あじさい園にて
少し歩いたところにあるお寺はそこそこ大きく、参拝客もよく見かける。
そして敷地内にあじさい園がある。この季節になると、花壇に咲き誇るあじさいを見に、地元の人が大勢やって来る。
ある日曜日。たまにはいつもと違うことをしようと考えた私は、このあじさい園まで行くことにした。
雨が降っていたのだが、それがかえって風情があるように思えて、傘を差して一人で歩いていく。
見物客は思っていたより多かった。とは言えお互いの傘が邪魔になるほどではない。雨に艶っぽく濡れたあじさいを見て回る。水彩絵の具のように淡い色の花は、緑の葉を背景に、落ち着いた雰囲気を見る者に感じさせる。
花壇の向こうに東屋があった。自動販売機があったので、ちょっと休憩する。
先客がいた。男の子が一人でベンチに腰かけていた。小学校高学年くらいだろうか。水色の制服みたいなカッターシャツに、白いアイロンの当てられたズボンをはいていた。
まぁ、反対側が空いていたのでいいや。オレンジジュースを買ってベンチに腰かける。
静かに流れ落ちる雨をぼんやりと眺める。たまにはこういうのもいいものだ。
風流を楽しむ自分に酔っていると、横から声がした。
「ねぇ、君」
最初私の事だと思わなかった。
「ねぇ、君、そこの赤い服の君」
私の事だ。振り向くと少年がこっちを向いていた。
「何?」
風流の分かる私、格好いい。的な気分を潰されたので、少し不機嫌そうに言ってしまう。
「雨が止むまで話をしない?」
いきなり小学生にナンパされた。こういう相手は無視するに限る。
オレンジジュースを飲みながら、風流を感じる心の旅を再開する。
「君、一人で来たの?」
驚いた。いつの間にか距離を詰めていやがった。
せいぜい胡散臭い奴を見る目で見てやると、向こうは少し微笑んできた。
まつげの長い、かなりの美形だ。まぁ、私は年下にも美形にも興味はないけれど。
下心や悪意は感じなかった。客商売をやっているので、そういう人を見る目はあるつもりだ。本当にただ話し相手が欲しいだけなのかもしれない。
ちょっとだけ相手をしてやるか。
「そうよ。たまにはこうして一人もいいものよ」
一人で風流を楽しむ私、格好いい。
「ああ、友達がいないのか」
哀れむような言い方をしてきやがった。これは否定しておかないといけない。
「いや、いるし。今日は誘わなかっただけだから」
「まぁ、そういうことにしておくよ。友達なんていない方がいいって」
「いやいるし。友達がいない方がいいなんてことはないわ」
「そうかな? 僕は一人の方がいいな。僕には兄弟や親戚がいっぱいいるんだけど、正直うっとうしいよ」
「じゃあ、一人で雨宿りしてればいいじゃない」
「君と話をするのは面白いと思ったんだ」
「何それ?」
「この花どう思う?」
マイペースに話しかけてきた。
やっぱり悪意は感じない。今の私は風流の分かる女である。変にツンケンすることもないか。
「きれいね」
「小さいのばかり寄り集まっていて、見ていて窮屈なだけだよ」
「じゃあ、なんで見に来たの?」
「君と話をするために」
そう言って、静かな笑顔を見せてくる。
変な奴である。しかし歯の浮くようなことを言ってくる奴というのは、もっと底が見えているものである。この少年の笑顔のようにはいかない。彼は特有の雰囲気を持っていて、それは不快なものでなかった。
「よく見てよ。ここのあじさいは花全体で見ると大きいわ。形もきれいだし、色もきれい。なかなかのものよ」
「もっと華やかなのがいいな」
「たとえば?」
「バラとか。どこまでも深い赤の」
「あれはトゲがあるからねぇ。昔ひっかかれて酷い目に遭ったわ」
「そこがいいんだよ。そういう他人を寄せ付けないところが。孤高だよ」
少年は遠くを見つめる。
言うことは大人びていているし、年相応に見えない。
軽く前髪を撫でる仕草をした。
「華やかな人生がいいな」
「私はどうかな。気疲れしそう。地味でも楽しい人生がいいわ」
「人生は確定していると思う?」
私の方を見て言った。
涼しげに流れる視線だった。
「人によって違うわ。私の場合はもう決まってるけど」
「どんな?」
「家が和菓子屋をやっているのよ。そこを継ぐの」
「不幸だね」
「え、そうかな?」
「決まり切った未来になんて価値はないよ」
相変らず穏やかな顔だった。辛辣な内容とは思えない、ささやくような言葉だった。
「そうかな? 私は幸せを感じてるけど」
「空を飛べるなら、違う世界を見たいと思うはず」
「でも和菓子屋が私の全てだし」
「可能性を見てみるんだよ。広がる世界が見えるよ」
家業の『野乃屋』を継ぐ以外の未来。
実は同じことを最近言われた。
進路指導の時に、担任の先生にそう言われたのだ。高校に入れば、バイトをしてみるのもいいと思うよ、と言われた。
今から進路を決めてしまって、自分から将来を狭めない方がいい、と。
「そうは言っても、他には考えられないなぁ」
「怖いの?」
「え?」
「どこまでも続く果ての見えない荒野が」
「荒野なの?」
「僕は僻み気味にそう考えるんだ。何もないかもしれない。獣が潜んでいるかもしれない。広がる可能性はそういう世界。僕はそこに憧れだけを持っている」
「君も足を踏み出せばいいじゃない。人生を楽しめるはずよ」
「僕はもう諦めてしまっている」
「諦めるのはまだ早いんじゃない?」
「君はどうだろう。家業を継ぐのはそう諦めているからじゃないかな?」
「そんなことないわ。私は好きでそう決めているの」
生まれる前から『野乃屋』の厨房にいて、小さい頃からお店に出入りしていた。むしろ早く和菓子作りを教えてくれとせがんだものだ。
「そう思い込んでいるだけと考えたことは?」
「ないわ。何の迷いもなく、私は『野乃屋』の人間」
「想像力を閉ざさないで。君なら荒野に踏み出せるはず」
『野乃屋』以外の私。考えてもみなかった。少し考えてみようか。私の前には何が広がっているのだろう。
友達と将来の話をしたことがあった。
恵はピアノ教室の先生になりたいと言っていた。恵なら甲斐性のある男の人を捕まえて、専業主婦でやっていけそうだ。そう私は言ったものだ。
実知は何も考えていなかった。学生時代は長いのだし、じっくり考えると言っていた。ただ、OLのスーツには憧れていた。もっと真剣に考えろと私は言った。
会社勤めか。私の場合どうなるのだろうか? 客商売で培ったスキルは意外に応用が利きそうだ。コミュニケーション能力とやらには自信がある。ああ、でもいろいろ勘違いしてやらかしているな。そう甘いものでもないのか?
今まで考えたことはなかったけど、こうやって考えるのは楽しいかも。
「でもやっぱり家業を継ぐわ」
「そうなんだ」
「客商売は私の天職。『野乃屋』に生まれたからそうなったのか、たまたま天職に合った家に生まれたのかは分からない。でも私の天職が客商売で、一番好きなお店が『野乃屋』なんだから、『野乃屋』を継ぐしかないじゃない。継ぐなって言われてもしがみついてやるわ」
少年に向かってニッと笑いかけてやる。
「よかったね」
少年の笑顔はとても優しいものだった。
「雨が止んだよ」
言われて空を見上げると、雨は止んでいて稜線沿いに青空が覗いていた。
「ねぇ、この後……」
少年の方に顔を向けるとそこには誰もいなかった。
もう、帰ったんだ。ウチの和菓子を食べさせてやろうと思ったのに。
家まで帰ってお店の扉を開けると、カウンターにあじさいの花が枝付きで生けてあった。
「どうしたの、それ?」
店番をしている母さんに聞く。
「さっき来たお客さんがくれたのよ。初めての子なんだけどね」
「小学生くらいの?」
「そう小学生くらいの」
そのあじさいの花の淡い青は、少年のシャツの色によく似ていた。