、みんな」
「ああ、響さん、おはようございます。これから、夏期講習なるものを受けに行くんですよ」
「そうなんだ、みんな受験生だもんねぇ。頑張ってね!」
胸の前で愛くるしく両拳を握って応援してくれる響さん。
しかし今の私には何の感慨も沸いてこない。
「じゃ、行ってきますんで」
受験という敵軍に捕らわれた三人が歩んでいく。
「あ、来た来た」
駅向こうにある学習塾の前で待っていたのは、白いワンピース姿もかわいらしい恵である。
両手を振って軽く跳びはねている姿もまたかわいらしい。
「おはよ、メグ」
「オッス、メグ」
「桜宮、ちわーっす」
「どうしたの、みんな。雨に打たれてる泥人形みたいだよ」
恵は天然で酷いことを言う。
「もうねー、この私が塾に来るとはねー」
「みんな成績悪いんだから、仕方ないじゃない」
今日の恵は容赦なしである。
とにかく中に入って受付をする。
この塾は恵が普段通っているところで、二週間の夏期講習を私たちも受けることになってしまった。
三人とも勉強嫌いなのだが、中学三年受験の年なんだから少しは気合いを入れろとばかりに、三人の親が共謀して押し込んだのだ。
「ここが教室だよ」
「おおっ」
そこは学校の教室より広かった。倍以上あるんじゃないか? 椅子も机もずっといい物だし、なによりクーラーが効いていた。
「お金かかってる!」
「商売人らしい感想だなー」
「ナッツンが先に来てるはずだけど……あ、いたいた」
前の方で手を振っているのは確かに夏生だ。なんか少し違和感があるけど。ああ、向こうから近付いて来た。
「何突っ立ってんねん。早よせな席なくなんで」
「え? ナッツンメガネ?」
違和感の正体はメガネだった。赤いセルフレームのものをかけていた。
「どや、勉強でけそやろ?」
「え? それだけのためにメガネ?」
しかし、こいつならやりかねなかった。
「んなわけあるかいな。うち、そこそこ目ぇ悪いねん。ガッコの黒板は見えんねけどな、集中したい時はクッキリ見えるメガネやねん。どや水野、メガネっ娘やで?」
そう言われても、由起彦は首を傾げるだけだった。
「あそ、興味あらへんか。地味に傷付くわ。ほなみんなで座ろや」
「ちょっと待ってよ。あそこってかなり前じゃない?」
前から二列目だ。
「前の方がええに決もてるやん」
「そうだよ、せっかくナッツンが取ってくれたんだし、早く行こうよ」
「いやいやいや、私たちはもっと後ろでいいし」
実知の言葉に私と由起彦も激しくうなずく。
「なんで?」
恵と夏生が首を傾ける。
「なんでって、勉強できない私たちは遠慮がちに後ろから見てるし」
実知と由起彦も激しくうなずく。
「あ、ヤバイ、人増えてきた。はよ行こ、メグちゃん」
「じゃあ、みんな後でね」
「うん、二人とも勉強頑張れよ」
「あんたらはもっと頑張れよ!」
夏生のツッコミが重く心にダメージを与える。
さて、授業が始まってしまった。
テレビで見るような強面の先生ではなかったので、さっそく実知が不満をたれた。
「それだけが楽しみだったのによ」
それもいかがなものか。
由起彦を見ると、早くも集中力を切らしてぼんやりしている。まぁ、数学苦手だしね。
斜め前方向にいる恵と夏生の方へ目をやると、二人とも熱心にノートを取っていた。
夏生があんなに真面目な顔でいるのを初めて見た。普段馬鹿なことばかり言っているあいつと今のあいつ、どっちが本当のあいつなんだ?
教室を見回してみる。ああ、みんな真面目に授業を聞いている。ここにいるのは全員受験生だ。本気で勉強に取り組んでいる。
一方の私たちはどうだろうか? 運動馬鹿二人に和菓子馬鹿。勉強なんて、今までのらりくらりとかわしてきた。
ものすごく場違いな気がしてきた。いや、実際場違いだ。
恥ずかしくて今すぐ逃げ出したくなってきた。
ただ、時間が通り過ぎるのを待つだけだ。
お昼を挟んでなんとか四教科の授業が終わり、塾の前で恵と夏生を待つ。
「はぁ、散々な目に遭ったわね」
「まぁ、意外に分かりやすかったけどな」
「そうだなー、ちゃんと聞いてたらちゃんと分かったよなー」
「え? 二人とも聞いてたの?」
「当り前だろ、そのために来たんだし」
「野宮は聞いてなかったのかよー」
「え? いや、聞いてたに決まってるじゃない」
聞いていなかった。ぼんやりと考え事をしていた。
運動馬鹿のはずの二人もしっかり勉強していた? 私だけが取り残されている? 胃の中に重いものが広がっていく。
この後恵と夏生が合流し、しばらく話をして解散した。
私だって今まで全然勉強してこなかったわけではない。学校の授業はちゃんと聞いていたし、宿題もちゃんとこなしてきた。
ただ、受験勉強となると、なんだかおかしなかんじがしてくるのだ。
どうも腰が引けるというか、斜に構えてしまうというか、まともに向かい合うことができなかった。
なぜだろうか?
思い当たるのはひとつだけだった。
私は『野乃屋』で働くと決まっている人間。無理に受験勉強をしてまで高校に行く必要はないのだ。
そんな考えが頭を巡り、本気で高校受験と向き合えない。
そうだな。こんな中途半端な気持ちなら、塾なんてやめてお店で和菓子を作っていた方がいいな。
そうしようか。
うなだれながらお店に入ると、店番をしていた母さんが声をかけてきた。
「どうだった? 塾」
「どうもこうもないよ、散々だったよ」
「まぁ、すぐに慣れるわよ。ついでに新しい友達でも作ればいいのよ」
「そんな雰囲気じゃないわ。みんな本気で勉強してるし」
「そうなんだ、私の頃とはまた違うのかな? じゃあ、あんたも本気で勉強しときなさいよ」
「勉強なー」
「何そのため息」
「私、中卒でいいよ」
お店の奥から笑い声がした。祖父さんだ。
厨房から顔だけ出す。
「お前と同じこと言ってるぞ」
「うるさいなぁ、お父さん」
顔をしかめる母さん。
「みこ、母さんがありがたい経験談を聞かせてくれるぞ」
「何それ?」
「はー、しゃーないわねぇ。お母さん、店番変わってー」
呼ばれた祖母さんがお店に出てくると、母さんは私を引っ張って、勝手に私の部屋に入った。
「さて、三十年前にもこの部屋で同じような話がされたわけだけど」
「何の話?」
「進路の話。母さんは元々『野乃屋』が好きじゃなかったの。それは知ってるでしょ?」
「知ってる。お店が忙しすぎるのが嫌だったのよね」
「どこへも遊びに連れて行ってもらえなかったからね。でも、ちょうどいい逃げ場だったのよ」
「逃げ場?」
「母さんは『野乃屋』以上に勉強が嫌いだったのよ。あんたより成績悪かったし」
「え? いっつも小言言うじゃない」
「まぁ、それが親の仕事ですからねぇ。とにかく勉強が嫌いだった。受験なんて考えただけで寒気がしたわ。だからお父さんに言ったの、中卒でいいから『野乃屋』で働かせろって」
「どうだった?」
「ぶん殴られた」
「はあ? 女の子だよね?」
「あの人にそんなの関係ないから。殴られてこの部屋で泣いてたら、お父さんが勝手に入ってきて勝手に自分語りを始めたの」
「自分語りは母さんも好きだよね」
「お父さんが自分から話したのはこの時だけなんだけどね。お父さんは中学卒業してすぐに信州の師匠の下に入ったんだけど、本当はもっと勉強がしたかったんだって」
「勉強がしたいって変わってるわね」
「世の中には勉強が楽しいって人もいるのよ。その辺はあんたの父さんに聞いてみたらいいわ。あの人今でも数学馬鹿だし。で、本当は勉強がしたかったけど、家が貧乏で五男坊を進学させる余裕がなかったの。それを知ってたし、自分から職人に弟子入りしたの」
「それが昭和なの?」
「まぁ、みんながみんな、そんなんじゃなかっただろうけど。とにかくあんたのお祖父ちゃんはそうだったのよ。だから進学できるのにしたくないなんて言う私にカッときたのよ」
「でもそれだけで納得する母さんじゃないよね」
「よく分かってるわね。それでもっと話を聞き出してみたのよ。そしたら勉強できなかったのは悔しかったけど、後になって気付いたら、自分の世界が狭くなってた方が問題だったらしいのよ」
「世界が狭い?」
「お父さんは中学卒業してからずっと同じ厨房で職人やってたから、そこの人間関係しか知らなかったのよ。そりゃ、中学にもいろんな子がいるけど、高校、大学にはもっといろんな子がいるの。いろんな方向を見てる子が。そういう子らを知らずにいたのが問題なのよ」
「商店街にもいろんな人がいるわよ」
「そこが問題なのよ。今のあんたは商店街の人間しか知らなくて、それが世界の全てと思い込んでるのよ。でも本当は違うの。世の中にはもっといろんな人がいるわけ。それを知るために、高校へ行くの」
「うーん」
「本当は大学まで行って欲しいんだけどね。あんたの父さんは留学もさせたいらしいわよ」
「いや、そんなんじゃ、いつまで経ってもお菓子作り覚えられないじゃない」
「大学行かないで、製菓学校に行くって手もあるのよ。お母さんはその方がいいって言ってた。『野乃屋』以外のやり方を知っといた方がいいって。お父さんは修行に出させるつもりみたいだけど。やっぱりウチ以外のやり方勉強するために」
「ちょっと待ってよ。私の意志関係なしに、何みんな勝手に先走ってるのよ」
「みんないろいろ考えてるのよ。それって幸せなことなのよ?」
「うーん、うーん」
「あんたの世界はまだまだ広がっていけるんだから。もっと世界を知らないと」
「母さんは結局高校行ったんだよね?」
「そこの県立高校だけどね」
「それって行ってよかったって思う?」
「どうだろうねぇ。結局彼氏とか作れなかったし、勉強はお菓子作りにこれっぽっちも役立たなかったし、あの頃の友達もほとんど音信不通だし……」
「駄目じゃん」
「でもよかったよ。一言しか話したことない子がいるけど、その言葉はすごく印象に残ってて今でも憶えてるし。連絡取り合ってる子は今でも親友だし。母さん、たまに詩集読んだりするけど、それは先生の影響だし。ほんのひとつでも何かが見つかれば、それだけで三年回り道する価値があったってことだから。ていうか、人生に回り道なんてないんだけど」
「うーん」
「あんたの年じゃ、まだ分からないだろうけどね。だから今はおとなしく大人のいうこと聞いてればいいのよ」
「横暴よね」
「最終的にあんたのためになれば横暴じゃなくなるからいいのよ。というわけで、あんたに選択肢はないから。明日も塾行って真面目に勉強しなさい。分かった?」
「一晩考えさせて」
「考えてもいいけど、選択肢はないから」
そう言うと、母さんはさっさと部屋を出ていった。
翌日もまた塾へ向かう。
「あれ? みこなんか昨日と違うな?」
「そういう実知はあいかわらず死人みたいな顔よね」
「勉強なんてしないに越した事ないだろ?」
「まぁ、私もそう思うけどね」
結局この日も碌に授業は聞いていられなかったけど、多分私は大丈夫だ。