くっ、不覚を取った
今日は日曜日。
家がやっているお店の手伝いはお休み。
こういう日、私、野宮みこは大抵猫喫茶『オッドアイ』に終日いる。
普段は一日一時間しか居れないので、ここぞとばかりに猫を愛しまくるのだ。
はぁ、今日もベティのモフモフは最高!
「で、何で由起彦がいるの?」
「そんな事言うなよー。ちょっとぐらい教えてくれてもいいだろ?」
「ノート写させてあげただけで十分じゃない。宿題くらい、家でやりなよ」
「俺が理数系、全滅なのは知ってるだろー」
まぁ、知ってるけど。
この幼馴染みの事は知り尽くしている。将来、私の家がやっている、和菓子屋『野乃屋』の後を継ぐという未来まで知り尽くしている。
だがしかし、目の前の席でノートと教科書を広げられていると、はっきり言って目障りだ。中学生という現実を、本来勉強しないといけない存在である現実を、思い出させられるのだ。
まぁ、いいか。私はベティを撫でる事に集中しよう。はぁ、ベティ、最高。
「おい、ここ教えてくれよー」
「いや、私が動くとベティが嫌がって膝から下りちゃうのよ」
「分かったよ」
よし、分かったか。
あれ? おいおい、何こっち側の席に移動してるんだよ。
このテーブルは両側が通路になっている。私は片側の端にいるので、反対側の端に由起彦が移ってきた。
「ここだよ、ここ。どの式を使えばいいんだー」
由起彦が身を寄せて教科書を差し出してくる。
近いぞ、由起彦。
まぁ、仕方がない。私も鬼じゃないんだし、教えてやるか。
「ああ、これはこう展開して、この式に当てはめればいいのよ。簡単じゃない」
「そりゃ、みこは数学が得意だから、簡単だって言うんだよー」
文句を言うなら、向こうへ行け。
しかし由起彦は動かず、相変らずこちら側で問題を解いている。
ちなみに私は昨日、一昨日のうちに宿題を終えている。そこを写す事は断じて許さない。宿題は自力でやるものなのだ。
「それはそうとさー」
「何?」
ベティのモフモフに集中させろ。
「俺、告られた」
「はぁ?」
私が思わず由起彦の方に向いてしまったので、驚いたベティが膝から下りて向こうへ行ってしまった。
いや、今はそれよりも。
「誰よ、その素っ頓狂な相手は?」
「バレー部の女子だよー。同じ体育館で練習してるだろ? それで練習してる俺を見て好きになったんだってさー」
なるほど、そういう方向からの接近があり得たのか。これはうかつだった。
まぁしかし、大した問題ではない。
「で、どうやって断るの?」
「え?」
「え? いや、断るんでしょ?」
「何で?」
「何でって、断るんでしょ?」
「いや、その娘、なかなか可愛いかったんだよなー」
「ふーん。でも断るんでしょ?」
「何で断るの前提なんだ?」
何で? 何でって、断るに決まってるでしょ? 由起彦に他の女子と付き合うなんて選択肢はないのだ。
「他の」? 他のじゃない女子って誰の事だ? ああ、まぁ、その話は別にいいか。
「あんたが女子とお付き合いするなんて、ちゃんちゃらおかしいじゃない」
「そうかなー? 別にありだと思ったんだどなー」
何を言い出すんだ、こいつは。
そんな選択肢はないんだってば。
「いや、ないって。よく想像してみてよ。女子とお手々つないでキャッキャとイチャついている自分を想像してみてよ。ありえないでしょ?」
私も想像してみたが、そんな由起彦はありえなかった。
そう、由起彦の隣にいるのはいつだって……いつだって? いや、ここでは私は関係ない。関係ないのか?
「たまにはそういうのもありかなーって気がしたんだよなー」
「いや、たまにはでお付き合いされる方の身にもなってみなよ。そんなお手軽なものじゃないでしょ?」
「その女子はお試し期間ありだって言ってくれたんだよなー」
「何それ?」
「まずはお試し一ヶ月。それで気に入らなかったらお断りしてもいいって言ってくれたんだよー。これってなかなか良い話だろ?」
そんな都合の良い話があるのだろうか?
まずはお試し一ヶ月? そんな通販みたいな話があるのだろうか?
いや、ありえないでしょ?
「それって、絶対裏があるって」
「裏って何だよー」
「一度捕まったら最後。骨の髄までしゃぶられるわよ。蟻地獄だわ」
「何だそりゃ? そんな悪い娘じゃないってばー。手作りクッキーまでくれたんだぜ?」
「でもあんた、甘い物は苦手なんでしょ?」
「健気な心に打たれたんだよー」
「いや、私だって、小学五年の遠足の時に、手作り弁当作ってきてあげたじゃない」
「あれは最悪だったよなー。どんな罰ゲームだよ、って思ったぞ」
確かに私は普通の料理はまともに作れない。味の加減が分からないのだ。
それにしたって最悪なんて言い方は酷すぎる。
「毎日のようにノート写させてあげてるじゃない」
「まぁ、それは助かってるけどなー」
「小学六年の冬、風邪引いた時だって毎日お見舞に行ったじゃない」
「あれはみこが池に突き落としたからだろー?」
「う。あ! あんた、幼稚園の時に、私に告白したじゃない。お嫁さんになって下さいって、告白したじゃない」
「あんなのガキの遊びだろー。ていうか、何でさっきからみこの話になってるんだ?」
由起彦がにやにやとこっちを見ている。
クソ、足元見やがって。
「べ、別に私の話じゃないわ。えー、あー、つまりー、あ! 手作りクッキーごとき、大した事じゃないって話よ。幼馴染みの私だってそれくらいしてるって話よ。幼馴染みの私でも」
幼馴染みを強調しておかねばならない。
そうでなければ、まるで私が嫉妬しているみたいじゃないか。
断じて違う。幼馴染みとしての忠告なのだ。ここはそういう設定なのだ。
由起彦は相変らずにやにやしている。何か、無性に腹が立ってきた。そろそろぶん殴ってやろうか。
由起彦が私に顔を近付けてきた。え? 何よ。
「そんな夢を見た」
由起彦がにやーっと笑いながら言ってきた。
「は?」
「夢の話だってばー。そんな幸せな夢を今朝見たんだよー」
「はぁ?」
「そんな良い話があればいいよなー。良い夢だったよ。ホントに」
取りあえずぶん殴っておく。
私の右フックが由起彦の頬をえぐる。
「痛いって、殴るなよ」
「タチの悪い冗談だわ」
「何でみこがそこまで焦るんだよー」
頬をさすりながら、懲りずににやにや笑いを続ける由起彦。
くっ、いつの頃からか、私のパンチを受けてもこいつは少しも堪えなくなっている。体力差が付きすぎているのだ。
「焦ってなんかないわ」
「いや、滅茶苦茶焦ってただろ」
「そんな事ないって」
「素直になれよみこ?」
「もう一回ぶん殴られたいの?」
「素直になれば許してやるよ」
「分かったわ」
「お?」
軽く咳払いをする。
「由起彦、あんたはね」
「俺は?」
「あんたはね」
「俺は?」
「あ、吉川さん、オレンジジュースお願いします」
猫喫茶のマスターにジュースのお替わりを注文する。
「何だそりゃ? いっつも人の事ヘタレだなんだって言ってるくせに、自分だって似たようなものだろー?」
「違うわ。私はヘタレじゃないわ。単に素直じゃないだけよ」
マスターの吉川さんがオレンジジュースをテーブルに置いてくれる。吉川さんまでにやにや笑いだ。
ストローをくわえて、一気にジュースを喉に流し込む。何故ここまで喉が渇くのだ?
「俺はヘタレで、みこは素直じゃないのか」
「そうよ、前途多難なのよ」
お互い顔を見合わせ、深くため息をつく。
「あ、そうだ。あんた、宿題しなさいよ」
「そうか、そうだな」
由起彦がのろのろと問題に取り組み始める。
その横顔を眺める。
さっき殴ったところがまだ赤い。
何となく胸がもやもやする。
さっきの話。焦るどころの話じゃなかった。こいつに彼女が出来たら、私はどうなるのだろう? とんでもない不安に圧し潰されそうになった。
「え? 今何した?」
由起彦が突然こっちを向いた。
「え? 私何かした?」
「いや、頬にキスしてきただろ?」
「気のせいじゃない?」
「気のせいか」
「気のせいよ」
由起彦がまた宿題に取りかかる。
気のせいな訳がない。気付いたらキスしていたのだ。何でだろ。
でも、ちょっとだけスッとした。