美術の授業で
トレーに張った水の上に絵の具を落とす。色を変えて何回か。
水をぐるーりと、ゆっくーりと、かき回す。
さぁ、良い感じになってきた。
画用紙を慎重に水に浸す。そして静かに引き上げる。
画用紙に絵の具の模様が写っている。よし、成功だ。
ここは中学校。今は美術の時間。
絵の具を使った様々な技法を使って、作品を仕上げるという課題。
私はマーブリングを試してみた。
画用紙の上にはマーブル模様がしっかりと描かれている。
これが乾いてから、後は手書きで好きな絵を描き加えていくのだ。
ちなみに和菓子屋の娘である私は、何かというと和菓子の絵を描くので、美術の先生から和菓子を描くのを禁じられている。
じゃあ、猫を描こうかと思ったけど、地がマーブル模様だと、なんだか精神が不安定な猫みたいになってしまうと気付いた。
青が目立っているので、それを空に見立てて遠足で行った公園でも描こうか。
ちょっと時間が出来たな。他の子はどんなのを描いているのかな?
友人の恵のところへ行ってみた。
恵は、画用紙から少し離して小さな金網を構え、絵の具を浸した歯ブラシでその金網をこすり、霧状の模様を描いていた。
スパッタリングだ。
「何描いてるの、メグ?」
「……」
返事がない。
恵は一心不乱に金網を歯ブラシでこすり続けていた。
画用紙の上に、何色も重ねられた霧状の絵が描かれていく。
絵の具がかからないように型紙が画用紙の上に置かれているのだが、まずもって、その型紙が異様に凝っていた。
つたが複雑に絡み合っている図案なのだが、カッターナイフ一本でよくもここまで仕上げたものだ。しかもそれが何種類もある。
型紙を取り替え、絵の具を付け直し、さらに歯ブラシを動かし続ける。
恵は勉強にしろ料理にしろ、何でもかんでも出来る人なのだが、それは才能があるからではなかった。恵はひたすら努力する人なのだ
その集中力は半端ではなかった。
料理を勉強しだしたのは小学生の半ば頃らしいが、学校から帰ると何時間でもキッチンに籠もっていたそうだ。
その頃の夕食は毎食恵が作ったのだが、最初のうちはとてもじゃないけど食べられるものではなかったらしい。本人がそう言っている。
それでも懲りずに作り続け、中学二年の今ではどこへお嫁に出しても恥ずかしくない腕前にまで到達している。
そして今は絵画に集中している。脳内物質という奴のせいだろうか? 何故か顔は半笑いである。
そっとしておこう。
同じく友人の実知のところへ行く。
「あれ? もう終わったの、ミチ」
「うん、ぱぱっと済ませた」
実知は暇そうに、両手を頭の後ろに回して椅子にもたれかかっていた。
実知の絵を見てみる。
絵の具を乗せた画用紙を二つに折ってくっつけて、左右対称の模様を作り出す、デカルコマニーをしていた。そこにちょちょいと線を付け足している。
「何これ?」
「立ち上がった熊」
そう、言われてみれば? そう、見えなくも? ないかな?
万事大雑把な実知らしいが、本人が立ち上がった熊だと主張しているのであれば、これ以上の追求は避けておこう。
自分の席に戻りかけた所で、水野由起彦の姿が目に入った。こいつは私の幼馴染みである。
後ろから覗き込んでみる。
水を多く含ませた絵の具を画用紙に垂らし、それをストローで吹き飛ばして模様を作る、ドリッピングをしていた。
必死になってストローから息を吹き出して、顔色がすっかり青くなっている。酸欠じゃないのか?
後ろから見ているとかなり滑稽な絵面だ。しばらく眺めてみようか。
由起彦も割と努力の人だ。部活でエースをやっているが、休みの日も筋トレなんかをやっているのを私は知っている。近所の公園でよく見掛けるのだ。
よく見掛けるのではあるが、声をかけたりはしない。うーん、何でだか自分でもよく分からないのだが。
あ、ようやく吹き終わった。
由起彦がパレットを持って振り返るのを、私はとっさに避ける事が出来なかった。
パレットが当たって絵の具が私の制服に飛び散った。
「あ、野宮」
由起彦もぶつかるまで私に気付かなかった。
「悪い」
由起彦が絵の具のかかった場所に手を伸ばす。
「いや、いいって」
慌てて後ろに下がる。そこ、胸ですから。
「後ろで見てた私が悪いし」
「いや、でも」
由起彦が不器用にハンカチを取り出すと、私の制服に手を伸ばす。
いや、だからそこ胸ですから。
「いいって、いいから」
自分のハンカチで垂れかかった絵の具を拭いていく。
「脱げよ」
「はぁ?」
いきなり何を言い出すんだ、こいつ。
「いや、洗って返すし」
「大丈夫だから」
うちの学校はセーラー服で、頭から脱がないといけないのだ。こんな公衆の面前で脱げるものじゃないのだ。
いや、それ以前に、今まで着ていた服を男子に渡すなんて、恥ずかしいじゃないか。
「そういう訳にはいかないって。いいから脱げって」
「いや、大丈夫だから」
何か、変な押し問答になってきたな。
周りの子もこっちを見ている。
「おい、みこ、取りあえずジャージに着替えて来いよ」
実知が声をかけてくれる。そうか。そうだな。
「そうする。じゃ、水野君、気にする事ないし」
先生に断りを入れてから、美術室を出て行く。
出て行き間際ちらりと見ると、恵は今の騒動なんてどこ吹く風、マイペースに歯ブラシを動かし続けていた。恐るべき集中力だった。
お昼休み。
友達二人と弁当を広げる。
「え? そんな事があったの?」
歯ブラシの魔物から解き放たれた恵が、ようやく事態を把握する。
「そう。だからジャージな訳」
絵の具がかかった制服の上着は、美術の先生に言われた通り、家庭科の先生に手伝ってもらって浸け置き洗いをしておいた。
まぁ、元々が紺だし、残ったとしても汚れは目立たないだろう。
「そうか、だから水野君、ずっとみこを見てるんだ」
「え? そうなの?」
後ろを振り返ると、由起彦が顔を逸らすのが目に入った。
そんな気にする事なんてないのに。私が悪いんだし。
「気にしすぎなんだよ」
私が思わずため息をつくと、実知がにやにや笑ってくる。
「愛しいみこに、嫌われたくないんだよ」
「いや、そんなんじゃないし」
ちょっと、むっとする。
しばらくして私だけが食べ終わる。家がお店をやっていて忙しいので、私は食べるのが早いのだ。
「おい、野宮ー」
「何、水野君」
振り返ると由起彦が立っていた。
「やっぱり、クリーニングして返すし」
「いいってば、大体落ちそうだし」
「そういう訳にはいかないって」
「しつこいなー」
「汚したのは俺だから」
「後ろで突っ立っていた私が悪いんです」
「気付かなかった俺が悪いんだって」
「私が悪いんです」
「俺が悪いんだ」
いつの間にか睨み合いになっていた。
「本人がいいって言ってるんだから、放って置いてよ」
「駄目だ。制服、寄越せ」
いい加減ブチギレた。
勢いよく立ち上がると、由起彦の胸を突き飛ばす。
「いいって言ってるでしょ! しつこいって、馬鹿!」
「馬鹿って何だよ、言う事聞けって!」
由起彦が手を伸ばしてきたが、かろうじてかわす。
「はい、しゅうりょー、この話題しゅうりょー」
もういい加減、うんざりだ。
由起彦に背を向けると、扉の方へ歩きだす。
「勝手にどこ行くんだよ」
「付いて来ないでよ、トイレだし」
最後にひと睨みして、教室を出て行く。
そのまま昼休みが終わるまで、トイレに籠もっていた。
何やってるんだろ。でもあいつがしつこすぎるんだよ。悪いのは私なんだし。
今日は五時限目で終わりだ。
ホームルームが終わると同時にダッシュで家庭科室へ。制服を回収し、職員室で家庭科の先生にお礼を言って、即、家へ帰る。
我ながら馬鹿みたいな意地を張っている気がするが、これ以上由起彦に余計な事を言わせるつもりはなかった。
だがここからが問題である。由起彦の奴は、私のお店に毎日和菓子を買いに来るのだ。そして私はお店の店番をしないといけない。
私は家に帰ると、制服を洗うからと言って、店番を祖母さんに代わってもらった。洗っておくからと祖母さんが言ってくれたが、これも練習だし、とか何とか理由を付けて、とにかく店番を代わってもらった。
家庭科の先生に教えてもらったように、洗剤でもみ洗いだ。よし、落ちた。見た目全然分からない。でもまだ由起彦が店に来るまで時間がある。このまま店番はサボりである。
手持ちぶさたなので、自分の部屋で実知からずっと借りっぱなしだったマンガを読む。
そろそろあいつが来る頃だ。
私の部屋はお店の真上の三階にある。窓からはお店の前を見下ろす事が出来る。でもこっちから覗き込むと、向こうからも見えてしまう。ここは我慢だ。
もうそろそろだ。いや、我慢だ。
もう来てるかな? いや、我慢だ。
部屋の扉がいきなり開かれる。
「みこ、由起彦君よ」
母さんが顔を覗かせる。
いい加減私も年頃の娘さんなんだし、扉はノックするよう言っているのだが、全然言う事を聞こうとしないのだ、この人は。
「いないって言って」
「いや、いるじゃない」
「だからいないって言っといてよ」
「喧嘩?」
何故かにやにやしている。
「あー、うん。そう。喧嘩中。顔も見たくないし」
「ふーん」
「変な気、利かしたりしないでよ」
「分かった。顔も見たくないって言っておくわ」
母さんが扉を閉めた。
顔も見たくないなんて、本当に言わないだろうな?
コツ。
窓から音がする。
コツ。
まただ。
あいつだ。こういう事をするのはあいつに違いなかった。
窓を開けて、顔を出す。精一杯、不機嫌そうな顔をして。
「何?」
離れているので、ちょっと大きめの声で。
「別に」
向こうも大きめの声で言ってくる。
別に、な訳ないでしょうに。
「毎回毎回、こういうのやめてくれない?」
「毎回毎回、居留守使うからだろ」
あー言えば、こー言う。
これも毎回同じだ。
「で? 何?」
「俺が悪かったし」
「いや、私が悪いんだし」
「じゃあ、みこが悪いんだ」
「いいや、悪いのは由起彦よ」
二人、睨み合う。
「俺が悪いって認めないみこが悪い」
「私が悪いって理解しない由起彦が悪い」
「いや、みこは悪くない」
「違うわ、由起彦が悪くないのよ」
「じゃあ、誰が悪いんだ?」
由起彦が首を傾げる。
私も訳が分からない。
「分かった。違った。二人とも悪いんだ」
「ああ、そうかも。二人とも悪いのよ」
「じゃあ、謝るぞ」
「うん、私も謝るし」
『ごめんなさい。悪かったです』
二人、深々と頭を下げる。
「じゃあ、そういう事で」
どういう事かよく分からないけど、とにかくそう言っておく。まぁ、これもよくある事なのだ。
「で、絵の具落ちたか?」
心配そうに由起彦が聞いてくる。
「うん、落ちたし。心配無用」
笑顔を向けてやる。
「そうか、良かった」
向こうも笑う。
「じゃあ、また明日な」
「また明日ね」
由起彦が一、二回、こっちに向かって手を振って去って行く。
私も窓から身を乗り出して見送る。
しばらく歩いてから、由起彦が道を曲がる。
それを見届けて、私も窓を閉める。
はい、これで今回の喧嘩はお終い。