猫喫茶最高!
「はぁ、ベティ最高だわ」
膝の上で丸くなっているベティの純白の毛を撫でまくる。この齢十才のマダムはモフモフしていて最高の触り心地なのだ。
「まさか、この商店街に猫喫茶が出来るとは思わなかったわ」
「はい、みこちゃん、オレンジジュース」
「あ、どうも」
オレンジジュースに手を伸ばすと、ベティが起きてしまった。
そのままヒョイと床にジャンプすると、グイーッと伸びをした後、向こうへ行ってしまった。
ああ、しまった。行ってしまった。ベティが膝の上に乗ってくれるようになるまで苦節十日。しかしベティはこっちの気も知らずに気ままに行動するのだ。そのつれない態度がまたいいのだけど。
「でもみこちゃん、毎日入り浸ってるけど、大丈夫なの?」
店長の吉川さんが聞いてくる。白髪を後ろに流した細身の男性で、サラリーマンを辞めてお店を開いたのだそうだ。柔らかい物腰が居心地のいいお店の雰囲気を生み出している。
猫喫茶「オッドアイ」が出来たのは二週間前。新規店舗が猫喫茶だと知ってから心待ちにしていて、オープン初日には当り前のように開店時間待ちをしたものだ。以降、確かに毎日通っている。
いや、だって猫触り放題なんですよ?
「私、お店の手伝いでお小遣いは山ほどあるんで、全然問題ないですよ」
「そのお店のお手伝いは?」
「この後やりますよ。店番を六時から七時まで。その後、片付けも」
「毎日三時間はすごくない? まぁ、ウチとしては嬉しいけど」
「まぁそうかも。私、猫好きなのに家じゃ飼えないんですよ。その欲求不満が溜まり溜まって爆発した感じですかね」
「じゃあ、程々に」
吉川さんがお店に入って来たお客さんを迎えに行った。
学校から制服のまま直行。そして三時間。うーん、やり過ぎかな? まぁ仕方ないですよ。ここにいる猫は吉川さん選りすぐりの可愛い子ばかりなんですから。
シェリーが珍しく近くにいたので、席を立って間近で見てみる。この子は下手に撫でるとすぐ逃げてしまう。しかし艶やかな灰色の毛並みは見ていて飽きない。
はぁ、猫最高。
お店を出る時に十分に毛を落とし、それから家に帰って私服に着替える。
そして店番だ。
和菓子屋『野乃屋』は今日も繁盛している。閉店間際でも会社帰りのお姉さんなんかが買って行ってくれる。
閉店すると片付け。私は一時間で上がる。その後夕飯諸々と宿題を済ませて、十時に寝る。そして四時起き。
猫喫茶通いを始めてからシフトを変えてもらい、睡眠時間が二時間ほど削れてしまったが、問題なし。猫成分を毎日摂取しているからだ。
「みこ、目の下に隈が出来てるわよ」
「え、嘘?」
友人の恵の鏡で見てみると、確かに目の下が青黒くなっている。
「最近夜更かししてるからじゃないか?」
同じく友人の実知が心配げに言う。
まぁ、そうは言っても夜寝るのが遅くなるのは実知のせいでもある。毎晩メールを寄越すのだ。
「でも十時だよ? 全然夜更かしじゃないわ」
「でも四時起きでしょ?」
「朝の仕込みがあるからね」
「若いうちは寝ないと育たないぞ?」
確かに私の背は低い。胸も貧弱だ。だからどうした。
「そんなに猫喫茶って良いの?」
「極楽」
次の休み時間、由起彦がやってきた。
幼馴染みのこいつが来るのは、十中八九、ノートを見せろという話だ。
さっきの授業も上の空だった。何やってんだか。
「野宮、何で店番の時間変えたんだー?」
由起彦は毎日お祖母さんのお茶菓子を買いに来てくれるお得意様だ。
でも私のシフトなんてこいつと何の関係があるんだ?
「夕方は他に用事があるのよ。猫喫茶。猫喫茶最高だよ~」
「猫って例の一年の黒猫がいるだろー?」
最近知り合った一年生が飼っている黒猫・アレクサンドロスは、コンテストで賞も獲っている美猫で、たまにお邪魔して触らせてもらっている。ちなみに私の携帯の待ち受け画面は彼である。
「アレクサンドロスはサラサラなの。ベティはモフモフなの。方向性が違うのよ。私、恋多き女だから」
「はぁ? 何だそりゃ。ずっと夕方出て来ないけど、まさか毎日通ってる訳じゃないよな?」
「毎日通ってるよ。ベティは最高なのよ」
ベティについてなら、一時間は語れる自信がある。
「何かホストに入れあげてるオバサンみたいだなー」
「何その言い方。私が自分のお金と時間をどう使おうが勝手でしょ?」
「はいはい、身ぐるみ剥がされないように気を付けろよなー」
どうやって猫喫茶で身ぐるみ剥がされるというのだ。
そりゃ、お店で売ってる猫のエサは毎回買ってるけど。
閉店間際、滝川さんがやってきた。
滝川さんはスーパーオオキタのパートさんで、オオキタの生菓子部門を一気に盛り立てた凄腕である。そのせいでオオキタにお客さんが流れ、少なからずウチの売り上げに影響を与えている。要するに、ウチのライバルだ。
「また新商品出たんだ? じゃあ、それ貰おうかな」
「はい、毎度ありがとうございます。相変らず研究熱心ですね」
「ん? ああ、別にこちらさんの味を盗もうって訳じゃないの。むしろ、味とメニューがバッティングしないように調査してる訳」
「バッティングですか?」
「潰し合いになったら困るでしょ? こちらさんとは違う味とメニューで勝負するの」
「はぁ、滝川さんは真っ向勝負ってタイプだと思ってましたが」
「違うよ、勝負に勝つには作戦が重要だからね。要は勝てばいいの。この前のハロウィンみたいに」
「いやいやいや、ウチ、和菓子屋ですから。ハロウィン関係ないですから」
「でもカボチャフェアして乗っかろうとしてたじゃないの」
そう、あれは私の提案だった。最近はハロウィンも浸透してきているから、ウチも何かやろうと言ってみたのだ。
正直言えばオオキタへの対抗心だった。滝川さんとはライバルなのだ。和菓子に関係していなくても、何か行事があれば即、戦争である。
団子や饅頭などいろいろ揃えてみたけど、宣伝が不十分だったのであまり売れなかった。まぁ、失敗を糧にして次に繋げればいいんですよ。
「ええ、まぁ、ウチも商売なので……」
「ん? 何か最近、みこさん元気ないんじゃない?」
「そんな事ないですよ? 私は元気だけが取り柄ですから」
「でも目の下に隈があるよ?」
「やっぱり分かります?」
「最近この時間のシフトだよね?」
「そうです。夕方と変えてもらったんです」
「夕方って、例の助手君が来る時間帯だよね?」
例の助手とは由起彦の事だ。最初に会った時にそう紹介して以来、滝川さんは由起彦の事をそう呼ぶ。
あれ? 奴が夕方来るって話したっけ?
「お母さんに聞いたよ。婚約者だって?」
「いやいやいや、単なる幼馴染みですから」
何吹き込んでるんだ? あの人は。もしかして、他の常連さんにも変な事言い触らしてるんじゃないだろうな?
「あー、私ね、真っ向勝負はしないけど、敵にはベストの状態でいてもらいたいんだ」
「はぁ」
「シフト、元に戻してもらいなよ。それで元気になるよ」
「やっぱり寝不足は駄目ですかね」
「いや、他に大切なものが不足してるんだよ」
そう言って滝川さんは立ち去った。
大切な成分は猫で充填してるんだけど。
別の日、いつものように猫喫茶。
ベティは相変らず最高。ソファの上に座っているところを撫で回す。首筋を撫でるとゴロゴロと喉を鳴らす。はぁ、いい音。
「みこちゃん、どうしたの?」
ミックスジュースを置きながら、店長の吉川さんが声をかけてくる。
「え? 何がですか?」
「さっきからため息ばかりだよ」
嘘、全然そんなつもりはないんだけど。
「心、ここに有らずって感じ。そろそろ飽きてきた?」
「いや、それはないです。相変らずベティにメロメロですよ」
「僕の話なんだけどね、僕はずっとマンションに住んでて、猫が飼えなかったんだ。だから会社の敷地に出入りしていた野良猫と遊ぶのが昼休みの楽しみでね。エサはあげちゃ駄目だから撫でたりするだけだったけど。それがある日プッツリ来なくなったんだ。年寄りだったから、多分死んじゃったんだと思うけど。それからしばらく、僕は腑抜け状態。仕事にも全然力が入らなかったの。今のみこちゃん、そんな感じ」
言われてみれば、そんな感じかも。
お店で笑顔を作るのにも、ちょっとだけ努力が必要。
昨日は片付けを抜けさせてもらって早く寝たんだけど、相変らず身体がだるい。単なる寝不足ではないのかも。
「でも心当たりが全然ないんですよね」
「何か大切なものを見落としてるんじゃない?」
うーん、そうかなぁ。
何かあったっけ……
取りあえずベティで猫成分を補充しておこう。はぁ、ベティ最高。
猫喫茶から帰ってみると、お店の前に由起彦が立っていた。
しかも私服だ。一回帰ってまた出てきたのか。珍しいな。
「何してるの?」
「おお、いやー、別にー」
「お菓子、買ってくれた?」
「んー、まだ」
よく分からん。
とにかく着替えて店番だ。
外にいた由起彦が入って来る。
「ちわーっす」
「いらっしゃい。何してたの、さっき」
「いやー、別にー」
別に、でいつも学校帰りに寄っていた習慣を変えるのは不自然だ。
「もしかして、私待ち?」
「まさか、自惚れんなよなー」
自惚れとか言われると、ちょっとカチンと来るな。ここは店員に徹するか。
「さ、今日は何にする?」
「どれがお勧め?」
「昨日は何買ってくれたの?」
「憶えてない」
いや、昨日の事でしょ?
まぁ、こいつは和菓子に興味がないと常々言っている。どれも同じに見えるのかな? それはそれでちょっと寂しい気もする。
「みこが今まで憶えててくれただろー。だから俺は憶えないんだよー」
「はぁ、最近ご無沙汰でしたからねぇ」
「お前、寝不足だろ?」
目の下の隈に気付かれたか。こいつは勘が鋭いのか鈍いのかよく分からない。
よく見てるなーって時もあれば、いや気付よ、って時もある。変な奴だ。
「まぁ、ちょっと寝るのが遅くなってるから」
「じゃあ、今までの時間に戻せよなー」
「うーん、それじゃあ、猫喫茶に居られなくなるのよ、一時間くらいしか」
「え? 今まで何時間居たの?」
「三時間」
「三時間? 長いって。一時間で十分だろー」
「そうかなー、そうかもねー、ちょっと考えとくわ」
「そうしろって。俺だってこの時間にまた出てくるとか面倒だし」
「あ、やっぱり私待ちなんじゃない」
由起彦の奴、横を向いて口笛を吹き始めた。
こいつのすっとぼけ方は小学校から変わってなくて、しかもひねりも何もない。
わざわざ出直してまで私待ちか。悪い気はしない。
「まぁ、こうして話すのが日課だったもんね」
「そうだよー、何か部活しててもいつもの調子が出ないんだよなー」
それは私もそうだ。
ベティは相変らず最高だけど、ちょっと心に空白がある感じなのだ。
今、由起彦と話すうち、少しずつ力が沸いてきた。何かが補充されていく感じ。
この日課。由起彦とのお店でのやり取り。
これが滝川さんや吉川さんの言う、大切なものなのかな?
確かにそうかも。
「分かった、シフト戻すわ。猫喫茶は一時間で我慢する」
「そうしろよなー」
「今度、猫喫茶一緒に行こうよ。ベティを紹介するわ」
「いや、猫興味ないし」
「はぁ? 和菓子にも興味ない、猫にも興味ないって、私達接点ゼロじゃないの」
「いやー、探せばあるだろー」
「それ、明日までに探しておくように」
まぁ、こう言っても、こいつが憶えていた事なんてほとんどないんだけど。
「で、どれが今日のお勧めなんだー?」
「そうね、これなんかどうかな?」




