兄上の帰還2 美女とデート
私がいつものように家の和菓子屋の店番をしていると、水野が一人でやって来た。
この水野は私の幼馴染みであるところの水野由起彦ではなく、その兄の水野将彦である。
東京の大学に行っている彼は、春休みだという事で実家に帰ってきたのだが、何故か私のお店に入り浸っているのだった。
「で、遠くから近づいて来る滝の音。しかもとてつもなく大きな滝だ。このままではいかだごと呑み込まれてしまう。しかし肝心のオールは流されてもうない。焦るうちにどんどん滝の音が迫って来る」
「その話の続きも気になるけど、将兄、せっかく帰って来てるんだから、家で親孝行とかしなよ」
「家は居づらいんだよ。実家に帰ってきたっていうアリバイさえあればいいから、後はどこで暇潰そうが俺の勝手だろ?」
「ご両親が泣くよ?」
「今更だっての。で、滝が迫って来る訳だ」
そこへお客さんが。
「いらっしゃいませ、咲乃さん」
「こんばんは、みこちゃん。お言葉に甘えて来ちゃった」
「どうぞどうぞ。好きなの言って下さい」
この冬大学受験だった咲乃さんは、艱難辛苦を乗り越えて見事志望校に合格したのだった。それがつい先日の事である。
そのお祝いに、私のお店の和菓子を好きなだけおごるという話をしていたのだ。
「おい、みこ、こちらの美人さんは誰だ?」
将兄が、咲乃さんに聞こえるのも構わず聞いてきた。この人にデリカシーというものを期待してはいけない。
「森田咲乃さん。八百森の娘さんだよ」
「初めまして。森田です」
にっこりと笑顔を見せる咲乃さん。
こんな得体の知れないむさ苦しい男相手でも、その輝かんばかりの笑顔は少しも曇る事はなかった。
「森田って、森田ちゃん! 小学、中学同じだよ。俺、水野将彦。二個上。知らない?」
そうか。将兄と咲乃さんは同じ学区になる。年は二つ違いなのか。ちょうど咲乃さんが中学一年生の時に、将兄が三年生だった事になる。
咲乃さんは難しい顔でしばらく首を傾けていた。そういう仕草もまた良い。
一転、晴れやかな笑顔。
「ああ、水野先輩。中学の体育祭で大暴れしていた水野先輩ですよね? 声がやたらに大きくてすごく目立ってました」
「そうそう、その水野」
「でも失敗ばっかりで足引っ張ってたんで、同じ赤組だった私のクラスじゃ非難ごうごうでしたよ」
「え? ああ、確かにその水野」
「卒業式の時に先生にお礼参りしようとしたら、逆に先生からお礼参りされた水野先輩ですよね? 不良でも何でもないのに」
「あ、ああ、そういう愛情表現だったんだよ」
昔から碌でもない奴だったようだ。
「でも将兄も咲乃さん、知ってたんだ?」
「当り前だろ。中一にすごい美少女が現れたって、俺達騒然としたものだって」
「その俺達って、ナンパ同好会だっけ?」
「女子鑑定委員会だよ」
「どっちにせよ、最低な集団だよね」
「でも水野先輩と直接お話しした事ってありましたっけ?」
小首を傾げる咲乃さん。
「ナンパ同好会は、ナンパに憧れるだけのヘタレ集団だから、結局女子には何も出来なかったそうなんですよ」
「みこ、余計な事言うな。女子鑑定委員会はあくまでかわいい女子を見付け出すのが目的で、変な下心は持ってないんだよ」
「そしてかわいい女子に彼氏が出来たのを、ハンカチくわえて悔しがるんだよね。由起彦が言ってたよ」
「面白い人達ですね」
手を口元に当てて笑い声をこぼす咲乃さん。
「あーいやー、今は違うぞ。今はこれと決めた女の子には果敢にアタックしていくからな」
「じゃあ、彼女いるの?」
「いいや、いない」
「駄目じゃん」
「探検で忙しいんだよ」
「探検? そう言えば、さっきから気になってるんですけど」
咲乃さんが厳しい視線で将兄を見ている。一連の発言がお気に召さなかったのだろうか?
「身体、鍛えてます?」
ああ、そういう事ですね。咲乃さんは自分でも言っているが筋肉フェチだ。前の彼氏もラグビー部だったそうだ。
将兄なぁ、確かに山登りを趣味にしていて、秘境巡りもしている将兄の体つきはがっしりとはしている。決してお勧めできる人材ではないけども。
「おう、身体だけは鍛えてるぜ」
「脳みそまで筋肉だもんね」
「ちょっと、ちょっとだけ、触っていいですか?」
咲乃さん、既に鼻息が荒い。
「お? いいぞ、美女に触られるのは光栄の至りだ」
最初は遠慮がちに人差し指で。「おお」と声を上げた後は、両手でぐいぐい将兄の身体を押しまくる咲乃さん。
「どうだ? なかなかのものだろ?」
「絶品ですねぇ。もっと力入れてもらえます?」
腕を掴んだり、脇腹を摘まんだり、挙げ句は太ももまで触りまくる。正直私はドン引きだ。
「このふくらはぎの腓腹筋、たまりませんねぇ」
「おう、分かってくれるか。だてに秘境を歩き回ってないぞ」
非常に微妙な時間が経過して、ようやく咲乃さんが立ち上がる。
「ふー、堪能しました」
咲乃さん、顔を真っ赤にして興奮気味である。
「あー、じゃあ、お菓子選んで下さいよ」
「ああ、そうだね。和菓子だよね。今なら何個でも食べられる気がするよ」
実際山ほど和菓子を選んでいった。
「あ、ごめん、遠慮なしだよね」
「いいですよ。お祝いですし。じゃ、合格おめでとうございます」
「ありがとう、みこちゃん。じゃ、また明日、走りましょう」
「体重落とさないといけませんもんね」
「みこちゃん、余計な事言わない」
将兄を見て少し肩をすくめる。
そして今日はいつも以上に足取り軽く、帰って行った。
咲乃さんをお店の外まで見送った後、将兄がいきなり口を開く。
「おいおい、あれは俺に気があるんじゃないか?」
「はぁ? 咲乃さんは単に筋肉に興味があるだけだよ」
「でもあれだけ撫で回してくるなんてないだろ?」
「尋常じゃない筋肉フェチなだけだよ」
「おし、俺ちょっと押してみるわ」
「何を?」
「森田ちゃん。デートにでも誘ってみるわ」
「え! ヘタレの水野兄弟にしては意外に積極的ね」
「俺は東京で生まれ変わったんだよ」
「へー。東京は人を変えるのね」
「で、みこ。どこ誘えばいいと思う?」
「何だよ。そこで中学生頼りかよ」
「この辺、よく憶えてないんだよ」
「そうねぇ。残念ながら、いい物があるわ」
カウンターの中にしまって置いたはずだ。あ、あったあった。
「サッカーのチケット。ちょっと遠くなるけど」
新聞屋さんがくれたけど、私の家でサッカーに興味のある人間は一人もいないのだ。常連さんにでもあげようと思って、ここに入れておいたのだが。
「ナイスだ、みこ。じゃあ、森田ちゃんに声かけてくれ」
「え! それも私にやらせる気?」
「いやー、仲の良いお前の方が確実だろ? 今度好きなだけ店の手伝いしてやるからさ」
「何かおごってくれるとかじゃないんだ?」
「金はないんだよ。少ない持ち金を今回のデートに全投入する」
「しょぼい、あんた、しょぼ過ぎるよ」
翌朝。私と咲乃さんは、毎朝ジョギングをしている。
「三キロ、三キロ、三キロ」
咲乃さんがぶつぶつ呟いている。三キロというのは、この受験で増えた咲乃さんの体重だ。ストレスが溜まると食べずにはいられない人なのだ。
それだけならまだしも、いたいけな中学生に意地悪をして、ストレス解消を図るというタチの悪い事もやらかす。
「でも全然太ってるようには見えませんけどね」
「見えないところにお肉が付いてるんだよ。カップのサイズも大きくなったし」
「え! それって滅茶苦茶いいじゃないですか」
「あんまり大きくなるのもねぇ」
贅沢な悩みである。
私の友人の、胸にコンプレックスを抱えている恵が聞いたら発狂しかねない発言である。
「咲乃さんって、サッカー興味あります?」
「スポーツは何でも好きだよ。サッカーはねぇ。足の筋肉が、これがまたたまらんのですよ。まず太さがですねぇ」
「いやまぁ、熱く語られても分かりませんけどね。将兄、昨日の水野将彦ですけど、あいつがサッカーのチケット持ってるんですよ。よかったら一緒にどうですか? って言ってるんですけど、どうです?」
「みこちゃんも来るの?」
「いいえ。二人だけです。やっぱまずいですよねぇ」
「いいね。行きたいな。サッカー観るのも久しぶりだ」
「え? でも二人っきりですよ? デートですよ?」
「うん、デート。いいじゃない。水野先輩、面白い人だし。あー、デートなんて久しぶりだなぁ」
あっさりと話がまとまってしまった。
え? デートですよ?
「よくやった、みこ」
いきなり抱き付いてきやがった。
「兄貴、離れろって」
由起彦が兄である将兄を引き剥がす。この兄弟は微妙に仲が悪い。
「とにかくデートだし。粗相のないようにね」
「分かってるって。東京の男の素晴しさを堪能させてやるぜ」
「いや、あんたはあくまでも田舎出身だから」
「でも兄貴なんかとデートとか、森田さんも何考えてるんだかなー」
「ん? 由起彦嫉妬か? 美人のお姉さんとデートする俺がうらやましいのか?」
「ああ、由起彦って、咲乃さんが好みのタイプなのよ」
「それ言うなよ、みこ」
「ん? そうなのか?」
と言って、私の顔を見る将兄。
「みこと全然タイプが違うだろ?」
「みこは関係ないって」
「お前、好みでもない女と付き合ってるのか?」
「付き合ってない」
私と由起彦が同時に言う。
「どっちにしても、好みなんて関係ないだろ?」
「まぁそうか。好きになれば好みなんて関係ないよなー」
にやにやしながら私と由起彦を見比べる。
「好きとかでもないし」
「そう言うなって。そうだ、俺と森田ちゃんの仲取り持ってくれたし、俺もみこと由起彦の仲を取り持ってやろう」
「余計なお世話だ」
また二人同時に言う。
「そんな事言ってても、お前ら全然前に進まないだろ? 恋愛巧者の俺に任せろって」
「いつあんたが恋愛巧者になったのよ」
今回は全部私のセッティングなのだ。
ウゼ―、うかれてるこいつは、いつも以上にウゼ―。
デートの日の夕方。いつものように私は店番。由起彦がやって来た。
「兄貴達、遅くないかー」
目に見えて焦っている。
こいつ、そんなに咲乃さんがいいのか? 何か腹立ってくるな。
「まー、オ・ト・ナのデートだし、何があっても不思議はないわよねぇ」
「いや、でも一回目のデートだぞ?」
「咲乃さん、受験でストレス溜まってたからねぇ。思いっきり、はっちゃけちゃうかもねぇ」
「は、はっちゃけるって?」
「それは中学生には想像も付かない事よ」
実際ただのハッタリである。
しかし由起彦には効果絶大であった。店内をうろうろしだした。
「ていうか、あんた本当に咲乃さんが好きなんじゃないの?」
「え? いや、好きとかそんなんじゃないぞ?」
「でも咲乃さんが絡むと、あんたの行動は常におかしいのよ。いっつもデレデレなのよ」
「いや、それは、あの人きれいだし、仕方ないだろ?」
「度が過ぎると思います」
「でも、お前と森田さんの二択で、お前選んだだろ?」
確かにそういう事があった。咲乃さんの意地悪で、由起彦に二択を迫ったのだ。そして私が選ばれた。正直うれしかった。
「だがしかし、その後あんたはキスしようと迫った咲乃さんを避けようとはしなかった」
「あれだって散々釈明しただろ?」
確かに釈明は受けた。いきなり来たので驚いて身体が動かなかった、どうのこうの。
こいつ、運動部でエースなんだし、運動神経はあるだろうに。下手な言い訳だった。
よし、では試してやろうではないか。
「由起彦、ちょっとこっち来い」
「何だよー」
由起彦がカウンターに身を乗り出す。
私は背伸びすると、由起彦の首に両手を回す。そして顔を近付ける。
「おい、やめろって」
私の口を由起彦が手で覆って押し返した。
「ほら、私だと避けるじゃん」
「馬鹿、みことはそんな簡単にキスしたくないんだよ」
そう言って、そっぽを向いた。
我ながら恥ずかしい真似をしてしまった。それ以上に、由起彦の言葉が恥ずかしかった。
「軽はずみな真似するなよなー。ムードとかあるだろ」
「そうね。ムードは大事よね」
「ムードゼロだったー」
いきなり入って来たのは将兄だった。
慌てて横を向いて、火照った顔を必死で冷ます。
「もうね、あんな強烈な娘だと思わなかったって」
「どう強烈なの?」
どうにか冷ました顔で将兄を見る。
「まずな、ものすごい双眼鏡持って来たんだよ。どこの軍隊だよってぐらいでっかいの。そんで試合の間中、ずっとそれ覗いて怒鳴ってる訳。一応試合の応援してるんだけどな、あれ絶対、選手の足ばっか見てたって。口元、常に半笑いなんだからな。よく見たらよだれも垂れてた」
「将兄ガン無視?」
「ガン無視。その後食事に行ったんだけどな。もうずっとサッカーの話。ていうか、サッカー選手の話。ていうか、サッカー選手の筋肉の話。もうね、たまらんですよ」
将兄をもってしてもドン引きさせる咲乃さんの筋肉フェチ。おそるべし。
「で、何事もなくご帰宅って訳?」
「全く何にもなく終了だよ。手すらつないでない。そのでっかい双眼鏡の入ったケースが邪魔で、手なんてつなげる状態じゃなかった」
「へっ、ざまぁないな、兄貴」
由起彦が珍しく邪悪な顔をして、うなだれている将兄を見下ろした。
「モリタチャンニハ キヲ ツケロ。それが俺の遺言だ」
「まぁ、とっくの昔に知ってるけどね」
「疲れたしもう帰るわ。由起彦も早く帰ってこいよ」
将兄が重い足を引きずりながら退場した。
「ん? あんた、ものすごく晴れ晴れした顔してない?」
「ん? ああ、兄貴め、ざまぁみろってところかなー?」
「いや、咲乃さんと何もなかったから安心したんでしょ」
「え? そんな事ないぞ?」
「はぁー、今日も訊問が必要なようね」
私はごきごきと首を鳴らす。
翌日のジョギング。
咲乃さんは艶やかな笑顔で私を迎えにきた。
「昨日、面白かったですか?」
「いやー、もうね、たまらんですよ。テレビはアップばかりじゃないですからね。それが見放題ですよ。丸太のような太もも、最高ですわ」
「あー、一応昨日はデートだったんですよね?」
「ん? 名目上は?」
「名目上?」
「いや、水野先輩、下心オンリーじゃない。最初に会った時も私の胸ばっかり見てたし、デートのお誘いもみこちゃんからとか手抜きだし。私、そういう人には容赦ないよ?」
「ああ、それでこそ咲乃さんですよね」
「イタリアンもガッツリ頂いたし、指一本触れさせなかったし、我ながら完璧ですよ」
「そうやって意地悪するのも楽しみの一つなんですよね?」
「その通りだよ、みこちゃん。はー、昨日はもう、最高だったわ」
そして将兄にとっては最悪なデートだったのだ。
ご愁傷様。
いや、自業自得だ。