修行の旅3
今、私の目の前に、黒い液体の入った瓶がある。
『大村堂』さんの味の秘密を握る黒い蜜。店長の大村さんが最後にくれたこの蜜の秘密を解かないといけない。
まずは匂いを嗅ぐ。
濃厚な刺激臭が鼻をつく。
原液はものすごく濃いので、水で薄めて飲んでみる。
深い味わいの中に感じるのは酸味。
何の酸味だろう。柑橘系? 梅みたいな樹木の実? それとも乳酸のような動物性のもの? よく分からない。
祖父さんに聞いてみた。
「味を盗むのは悪い事じゃない。誰だってそうやって覚えていくものだ。だが、これは『大村堂』さんが好意でくれたものだ。本当は手に入るものじゃない。俺が勝手に味を暴く訳にはいかない。やりたければ、自分でやるんだな」
確かにその通りだ。
いろいろと材料を買ってきて、試していくしかないか。
試していくにしても、この蜜単体の味を見ているだけでは駄目だ。実際に使ってみた時の味も見ていかないと。
最後に作ってくれた大福。最終的にはあの味を再現する必要がある。
まずは材料だ。仕入れ担当の父さんに、大村さんから教えてもらった材料の産地を伝える。
「まぁ、手に入らない事はないけどな。でもそれからどうする気だ?」
「どうって、同じ物を作ってみるの」
「その後は?」
「その後? その後はウチのお菓子に生かしていくのよ」
「それは無理だな」
「え、何で?」
父さんの言う事がよく理解出来なかった。確かに全く同じ物を売る訳にはいかない。でも、アレンジした物は十分出せるはずだ。
父さんが説明してくれる。
「採算が合わないんだ。この材料はどれも良い物ばかりだ。でも高い。ウチも良い物を使っている。でもそれは安くて良い物なんだ。『大村堂』さんのは、高くても良い物なんだ。その大福の値段はいくらだ?」
「百八十円」
「ウチはいくらだ?」
「百二十円」
「一・五倍も違う。粉から自家製なんだよな? かかっている手間が違いすぎる。ウチの粉も石臼を使っている製粉所から仕入れている。でもそこは大量に作るし、機械で臼を回している。その分、安いんだ」
言われてみればその通りかもしれない。でも、でも。
「良い物を作らないと駄目でしょ?」
「安くて良い物を提供するのが『野乃屋』なんだ」
「何よ! お金お金お金。父さんは帳簿ばっかり見てるから、そんな事言うのよ。自分では作れもしないのに、何が分かるって言うのよ!」
しまった、言い過ぎた。でも言ってしまった。
「あのなぁ、みこ。父さんは確かに和菓子を作れない。でももう、十五年以上この店を見ているんだ。昼間は店に立ってもいる。どんなお客さんが、どれだけ何を買って下さるか知っている。このパソコンに入っている数字だけ見ても、いろいろな事が分かる。お前らとは違った視点で、この店の事を知っているんだ」
そんなの本当は分かっている。言い過ぎた。
「ごめんなさい」
謝るしかなかった。
「客層が違うんだ。お前が興味を持っているって聞いて、『大村堂』さんの事を軽く調べてみた。単にネットで見ただけだけどな。『大村堂』さんは街の外れにあって、立地が悪い。それでもお客は大勢来ている。評判も良い。ブログや食べ物系のサイトを見ると分かるが、遠くからのお客が多い。わざわざ『大村堂』さんで食べる為だけに足を運んでいるんだ。ウチは違う。駅前の商店街の中にあって、他の買い物や家に帰るついでに買って行って下さる。それが価格設定の差になっているんだ」
そうなのか? そうだ、その通りだ。
店頭に立っていたので分かるが、車で来ているお客が多かった。そしてまとまった量を買って行くのだ。箱入りのセットなんかがよく売れていた。喫茶コーナーも常に満員だ。
私と由起彦が最初に行った時も並んで入ったのだ。
「隠れた名店だ。だからお前も最近まで知らなかったんだ。お前はパソコンの使い方もよく分かっていないからな。参考にするのはいい。勉強にもなるだろう。でも同じ材料はウチでは使えない」
私はうなだれてしまう。私は何も分かっちゃいなかったんだ。和菓子を作れない父さんの方がよっぽど分かっている。
「材料は仕入れてやる。それで勉強するんだ」
父さんは最後に優しくそう言ってくれた。
「また買い出しかよー」
幼馴染みの由起彦が文句を言う。でもこうして付いて来てくれる。
「ごめん、でも付き合ってよ」
「ん? お前まだ疲れてるのか?」
由起彦が顔を覗き込んでくる。
疲れは二日経ってもう取れている。でも元気が出ないのだ。
「みこらしくないぞー。お前の取り柄は元気だけだろ?」
「元気だけっていうのは酷いよ」
「でも他に何があるんだ? 運動出来ないだろー、すぐキレるだろー、平気で嘘つくだろー」
「う、でもそう、勉強は出来るわ。トータルであんたより私の方が成績いいわ」
「文系全滅だろ? 単に美術とか音楽とかで差がついてるだけだってばー」
「いいや、全滅じゃないわ。国語はいいし。漢字と文法以外」
「お前って、何でそう、記憶力がないんだー?」
「和菓子の事なら完璧憶えられるわ。脳がそこに集中してるのよ」
「まぁ、みこは和菓子だからな」
「その通り。私は和菓子が全てなの」
そうやって話をしているうちに、駅向こうの食料品店に辿り着いた。
ここは高いけど、扱っている商品の数が近所のスーパーとは段違いなのだ。なるほど、客層が違うのだ。この周辺はお金持ちが多い。
「さ、今日はがんがん買って行くし、しっかり荷物持ちしてよね」
あ、いつもの調子が出てきた。由起彦と話をしているうちに、元気が出てきたのだ。
「はいはい、また変な事、暴露されちゃ、かなわないからなー」
「特に美人女子高生にメロメロな件ね」
「あれは仕方ないってばー」
これは先々週に発生した、新しいネタだった。
商店街で一二を争う美人に勉強を教えてもらった時、こいつは終始デレデレしてやがったのだ。中学男子として仕方がないのかもしれないが、私の目の前でやらかしたのだ。絶対に許せなかった。
その怒りを原動力に、容赦なく由起彦が持つカゴに商品を投入していく。
酸味のある物を手当たり次第だ。
「重いってー」
帰り道、袋を四つ提げた由起彦が不平を述べる。
私も二つ袋を提げている。
買いすぎたかな?
貯金をちょっと遣ってしまった。店番もしていなかったし、今月は大幅な赤字だ。
それを取り返すだけ頑張らないと。
大福の材料が揃うには時間がかかるので、先に例の黒い蜜の再現から始めていく。
思い付く限りの材料を使ってみた。単に酸っぱいだけじゃ駄目だ。深みを出す為の材料も試していく。
でも駄目だ。全然近付かない。多分、熟成が必要なのだろうが、それ以前にかすりもしていない。
そのうち、どの材料を組み合わせるとどんな味が出来てくるか分かり始めた。ちょっとは近付いてきたかな? いいや、駄目だ。全然駄目だ。
本当に再現できるのか? これは『大村堂』秘伝の蜜だ。簡単に再現できる訳がない。いや、焦ってはいけない。地道にやっていこう。
大福の材料が揃った。黒い蜜の再現は置いておき、取りあえずもらった蜜を使って『大村堂』さんの大福を作ってみる。
これはうまくいった。さすがに大村さんの作った物にはかなわないが、かなり近い物が出来た。
「ふーん」
「え? リアクション薄いわね」
試食させた由起彦の反応はよくなかった。
「俺さー、和菓子の事はさっぱりだけどなー。これって『野乃屋』と味が違いすぎないか?」
確かにその通り。『野乃屋』の大福とは味が違いすぎる。
嫌な予感がしたので、黒い蜜を使って他の和菓子も作ってみた。蜜の量の加減が難しかったが、試行錯誤の末に美味しい物が出来上がった。
しかしこれは使えなかった。
まず、ウチで使っている材料ではどうしても味が調和しなかった。『大村堂』の大福の材料を使って初めて、美味しく味が整った。
その上、出来たものは『野乃屋』の物とは味が違いすぎた。これでは『野乃屋』の和菓子じゃなくなってしまう。
必要な材料は高すぎる。出来た味は『野乃屋』とは違いすぎる。
黒い蜜は『野乃屋』では使えない?
その結論に達した時、私はその場にへたり込んでしまった。
「よし、大村さんのところへお礼に行くか」
祖父さんに腕を引っ張られ、ワゴンの中に押し込められた。
せっかく大村さんから秘伝の蜜をもらったのに、結局何にも役立てる事が出来なかった。
どんな顔をして会えばいいのだろう?