兄上の帰還4 未来を見る
日曜日。私が『野乃屋』で店番をしていると、水野将彦が現れた。
こいつは私の幼馴染みである水野由起彦の兄に当たる。
大学のある東京から帰省していて、毎日私の店でウザいお人柄を振りまいている。
一昨日は中学生である私の友人に惚れられて、右往左往した挙げ句に土下座して諦めてもらっていた。
昨日は昨日でバイトの男子高校生と口論になり、見事論破されてお店の中でやけ酒を始めやがった。そして私の祖父さんに見付かって、しこたま尻を蹴り上げられた。
しかし今日は何だか元気がない。
「どうしたの? 将兄」
「ん? ああ、みこには関係ない事だよ」
「だったら辛気くさい顔でお店来ないでよね。他のお客さんの迷惑よ」
「そう言うなよ。しばらく休ませてくれ」
「大丈夫? 本気で元気ないんだけど」
「はぁ、ちょっとなぁ、親父となぁ」
水野兄弟のお父さんにはあまり会った事がないのだが、優しい人だった記憶がある。大きな会社でエンジニアをやっているらしい。
今、目の前にいる男の父親とは思えない人柄だったのは確かだ。
「喧嘩でもしたの?」
「喧嘩? 喧嘩なぁ。喧嘩って言うかなぁ」
「ウザいなぁ、はっきりしてよね。愚痴くらい聞くよ? もうすぐ店番も終わりだし」
「中学生に愚痴かぁ。俺もいよいよ終わりだなぁ」
そうは言いながらも、将兄は私の店番が終わるまで待っていた。
「ちょっと公園までいいか?」
「いいよ、別に」
公園までずっとうなだれている。どうも調子が狂うな。
公園では由起彦が背の高い鉄棒で懸垂をしていた。ハンドボール部でエースをやっているので、こうして自主トレなんかに励んでいるのだ。
私と将兄に気付いた由起彦が、鉄棒から手を離してこっちに来た。汗臭い。
「おー、どうしたー」
「何だよ、由起彦がいたのかよ」
「俺がいちゃ悪いのかよー」
「まぁ、いいけどな」
将兄が力なくベンチに腰掛ける。その隣に私も座る。私の隣に由起彦も。
「どうしたのさ」
「みこって、店の手伝い楽しいか?」
「ん? 楽しいよ」
そう、『野乃屋』は私の全てなのだ。
「こういう時、お前をうらやましく感じるよ」
「どういう時?」
「俺ってさぁ、もう大学三年な訳だよ」
「だね」
「就職活動ってのが始まる訳だよ。早い奴はもう動き始めている」
「ふーん」
そういうものがあるという話は聞いた事がある。
お店にもリクルートスーツなるものを着たお兄さん、お姉さんがやってくるのだ。
あのリクルートスーツは一度着てみたいのだが、『野乃屋』で働く事が決まっている私には無縁の物だ。
「それで親父と喧嘩した」
「話が見えないんだけど」
「親父はしっかりした会社に入れって言うんだ。大きい会社だからって安心出来る訳じゃないけど、しっかりした会社はまだまだあるんだそうだ。そういう所に入れって言う訳だ」
「サラリーマンしてる将兄って想像つかないね」
「俺もだよ。俺がマトモなサラリーマンになれるとは到底思えない」
「秘境巡りしてる方が似合ってるよね」
「まぁな。今も勝手に研究室に潜り込んでいろいろ連れて行ってもらってる。教授にも気に入ってもらえてるけど、そっちも無理っぽいんだ。教授は民族の研究してるんだけど、俺には内容が全然理解出来なんだよ」
「探検が好きなだけなんだ?」
「そう。身体動かすのが好きなんだよ」
「じゃあ、探検家になれば?」
「そんな簡単になれるもんじゃないしな。で、そんな俺に友達が会社起こすから手伝えって誘ってきてくれたんだ」
「会社起こすって、ベンチャーって奴?」
「そう、ベンチャー。俺の無駄な行動力を生かせるらしいんだ。まぁ、頭の良い奴らの使いっ走りみたいな事やるんだと思うけど、それはそれで面白そうなんだよ」
「使いっ走りなのに?」
「目の前を切り拓いていく面白さがあるんだってさ。確かに探検もそういうところあるんだよ」
「じゃあ、ベンチャーすればいいじゃない。何悩んでるの?」
「親父が許さないんだ。社会経験もなしにそんなんしても大抵失敗する。口車に乗せられて人生棒に振るなってさ」
「おじさん、怒ったんだ?」
「怒らないんだよ。静かに言って聞かせようとするんだよ。普通のサラリーマンもそんなに悪いものじゃない。三年我慢すれば面白さが分かってくる。そう言うんだ。俺、昨日ブチギレてみた」
「大喧嘩だ」
「親父は怒鳴ったりしない。冷静に俺をなだめるだけだった。お前んとこの先代みたいな方がよっぽどいいよ。怒鳴り合いの殴り合いの方がすっきりするわ」
「まぁ、ウチの祖父さんと殴り合うととんでもない事になるけどね」
「俺はサラリーマンになった事も、ベンチャー起こした事もない。どっちを選べばどうなるかなんて、さっぱり分からないんだ」
そういうものなのか。
私は自分の未来をはっきり知っている。生まれた時からある『野乃屋』をこれからも続けていくだけなのだ。
「探検って言っても、よく考えたら俺は教授の後ろから付いていくだけだったんだよ。一人で突っ立って将来見たら、とんでもなく怖くなっちまったんだ」
「難しいね」
ずっと下を向いていた将兄が顔を上げて私を見た。
「なぁ、『野乃屋』で雇ってくれねぇかな? 『野乃屋』だったらどんな仕事か分かってる。俺、丁稚でも何でもするし」
「私に言われてもねぇ。でも将兄は祖父さんにも気に入られてるし、体力もあるし、雇ってくれるんじゃないかな?」
「そんなん駄目だ!」
今までずっと黙っていた由起彦が立ち上がって怒鳴り声を出した。
「『野乃屋』は俺が継ぐって決まってるんだ!」
「知ってるよ。お前の下で働かせてくれよ」
「駄目だ! 兄貴なんて絶対に雇うか!」
また兄弟喧嘩だ。この二人は本当、仲悪いよな。
「でも将兄、困ってるんだし、『野乃屋』で雇ってもいいじゃない」
「駄目だ! お前みたいに情けない奴は、絶対雇うか!」
「俺、情けない?」
「情けない! 自分の顔、鏡で見てみろ!」
「みこ、鏡持ってる?」
「あるよ」
私だって年頃の娘さんだ。鏡くらい持っている。それを渡してやる。
うつむいて、じっと自分の顔を見る将兄。
「情けねぇ顔だ」
「まぁ、そうかも」
「情けねぇ、本当、情けねぇよ」
鏡の上に水滴が落ちた。将兄の顔を覗き込むと、大粒の涙をこぼしていた。思わずぎょっとなる。こんな情けない顔で泣いている将兄なんて初めて見た。
さらには声を詰まらせ始めた。
「馬鹿野郎!」
そう叫ぶと、由起彦が荒っぽくベンチに座った。その顔を見る。
「由起彦も泣くの?」
「泣くかよ」
「でも泣きそうな顔だよ?」
「泣かない」
「泣いてもいいんだよ?」
「泣かない。お前の前じゃ、絶対に泣かない」
「私の前だから泣いていいんだよ?」
「泣くかよ」
でももう泣いていた。
声をこぼさないように必死でこらえながら泣いている兄弟二人の頭を撫でてやる。ずっとずっと撫でてやる。
それからも将兄は毎日『野乃屋』に通い続けた。
ある日は怒っていた。別の日は落ち込んでいた。
その日は何も考えていないような、ぼーっとした顔をしていた。
「なぁ、みこ。お前、もし『野乃屋』に生まれてなかったら、何やってたと思う?」
「さぁ? 生まれる前から『野乃屋』の人間だから、そんなの考えた事もないわね」
「当り前のように『野乃屋』?」
「ように、というか、『野乃屋』なのは当り前だよね」
「考えるまでもないのか?」
「そう、私は『野乃屋』。それしかありえない」
次の日、将兄は上機嫌でお店にやってきた。
「どうしたの?」
「進路決めた」
「何? ベンチャー?」
「いいや、ベンチャーったって、よく考えたら何やる会社かすら知らなかったからな。大学残って教授の下で助手やるわ。ずっと秘境巡り」
「それって簡単になれるものなの?」
「知らん。でも、何が一番しっくりくるか心に聞いてみたらそうなった」
「おじさんは許してくれるの?」
「もう関係あるかよ。親父には絶対に無理だって言われた。『じゃあ、あんたなった事あるのかよ?』って言ってやったんだ。そしたらキレられた」
「え? おじさんキレたの?」
「ブチギレだぜ。『ないに決まってるだろ! 文系の学者の世界なんて知るか! そんな見当も付かない世界に息子を放り込めるか!』だとよ」
「はー、ほとんど逆ギレね」
「親父、エンジニアだろ? エンジニアって、難しい数式こねくり回すもんだと思ってたけど、まずは勘らしいんだよ。勘で見当付けてから計算するんだってさ。ベンチャーぐらいだったら、勘で大体の見当は付くんだと。自分の仕事とか人生経験で。でも全然知らない世界になると勘が働くまで時間がかかるらしいんだ。そんなの知ったかぶっときゃいいのに、親父は馬鹿正直だから頭真っ白になったみたいだな。それでブチギレ」
「勘なの? えらくいい加減ね」
「意外に侮れないぜ? あの親父がキレるところ見れてうれしかったよ。立ち直りも早いけどな。昨日も真夜中に高校の同級生だかに電話していろいろ聞いてたわ。あの調子だとすぐに勘が働くようになるんだろうな。まぁ、ありがたい話だぜ」
「ふーん、じゃあ、将兄は助手になるんだ?」
「なれるかどうか、さっぱり分からんけどな」
「なれなかったら『野乃屋』で雇ったげるよ」
「それはいいわ。あれは恥ずかしい事言っちまったよ。弟の前で言う事じゃなかったな。なれなかったらなれなかったで、何とかなるだろ」
「そんなものなの?」
「いや、分からんけどな。未来なんてよく分からんもんだろ? 親父は良い未来になる確率上げろって言ってたけど」
私の場合、未来は決まってるけど。
本当にそうなのかな? もしかしたら、ものすごく美味しい和菓子屋が近所に出来て『野乃屋』のお客が全部取られるかも?
由起彦以外の男子に惚れちゃったりとか? いや、向こうがそうなる可能性もあるのか。
とにかく完璧に決まり切った未来なんてある訳がないのか。そうかもしれない。
「じゃ、明日東京戻るから」
「急ね」
「用が済んだからな。何かやる事決まったから気分爽快だぜ」
「じゃ、お菓子お土産に持って行ってよ」
「おう、ここの味ともしばらくお別れだな」
翌日、将兄を駅で見送った後、由起彦と一緒に『野乃屋』まで戻る。
「さ、いらっしゃい。今日は何にする?」
「おう。あのなー」
横を向いて声をかけてくる。
「何?」
「この前、みっともないとこ見せちまったよなー」
頭をかきながら、ちらりとこっちを見る。
「まぁね。兄弟二人揃って泣きわめいてたもんね」
「わめいてはないけどなー。あれ、忘れてくれよなー」
「いいや、忘れない。由起彦がどれだけ将兄が好きかってよく分かったし」
「気持ち悪い事言うなよなー」
私はカウンターの上に身を乗り出す。
「格好いいお兄ちゃんでいて欲しかったんでしょ?」
「がさつなのがお似合いだと思っただけだって」
「二人とも可愛かったよ」
「はぁ?」
「うん、可愛かった」
微笑みを見せる。