眠れる獅子を起こしてしまう
ある日曜日。実知に誘われて小村書房まで参考書を買いに行った。
参考書コーナーは二階にある。
階段を上がったところのレジには店員の小村響さんが。
「いらっしゃい、お二人さん」
響さんが笑顔を見せてくれる。
さすが商店街で一、二を争う美人。今日も可愛い。
いや、中学生に可愛いとか思われる二十八才もどうかと思うけど。
とにかく実知と参考書を選ぶ。英語の参考書だ。さすがにもう三年生なので、苦手教科を回避するのにも限界があるのだ。
一人一冊ずつ選び、レジまで持っていく。
「響さん、新しい商店街のサイト見たぞ」
年上相手にもタメ口の実知が言う。
最近リニューアルした商店街のホームページは、響さんがデザインを担当していた。
「本当? どうかな?」
「いいんじゃないの。店の紹介文とかも面白かったし。『野乃屋』が笑えたよな」
実知がニヤニヤと私の方を見てくる。
知ってる。商店街のホームページに載っている『野乃屋』の紹介文には、私と水野由起彦が婚約者だどうのこうのと書いてあるのだ。あいつはただの幼馴染みなのに。
「みこちゃんたちはしっかりサポートしないとね」
「だよな。みこと水野、相変らずじれったいんだよ。響さん、なんかひっ付けるアイデアない?」
「そうねぇ、やっぱり危機感を煽った方がいいわね。いいきっかけを作るのよ」
「響さん、頼みますから余計な事考えないで下さいよ」
「そうは言っても、みこちゃんにはお世話になってるからね。お二人には是非とも幸せになってもらわないと」
「いや、響さんは自分の幸せ追い求めてくださいよ。西田さんとはあれからどうなってるんですか?」
「誰? 西田って」
「響さんが好きな人。おもちゃ屋で店員してるのよ」
「みこちゃん、余計な話広めなくていいから」
「二人ともヘタレだから、私達周りの人間が後押ししたげないとまるで前に進まないのよ。骨が折れるわ」
「言うわね、みこちゃん」
響さんの口元が引きつる。しかし多少歪んだところで、可愛い顔は可愛いままだ。
「いや、事実じゃないですか。この前も私が猛プッシュしたげたのに、涙目になって打ち消そうとしてましたし」
「でも最後には告白したじゃない」
「友達になって下さいって、あれは告白じゃないですよ」
「うぁ、それはヘタレだな」
「ヘタレなのよ。それで私へのアドバイスとかちゃんちゃらおかしいですってば」
「言うわね、みこちゃん」
あれ? 響さんの声が低い。
さっきより口元を引きつらせた響さんの目付きがきつい。言い過ぎた?
「よーし、いいじゃない。中学生にそこまで言われて、黙ってられないわ。小村響二十八才バツイチ。本気出してやろうじゃないの」
「響さん、熱くならないで?」
「いーや、もう遅いから。みこちゃんと水野君、絶対にくっつけてみせるわ。これでも一度は結婚してるのよ。本気出せば、中学生くっつけるくらい訳ないから」
「おお、ついに眠れる獅子が目を覚した」
気楽な外野である実知がニヤニヤ笑いを浮かべる。
ヤバイ、やってしまったかも。見た目可愛い女子だけど、あれでも二十八才、しかもバツイチなのだ。
本気を出されるとどんな手練手管を使ってくるか分からない。
まぁ、何をしてくるか分からないので、対策の立てようがない。何かあってから考えようか。
そして週明けの今日もいつものように『野乃屋』で店番。
部活帰りの由起彦がやってくる。
「ちわーっす」
「いらっしゃい。あれ? あんた傘は?」
「あ、学校に忘れた。まーいいだろー。降ってないしなー」
「また降るわよ。急いで帰りなよ」
「他にもいろいろ頼まれてるんだよなー。まー大丈夫だろー」
この梅雨時に危機感のない奴である。
とにかくいつものようにお祖母さんのお茶菓子を買って、お店を出ていった。
あーあ、言わんこっちゃない。
しばらくして雨が降り出してきた。由起彦はまだお店の前を通っていない。つまりはまだ商店街にいるという事だ。そしてこの商店街にアーケードというものはない。
しゃーない。
祖母さんに店番を代わってもらい、予備の傘を持って出かける。
あれ? あれか? いや、おかしい。 あれ? でもあれだな。
向こうの方に由起彦がいた。傘を差している。いや、差してもらっている。横にいる美人が由起彦にもかかるように傘を差しているのだ。そして二人は腕を組んでいる。
響さん?
私に気付いた由起彦が響さんから離れようとするが、響さんは組んでいる腕を引っ張って離さないようにする。そんな由起彦の顔は真っ赤である。
え? 当てつけ?
響さんが組んでいる方の手をこっちに向かって振ってきた。何あの余裕の微笑みは?
ああ、そうですか。こうやって当てつけて、私の危機感を煽ろうって訳ですか。そう簡単に乗せられて……早く離れて! 肘が胸に当たってる!
商店街で一、二を争う美人である響さんは、そのグラマラスな体型で多くの信者を獲得している。その豊かな胸に!
中学生の私がどう逆立ちしてもかなわないポイントを的確に突いての攻撃だ。
正直、とても有効である。
私の危機感は否応なく高まる。
どうにか向かい合うまでに近寄れた。
「響さん、やってくれますね」
「まぁ、ちょっとした人助けよ」
「人助け……ですか?」
「ええ、彼も困ってたし」
「困ってたんですか?」
「いきなりの雨だったねぇ」
「わざわざタイミング図ってたんですか?」
「そんな感じの雨よねぇ」
「ていうか、いつまで腕組んでるんですか?」
「いや、こうしないと彼、逃げようとするのよ。私みたいなおばさん相手に照れる事ないのに」
「いや、おばさんて事はないですよー」
「由起彦は黙ってろ」
「あ、知り合いなの?」
「とぼけないで下さい。いい加減、離れて下さいよ」
「でも濡れるじゃない。もうすぐ私の家だから、そこで傘貸したげるのよ」
「傘なら私が持ってきてますから」
今差しているのとは別の傘を突き出す。
「でもそれは他の人のでしょ? まぁ、こんなところで突っ立ってるのも何だし、取りあえず私の家行きましょうよ」
そう言って、響さんが由起彦の腕を自分の胸に引き寄せる。巨乳派の由起彦がその胸をガン見しているのを、私は見逃さない。
私の脇を通ろうとした響さんの前に立ち塞がる。
「いいから、ここで引き渡して下さい」
「でももうすぐそこだし。タオルも貸したげるわよ」
そうやって家まで引っ張り込もうというのか。もしかしたらお手ずから拭いてあげるのかもしれない。私に見せつけながら。
「響さん、もう私の負けでいいですから」
「え? 何の勝ち負け?」
「この前はホント、言い過ぎました。由起彦も響さんの魅力にメロメロですから。目の前でイチャイチャして危機感煽り作戦は、マジでこたえるんで勘弁して下さい」
「どういう事? どういう事?」
響さんは相変らずすっとぼけて、顔をキョロキョロさせている。
引っ張るなぁ。この人も結構タチが悪い? それとも私が怒らせすぎた?
うー、どうしたものか。
「解説しよう!」
由起彦の脇から顔を出してきたのは咲乃さん。
商店街のもう一人の美人で、他人の恋の後押しにやたら熱心な人である。親切心と言うよりも、単なる暇つぶしとしてであるが。
「響さん、この子が水野君なんですよ」
「え? そうなの?」
響さん、今更白々しいですよ?
「みこちゃん、まだ疑ってるね。響さんって、水野君の顔知らないんだよ」
「お店には何回か来てくれてるよね」
「はぁ」
「でも本屋さんじゃ名乗りませんからね。結局、顔と名前が一致してないんですよね」
「うん、今気付いたけど、水野君の事は名前しか聞いてないわ」
「じゃあ、何で私に腕組んでるとこ見せつけたりしてるんですか?」
「さっきも言ったけど、掴んでないと彼、逃げちゃうのよ」
「みこちゃん、二十八才にしてみれば、中学生とかただのガキンチョだから。腕組んでるって意識がないんだよ」
「ていうか、彼にしても私なんてただのおばさんじゃない」
「思春期中学男子にしてみれば、おっぱい押し付けてくれたらそれだけでご褒美なんですよ」
「おっぱい? ああ、ホントだ」
今頃になって気付いたかのように言う響さん。かと言って、離す素振りは見せない。ねぇ、やっぱりわざとでしょ?
「響さん、いい加減離したって下さいよ。みこちゃんの恨みのこもった目付き見てやって下さいよ」
「そうなのよ、さっきからずっと怖い顔なのよ。え? もしかして私の事怒ってる?」
「そうですよ。やっと気付きました?」
「ゴメン、みこちゃん。いや、別に取って喰おうとした訳じゃないから」
響さんが慌てて由起彦の腕から手を引き抜く。
「もういいですから」
「でも相変らず怖い顔よ?」
「押し付けた胸の大きさに嫉妬してるんですよ」
「咲乃さん、いちいち解説しなくていいですから」
「大丈夫、私だって大きくなったの高校からだから」
優しく肩に手を置いてくれる響さんの気づかいが余計に憎たらしい。
「取りあえず由起彦、傘」
「お、おうサンキュー」
私が持って来た傘を由起彦が差し、響さんが由起彦から遠慮がちに距離を取る。
「みこちゃん。みこちゃんが今響さんに抱いた怒り。何故そんな怒りを抱いたのか? それはみこちゃんの水野君へのある想いが源泉となっているんだよ。それがみこちゃんの本心なんだよ」
由起彦相手にベタベタされて、私は大いに怒っている。
何故今みたいな感情を?
響さんに対する怒りは、由起彦へのある想いが形を変えて出てきたもの。
元は純粋な想い。
私はこの想いが何なのかを、本当はもう知っている。
今更隠しだてする必要のない想いだ。
「……分かりました」
「さぁ、今の想いを水野君にぶつけるんだ」
咲乃さんが由起彦の脇から離れる。
私と由起彦、二人だけで向かい合う。
「行け、みこちゃん」
「頑張れ、みこちゃん」
深く息を吸い込み、吐き出す。
由起彦が緊張した面持ちでこっちを見ている。
私は少しうつむく。
「デレデレしてんじゃないよ!」
「そう来ると思った!」
全力のローキックが由起彦の太ももに炸裂する。
由起彦への純粋な怒りが込められた一撃だ。
「あれ?」
「あれ?」
響さんと咲乃さんが首を傾げる。どんな想いを期待してたんだっ!
荒い息の私に、おずおずと響さんが声をかける。
「あのー、みこちゃん、ゴメンね?」
「これからはよろしく頼みますね」
「うん、分かった。気をつける」
引きつった笑みの響さんが何度もうなずく。
「由起彦、帰るよ」
足を引きづるようにしながら私は先に歩く。
「いってーなー。俺、全然何もしてないんだけどなー」
「何もしなかったから駄目なんだよ!」
振り向きざまにローキック。