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【ローファンタジー】

言の葉の魔法使い

作者: 小雨川蛙

 

行末(ゆくすえ)、飛んで」


 五月だということを忘れさせるような冷える曇り空の下、屋上のフェンス越しに立たされて全身に気味悪く纏わりつく風に心身を震わせられながら、僕、行末杏(ゆくすえあんず)はクラスメイトの少女である仮名(かりな)を見返した。

 今、放たれた言葉が聞き間違いだと必死に信じながら。


「聞こえなかったの? 飛んで」


 同級生と比べて明らかに細い腕は不健康さを隠し切れない程に青白く、灰色の空の下で風を受けてはためく学校指定の青みがかった黒色の制服と同じ色の肩まで伸びた髪の毛と合わさり、底冷えするような感覚が僕の心に伝う。


「おい。流石にもう止めてやろうぜ」

「そうそう。もうお開きにしようよ。行末もビビってんじゃん」


 仮名の後ろに居た生徒達がそう言ったが、仮名は首だけで振り返り彼らを睨みつけた。


「黙ってて」


 一分前まで仮名と共に僕を煽っていた囃子言葉はとっくに止んでいた。

 仮名が僕の方に向き直り、青い顔をしたまま僕を無言で睨む。


 直後。


「飛べ。虫けら」


 言葉が黒く、重く、薄ら寒い世界と僕の心に響く。

 僕は仮名の事を何も知らなかった。

 何故、彼女が僕にこんな事をするのかも。

 何故、僕が彼女の言葉に従ってしまったのかも。


 踵を返し、僕は目を閉じて屋上から飛ぶ。

 背後から仮名の後ろに居た生徒達の悲鳴が聞こえた。

 それがすごい勢いで遠くになる。

 僕の耳に聞こえるのは風を切る音ばかりだ。

 次の瞬間には別の音に変わり、その後に無音が広がっていることだろう。

 そう確信していたのに。


「飛んで、行末」


 誰かの声が遠くで聞こえると同時に風を切る音が消える。

 恐る恐る目を開くと僕の身体は薄灰色の地面とプリント用紙一枚程度の距離を残して空中で止まっていた。

 うつ伏せにベッドで横になっているかのような態勢のままの僕の耳にふと声が入り込む。


「救ったか。情けない奴だ」


 首を曲げながら声のした方を見ると、まるでふんぞり返って椅子に座ったような姿勢で足を組みながら宙に浮いた一人の青年がたった今、僕が落ちてきた屋上を見上げている。

 彼は並みの男性を二回りほど大きくした筋肉質な体格を針のように逆立つ黒々とした毛皮のローブで覆っており、両腕にはくすんだ赤色をした宝石が散りばめられた幾つもの腕輪をこれ見よがしに嵌めていた。


 僕は彼のような姿をした者を何度も見たことがある。

 しかし、それは全てゲームや漫画、そして映画という架空の世界の話だ。

 今、目の前に居る青年の纏う衣服はファングッズやコスプレのような安っぽさがないばかりか、彼の存在そのものと一体化しているようなリアリティと薄ら寒さがあった。


 これは現実だろうか。

 それとも夢だろうか。

 もし、夢であるならば僕はもう死んでしまったのではないだろうか。

 呆然としている僕の方へ青年が振り返る。


「ひっ」


 僕は思わず息を飲んだ。

 振り返った彼の顔は人間でなく、大型犬……いや、狼のそれであったからだ。


「まさか、虫けら。(われ)が見えているのか?」


 狼の言葉が終わると同時に僕の身体は地面に落ちた。

 痛みはほとんどない。まるで、階段を下りた程度の衝撃だった。


「どうやら、先ほどの魔法で貴様の内に魔力が宿ったらしい。これはとんだ拾い物だ」


 狼の顔をした青年は空中から降りると僕の顔をぐぃっと覗き込み問う。


「貴様、魔力は知っているか?」


 夜の海を想起させるような暗澹とした青い目が僕の存在を見透かすようにして見つめる。


「ま、魔力?」


 問い返した僕の声を聞いて狼はため息を吐き出した。


「貴様も知らぬか。まぁ、予想はついていたが」


 身体を起こしながら僕は青年と向き合う。

 まだ現実味がなかった。

 仮名の言葉で身を投げた自分が生きている事はもとより、今、目の前に創作物でしか見たことがないような存在が居ることも、その存在が僕に向けて問うてきた魔力という言葉も。

 そんな僕の心を読んだようにして青年は喉を鳴らして笑う。


「貴様も夢を見ているような気持ちだと言うつもりか? だがな、これは現実だ。飛び降りたはずの貴様は生きている。そして、生きているが故に我に協力をしてもらおう」


 覆いかぶさるように矢継ぎ早に告げられる青年の言葉に僕は辛うじて返事をする。


「ちょっと、待ってくださいよ。僕にはまだ何がなんだか……」


 直後、叫び声が聞こえた。


「行末! そんな所で何をしている!」


 声がした方を見れば僕のクラスの担任である先生が血相を変えてこちらへ走って来ていた。


「よく言うものだ。貴様が虐めを受けていることを見て見ぬ振りをしていたくせに」

「何で知っているんですか?」


 僕が問い返すと青年は笑う。


「知っておるさ。ずっと見ておったからな。いや、監視していたとでも言うべきか」


 喉をならして笑う青年の言葉を聞いて僕は思わずゾッとしたまま心を落とすように尋ねた。


「あなたは。何者なんですか?」

「我は魔王だ。いや、最早記憶も記録も残らぬ程、遠い時代に魔王と呼ばれていた者だ」


 そう語る青年の言葉は僕の身体に言いようのない実感を刻みこんでいた。



***



 僕を引き連れて下駄箱前までやって来ると先生は冷汗で額を濡らしながら僕へ問う。


「行末、お前、一体なんであんな場所に居た? 俺には。俺には……」


 先生は言葉に詰まっていた。当然と言えば当然かもしれない。

 何せ、一ヵ月ほど前から始まった仮名による僕への虐めは誰もが知っていることだから。

 しかし、体格で言えば僕よりやや小さい仮名がする虐めは暴力ではなく暴言であり、僕の身体に傷は出来ていない。おまけに仮名が僕に向ける言葉は有り体に言ってしまえば、学校であればどこででも見られる程度のものでしかない。


『それぐらい我慢しろよ』


 僕が仮名から受けた虐めを報告した時、先生は面倒気にそう告げただけだった。

 見方を変えればそれだけに僕が屋上から落ちてきたことにショックを受けたのだろう。

 まさか、ここまで追い詰められていたのか、と。


「滑稽な姿だ。そうすれば罪が減るとでも思っているのか」


 何故か律儀についてきた青年こと魔王が呆れた様子で先生の真横に浮きながら呟く。

 どうやら彼の姿は先生には見えていないらしい。


「何か不安なことがあるなら先生に話してみろ」

「白々しい言葉だ。馬鹿らしくて耳に入るのも煩わしい」


 それについては完全に同じ意見だった。

 そもそも僕は既に仮名のことを先生に何度も相談をしている。


「中身の伴わない言葉ほど馬鹿げたものはないな」


 汚れてくすんだ灰色の廊下に立つ自分を侮蔑する魔王の存在など知りもせず、先生は僕の両肩を軽く掴んで目線を合わせながら問う。


「行末。お前、本当に大丈夫なのか? 何か悩みはあるのか?」

「大丈夫です。ありがとうございます。先生」


 これで十分だと僕は理解していた。

 先生は僕のことを本気で心配してなどいないし、本当に言いたいのは要するに自分にとって迷惑なことをしないでほしいということだけだ。実際、僕の返事を受けとった先生はそそくさとその場を去ってしまった。

 その余りにも露骨な態度を見て魔王は失笑しながらも言った。


(わらべ)を指導する立場の者があの様か。放っておいた方がまだ真っ当に育つのではないか?」


 魔王の言葉にどう反応すれば良いか分からないまま僕は少し無言だった。

 昼休み終了までまだ時間は十五分ほどあり、それに先生が狙ったことだろうが、この下駄箱近辺には昼休みに誰かが来ることはほとんどない。

 僕は意を決し魔王へ尋ねる。


「あの。気になっていたんですが、何故あなたの姿は他の人に見えないんですか?」


 すると魔王は長い鼻を鳴らして答える。


「魔力の集合体である我の姿は魔力を持たぬ奴らは見ることは出来ぬ。ただそれだけだ」

「魔力……? 先ほども言っていましたよね。それって何なんですか?」


 僕の問いかけに魔王は肩を竦める。


「悲しくなるな。この時代には勇者と我ら魔族の戦いを伝える物は何もないのか」

「勇者? 魔族?」


 頭がくらくらする。僕は彼の話していることを半分も理解していない気がした。

 漫画やゲームで聞くような単語をぺらぺらと語る狼の顔を持ち自らを魔王と語る青年。

 これを現実と認めないといけないのか?


「簡潔に説明してやろう。我は貴様達人間が想起する魔王とそう変わらぬ存在だ。いや、より正確に言えば貴様らの想う魔王は全て我を元にしておるのだ」


 僕の脳裏に浮かぶ幾人もの魔王の姿。

 世界を支配する恐ろしい暴君、あるいは人々を絶望させる事を至上の目的とするサディスト、あるいは対の存在である勇者と己が宿命をかけて戦う王——そのいずれもが古今東西の創作物にだけ存在するものだ。


 どうやら目の前に居る青年はその架空の存在そのものであるらしい。

 俄かには信じ難い――しかし、これが現実ならば少なくとも彼は人間ではない。

 見た目的にも。


「その魔王……いえ、魔王様が何でこんなところに?」

「二ヵ月程前に目覚めた。長い眠りからな。我は勇者との戦いで深手を負い封印されたのだ」


 今じゃ見るのもうんざりとするありふれた設定だがそれ故に分かりやすくもあった。


「それじゃ、魔王様は勇者と戦って負けて今まで封印されていたという訳ですか?」


 すると魔王は獣のように唸り声をあげ瞳の色をより重くしながら視線を鋭くして答える。


「貴様もそんな事を言うのか!? 封印は我自らが行ったのだ! 勇者や英雄共がどれだけの時間をかけても破壊しえぬ殻にこもった故に我は今、こうして勇者どころか我らの戦いが忘れ去られるような時代に目覚めた! 分からぬのか!? 今の世界において我の邪魔立てを出来る者は誰もおらぬのだ!」


 早口でまくし立てる姿に僕は気圧されながらも不思議と冷静に考えていた。

 いや、ありえない光景が連続しているからか変に冷めていると言う方が近いかもしれない。


「そ、それじゃあ、魔王様は何故このような所に居るのですか?」


 魔王の顔が憤怒の表情をそのままに固まり舌打ちをする。

 野望達成のために復活した魔王が真っ先に居る場所が中学校の校舎の中なんて流石におかしいと思ったが、やはりまともに動けない理由があるらしい。


「この時代には魔力がないのだ。我の身体に残っているものを除いて」

「魔力?」

「あぁ。貴様達、現代人ならば知っているのだろう? 要するに魔法の源だ。先ほど、お前を地面に衝突させる寸前に宙に浮かせたように。あらゆる魔法には魔力が必要なのだ。そして、それは魔族である我の身体を形成するものでもある。分かるか? 我は今、魔法を使えば使うほどに自らの命を消費しているのだ」


 封印から目覚めたは良いがこの世界にはもう自分が生きていくために必要なエネルギーである魔力が存在せず途方に暮れているというわけか?


「おそらくは勇者の差し金だろうが――我が復活してもまともに活動が出来ぬように人間は魔力を捨てて生きる道を選んだ。今や、人間共は魔力を用いずとも火も水も意のままに操り、死に至るような病でさえあっさりと回復させる薬があり、挙句の果てには空を飛ぶ」


 ため息をつきながら魔王は下駄箱の隣にあった自動販売機の方へ歩いて行き、お金も出さずにボタンに触れて落ちてきたオレンジジュースを手に取った。


「おまけに蜜よりも甘い飲み物を作り、いつだって冷たい状態で飲むことが出来る」


 缶を開けてジュースを飲む魔王を見つめながら、僕は魔王の置かれた状況を整理する。

 つまり、彼は勇者に追い詰められ敗北を確信した段階で自らを封印し、創作物では完全にアウトな時間切れを狙い、その目論見通りに勇者どころか自分に纏わる記憶を持つ者さえ居なくなった時代に蘇った――までは良かったが、現代にはもう魔力は存在していなかった。

 ……これって完全敗北じゃないか?


「貴様が何を考えているのか手に取るように分かるぞ。無礼者めが」

「あっ、ごめんなさい」


 空き缶をゴミ箱に捨てる魔王というシュールな姿を見ながら僕は思わず謝った。

 狼の鼻をふんっと鳴らしながら魔王は言う。


「心しておけ。我がその気になれば世界征服とまでは行かずとも、世界の半分くらいはあっという間に支配出来るのだ。もっともそんなことをすれば我の魔力は瞬く間に枯渇して、我の寿命もまた尽きてしまうだろうがな」


 魔王がさらに自動販売機でリンゴジュースを買うのを見つめながら僕は尋ねていた。


「あの、改めてお聞きしますが魔王様は何故この学校に居るんですか?」


 魔王はにたりと笑いながらジュースを飲み干す。


「簡単なことだ。この場所で我は見つけたのだ。魔力を持つ娘を」

「魔力を持つ娘?」


 僕は問い返しながらも、自分の内に一人の少女が浮かぶのを抑えきれなかった。


「魔力の尽きたはずの現代において魔力を保有する。あの娘が持つ魔力は単純な補給源以上の意味が我にはあるのだ。故にこの場所に来たのだが」


 言葉を切り僕を射貫くようにして見つめた。


「まさか魔族ではないのに魔力を身体の内に留めることが出来るものが居るとはな。あの娘程ではないにしろこれは思わぬ拾い物だ」


 昼休みが終わりに近づき、教室へ戻ろうとする足音や話し声のざわめきが大きくなっているこの瞬間においても魔王の言葉は僕の脳に力強く刻みこまれた。


「虫けら。我と共に魔力を持つ娘、仮名のところへ向かえ」


 その言葉に僕は身動きも反論も出来なくなってしまい、震えるままに従うしかなかった。



***



 教室に戻ると先ほど屋上に居た仮名達の取り巻きが幽霊でも見たかのように息を飲んだ悲鳴をあげる。

 当然か。

 彼らは僕が飛び降りるのを間近で見届けたのだから。


「ごめん! 行末!」


 しかし、意外にも彼らが開口一番に口にしたのは謝罪だった。


「俺達だって本当は止めたかった!」

「仮名があんなことまでやるとは思っていなかったんだ!」


 口ばかりの謝罪の上に即座に出てくる自己保身に僕はうんざりする。

 そもそも仮名が僕に対して行う虐めに対してクラスメイトのほぼ全員は先ほどの先生と同じく我関せずの態度をとっていた。

 その事について僕は特に恨みはない。自分のもとに火の粉が降りかからないのであれば関わらないようにするのは十分に理解出来るからだ。

 その一方で仮名の背後に隠れながら、彼女の行いに同調し煽って楽しむ連中もいた。


 丁度、目の前で口ばかりの謝罪をしている彼らがそうだ。

 彼らは先ほども僕に暴言を吐く仮名の後ろから野次を飛ばし、にやにやと腹立たしい笑いを浮かべながら仮名が僕に何をしようとしていたのかを観察をしていた――そして覚悟の無さ故にこうして必死に自己弁明をしているのだ。


「言葉が響かぬだろう? それはこいつらが本心から謝罪をしていないからだ」


 隣で成り行きを見守っている魔王が笑いながら僕の肩に首を乗せて囁いた。


「せっかくだ。貴様に現代に残った魔法を使わせてやろう。良いか。我の言葉を繰り返せ」


 耳の奥から脳にまで響く魔王の言葉。僕はそれを自然な調子で繰り返した。


「自分達に罪がないとでも本気で思っているのか?」


 まるで稲妻が落ちたかのように教室は静まり返り、彼らは勿論、他のクラスメイト達も息を飲んで僕の方を見つめていた。

 訪れた無音と沈黙に僕自身が圧倒されそうになる中で魔王は愉快そうに笑う。


「貴様の言葉はこの空間を支配した。今ならば奴らは貴様の意のままだ」


 馬鹿らしいと思ったが同時に否定も出来なかった。

 普段ならば掻き消されてしまう僕の言葉も意思も――今ならば間違いなく伝わる。


「二度とこんなことをするな!」


 息を飲むような悲鳴が響き彼らの抱いた恐怖が教室の中に伝染していくのを感じた。

 僕の声が皆の心に這いずる虫のような不気味さを主張するようにかさつきながら、クラスメイトの心の内に入り込んでいくのが見えるような気さえした。


「十分だ。虫けら。奴らはもう同じ事はしまい。さて、次にすることは分かっているな?」


 期待する魔王の問いかけに答えるため僕は彼が望んでいることを尋ねる。


「仮名はどこにいるの?」


 仮名の名を聞いて彼らは「あっ」と間抜けな声を漏らしながらぼそぼそと話し始める。


「お前がその、あぁなった後に体調が悪いって……」

「逃げたの?」

「いや、それは……とにかく、顔を青くして、屋上から出て行っちゃって……」

「逃げたんだ?」


 僕が問いかけた直後、チャイムが鳴って先生が教室に入って来たが、固まって立っていた僕達を見てすぐに状況を察してわざとらしく咳払いをして答えた。


「もう授業が始まるぞ。早く席に着け」


 安堵したような空気のもと生徒達が次々に席へ着いていく中で僕は先生を見つめる。

 先生は気まずそうな顔を隠すように僕から目を逸らし告げた。


「行末。聞こえなかったのか。早く席に着け」


 その言葉に従おうとする僕の背後で魔王が囁く。


「まさかこいつに従うわけではあるまいな? 虫けら。貴様にはすべきことがあるはずだ」


 背筋に虫が這うような悪寒を覚えながら僕はちらりと仮名の席を一瞥する。

 誰も座っていない無人の椅子と机には誰かが戻って来る気配はない。


「くだらぬ期待をするな。あの娘はもうここには居らん。そして戻って来る事もない」


 魔王の言葉には有無を言わせない説得力があった――だが、何だと言うのだろうか。

 仮名が如何なる理由で戻ってこなかったとしても僕には関係なんてない。

 いや、むしろ仮名が居ない状態は僕にとって望ましいくらいじゃないか?


 不意に魔王は僕の喉首を右手で抑えてそれと同時に酷い痛みが頭に走った。

 まるで髪の毛の一本一本が鋭い針となり刺さるような激痛に加え、脳の皺の一つ一つに火を注がれたような耐え難い熱。

 苦しさと恐怖から叫び声をあげたいのに喉を掴まれている故に声も出せない。


「どうした? 行末」


 不安げな先生の声を包むように魔王の声が響き渡る。


「今すぐ仮名を探しに行け。今すぐにだ」


 ――従わなければどうなるか分かるな?

 そう言外に言い含められた言葉に僕はどうにか頷くと、魔王の右手が離れて僕は解放されると息も絶え絶えの状態で先生に言った。


「すみません。体調が悪いみたいです」

「だ、大丈夫か? 保健室に行くか? それとも帰るか?」


 心配しながらも先生の声はどこか弾んでいた。

 きっと厄介払いが出来るからだろう。


「はい。早退します」


 この状況で僕の言葉に反論する者など居るはずもなく、僕はふらふらとした足取りで自分の席に戻ると鞄をどうにか掴んで教室を後にした。



***



「ですが魔王様。僕は仮名の居場所なんて分かりませんよ?」


 靴を履き替えて校舎から出る。

 外は昼休みが終わったばかりなのに曇り空のせいで辺りはとても薄暗い。

 道行く人の中には用心深く傘を持っている人もいた。


「案ずるな。我には魔力の存在する場所はある程度分かるのだ」


 そう言って僕の前を歩く魔王の背を追いながら尋ねる。


「仮名に会って、それでどうするんですか?」


 素直な疑問だった。

 僕には分からないことが多すぎる。

 そもそもこの魔王に会ってまだ三十分も経っていない――見方を変えれば三十分も満たない内に僕の世界は目まぐるしく変わってしまったとも言える。

 僕の問いかけに魔王は答えなかった。


「……仮名は本当に魔力を持っているのですか?」

「察しが悪いな、貴様は仮名の魔法を実際に受けて飛んだだろう」


 脳裏に屋上を飛んだ時の言葉が浮かぶ。


『飛べ。虫けら』


 仮名からは幾つもの暴言を受けていたが、あの言葉だけは明確に別だった気がする。

 あの言葉には有無を言わさない強い力があったとそう思えてしまうのだ。

 直後、僕の中に先ほど魔王に唆された言葉が思い出される。


『貴様に現代に残った魔法を使わせてやろう。良いか。我の言葉を繰り返せ』


 なら、もしかして……。


「魔王様。もしかして仮名が使う魔法って言葉の事ですか?」


 僕の問いかけに魔王は牙を出して笑い、僕の背筋にゾッと冷たいものが走る。


「その通りだ。あの娘の使った魔法は言葉だ。いや、より正確に言うならば言葉こそが現代における魔法なのだ」


 言葉が魔法。僕が考え込み黙っていると魔王はさらに言う。


「これは我の憶測も混じるが、長い時間をかけて魔力はこの世から失われてしまった。しかし、実際には完全に消え去ったわけではなく、幾つかの条件が整えば魔力はこの世にまた生まれるのだ」

「条件、ですか?」

「あぁ。先ほど取るに足らぬ者共に貴様が言葉を放ってみせただろう? 普段であれば一笑の下に流されるはずのものが、あの場では『人を死なせた負い目』、『死なせたと思った者が生きていた恐怖』それに加えて『予想外の反抗』という三つの要因が折り重なって、奴らの心を激しく揺さぶった。それこそ、あの時、貴様が放った言葉に二度と歯向かえぬ程にな」


 言っていることは分からなくもないし、何よりも実感として魔王の言葉は正しいと思う。

 それでも僕は今一つ納得が出来なかった。

 僕の気持ちを察したらしい魔王はにやりと笑うと少し先にある横断歩道を指差す。


「横断歩道の前に立て。まだ渡るな」


 人の邪魔にならないよう横断歩道の隅に立っていると歩行者用信号は赤に変わった。

 歩行者達が立ち止まり、それと同時に止まっていた車が走り出す。

 平日の昼過ぎだというのに車の行き交いが激しい道路。

 それに加えて雨の降りそうな暗い曇り空ということもあり、信号待ちをしている人の中にはスマホを見ながら天気情報を見ている人もいた。

 そんな日常の光景を十数秒、眺めていると不意に魔王が声を出した。


「我の言葉を繰り返せ。『青だ』」

「『青だ』」


 意味も分からないままに僕がそう呟いた途端、スマホを食い入るように見つめていた僕の隣に立っていた女の人が歩き出した。

 道路には明らかに法定速度を破っている大型トラックが走ってきている。


「早く止めんとその女は轢かれるぞ」


 呆然とした僕の心をどこか愉快な様子の魔王の声が動かした。

 僕は慌てて女の人の服を後ろから思い切り掴んだ。


「えっ!?」


 悲鳴と共に女の人はその場に転び、ほんの一歩先をトラックが通過していった。


「何するの!? えっ、あれ? 赤?」


 怒りを僕に吐き出した直後に信号を一瞥し同時に状況を理解して声が混乱に変わる。

 同時に僕らの周りで横断歩道の前に立っていた人々から安堵の声と叱る言葉が行き交う。


「あんた何してんだ!?」

「信号は赤じゃないか!」

「今、その子が掴んでくれてなかったら、あんた下手すりゃ死んでいたんだぞ!?」


 自分に浴びせられる声に女性はすっかりと意気消沈して彼女は僕の方を見て申し訳なさそうに謝罪をしてきた。

 何度も頭を下げる彼女の背後で今、ようやく信号機は青に変わった。

 何も言えないまま僕は魔王を見ると彼は満足そうな表情で告げた。


「これで理解しただろう? 条件さえ整えば現代でも魔法は使えるのだ」


 条件さえ整えば人は魔法を使える。

 魔王が先ほど口にしていた言葉の意味を僕はこれ以上ないほどに理解した。

 早鐘のようになる僕の心臓は信号が再び赤になっても止まることはなかった。



 ***



「少し待て。喉が渇いた」


 歩いている途中、不意に魔王がそう言って公園に立ち寄った。

 正直ありがたかった。

 僕の心臓はまだ苦しいほどに鳴り響いていたから。


 公園のベンチに座り込み僕は先ほどの光景を回顧する。

 人を殺しかけた――その事実が途方もなく重い現実として圧し掛かってくる。

 いや、あの時、魔王はしっかり僕に声をかけてくれていた。

 だから、本当にあの場面で人が死ぬことはなかった。

 

 まとまらない思考の海で溺れそうになり、藻掻くようにしてちらりと自動販売機でジュースを買っている魔王の方を見る。

 僕は仮名の所へ魔王を連れて行かなければならないわけだが、果たして仮名の下へ連れて行った後はどうなるのだろう?

 仮名も、僕も、そして他の人達も。


『我がその気になれば世界征服とまでは行かずとも、世界の半分くらいはあっという間に支配出来るのだ』


 下駄箱で聞いた言葉が蘇る。

 今、魔王がまともに活動出来ないのは魔力がないためだ。

 しかし、もし何らかの手段で魔力を安定して供給出来るようになれば――。

 頭を押さえて首を振る。

 今更ながらとんでもないものに目をつけられてしまったのだとようやく自覚した。


 かと言って、ただの中学生である僕にどうにか出来る相手ではない。

 さらに困ったことに魔王の姿は今のところ誰にも見えていない。

 いや、もしすぐにでも世界の半分を支配出来ると言うあの言葉に偽りがないのであれば人間に到底どうにか出来る相手とは思えない。

 そう考えている内に魔王は僕の隣に座ると足を組んだままジュースを飲みだした。

 その様子を見ながら僕は恐る恐る尋ねる。


「あの、魔王様。先ほどからジュースを飲んでいますけれど、それはやっぱり魔力に関係するようなものなのですか? 例えば、えっと魔力の消耗を抑える事が出来たり……とか?」


 尋ねられると同時に魔王は露骨に顔を顰めながら吐き捨てるように言った。


「まさか。そんな便利なものであるはずもない。ただの慰みだ」

「慰み?」

「皆迄言わせるな。要するに現実逃避だ」


 そう言って魔王はジュースを飲み干すと空き缶をゴミ箱へ放ったが、ゴミ箱の縁に辺り地面の上をからからと音を鳴らしながら転がった。

 眉を顰めながら魔王はぽつりと言う。


「あれをゴミ箱に入れろ」

「えっ、あっ、はい」


 まるで先輩に言われたような気持ちになりながら僕は転がっていた缶を拾ってゴミ箱に入れると金網と缶がぶつかり耳障りな金属音が一瞬鳴った。

 僕がちらりと魔王の方を見ると片足をかたかたと貧乏ゆすりで震わせており、僕を見るなり舌打ちを一つして呟いた。


「これもまぁ、魔法だな。我の意思でお前を動かしたのだから」


 半ば投げやり染みた発言に僕はどうにか反応を返す。


「あっ。はい」


 魔王は明らかに苛立っていた。

 その理由は僕が先ほどした問いが原因なのだろうと察した。


「魔王様の身体に残る魔力はあとどれくらいなのですか?」

「何が言いたい?」


 魔王は僕を睨んでこそいたが教室の時のように掴みかかってきたりはしなかった。


「つまり、その。あとどれくらいで魔力は尽きてしまうのか、と言いますか」


 魔王は大きく息を吐くと僕を見つめて呟いた。


(ひら)け。虫けら」


 言葉が終わるか終わらないかの内に僕の両目に強い衝撃が走る。

 痛みではない――例えるなら突然強いライトで目を眩まされた感覚に僕は思わず瞼を閉じた。


「つっ……!」


 それが魔王の魔法だったのだと僕はすぐに理解した。

 全身に鳥肌が立つのを感じながら両手で目を抑えていると魔王の声が響く。


「魔法をかけるついでに魔力を少し分けてやった。目を開いて我を見よ」


 腕で目を擦りながら魔王の方を向くと、彼の頭の上に数字が表示されていた。


「8、1、9、2……8192?」


 魔王は頷きながら口を開く。


「その通り。それが我の体に残存する魔力だ。とはいえ、本来魔力は数値で表せるものではないのだがな」

「そうなのですか?」

「あぁ。貴様も自分の体力を感覚として理解は出来ても具体的な数字で表すことは出来ぬだろう?」


 確かにそうかもしれない。

 体育の授業をすればとても疲れるが、その時に自分がどれほど疲れたかなんて数字には出来ない。

 反対に休日にゆっくり休んでリフレッシュしても自分の体力がどれほどのものかも数字には出来ない。


「以前に分かりづらいから数字にしろと言われたからこうしたのだがな。あまり当てには出来ぬが、こうして使う分には悪くはない」


 魔王のぼやきを聞きながら僕は彼の魔力の数値を改めて見つめる。

 おおよそ8000――この数字は果たしてどの程度のものなのだろうか?

 そんな僕の考えを察したように魔王が言った。


「参考までに貴様に分け与えた魔力が大体1で、仮名の魔力は8だ」

「な……仮名が8? え、それで魔王様は……8000?」

「本来であればこの程度ではないぞ。今は回復する手段がないから減る一方だがな」


 仮名の魔力がどの程度参考になるかは分からないが――数値だけ見たなら魔王の魔力は仮名の千倍。

 魔力が尽きれば死ぬと語っていたが、とてもではないが魔力を使い切るなんてことはないのではないだろうか。


「我の魔力はきっと二年も経てば枯渇する」


 二年……ということは、一日辺りの魔力の消費量は10前後くらいだろうか?

 そう聞くと確かにあまりないような気もする。


「そこからさらに魔法を使えば使った分だけ魔力が減るということですか?」

「その通りだ。今、貴様の目に細工をしたことで我の魔力がまた少し減った。まったく」

「そんな……それじゃあ、何故わざわざこんなことに魔力を?」


 思わず問い返した言葉に魔王は皮肉気に呟いた。


「どうせ、余生だ」


 ぽつりと呟かれた言葉が不思議な程に僕の心の中に停滞した。

 言葉の本質を理解しようとしている間に魔王は立ち上がり再び自動販売機へと向かう。

 考えてみればお金もないのにこうして自動販売機からジュースを買うのにも魔力を使っているということになるのだろうか?


「先ほどから気になっていたのですが、ジュースを買う時にお金を使っていないですよね? それじゃ、やっぱりそれも魔力を使っているのですか?」

「その通りだ。我の魔力の総量をよく見ておけ」


 魔王が自動販売機のボタンを押した途端、魔王の魔力が丁度140減った。


「いやいやいや! なんでジュースを買うのに140も減るんですか!?」

「騒ぐな、間抜けめ。少しは頭を使え。人間を宙に浮かせようが、炎を出そうが、雷を呼ぼうが――この辺りは我からすれば馴染みのある魔法だ。しかし、このような機械に魔力を込めて飲み物を落とすなどつい最近始めたことなのだぞ?」

「いや、えっと、そうじゃなくて……すみません、確認なのですが、それじゃ、魔王様、一回ジュースを飲もうとする度に十日分くらいの魔力使っているんですか」


 魔王は舌打ちをする。


「見れば分かるだろう。貴様は一々うるさいな」


 飲み干したジュースの缶をゴミ箱に投げて、また外す。


「えぇ……」


 魔王に言われるまでもなく缶を拾ってゴミ箱に捨てながら、ふと考える。

 仮名と会い何をするつもりか分からないが、本当にこれで魔力の問題は解決すると思っているのか?

 ――というか、こいつ放っておいても勝手に死ぬんじゃないか?


「待たせたな。ではあの娘のところへ行くとしよう」


 歩き出した魔王の言葉に僕は無言でついて行く他なかった。



 ***



「ここだ」


 魔王にそう言われて連れられてきた場所は古びたマンションだった。

 僕や仮名が生まれる前から建てられているような古さで、おまけに外から見た感じではあまり人が住んでいるわけでもなさそうだ。

 一階のロビーにあるポストから仮名の表札を見つけ、僕と魔王はエレベーターに乗って三階へと向かい――玄関の前に立ち僕は固まってしまった。


「何をしている?」


 苛立つ魔王に僕はどう答えたものか迷う。

 チャイムを押すべきか。

 ノックをするべきか。

 仮名が出てきたらどうするか、仮名の家族が出てきたらどうするか、もし留守だったならどうするか。

 いや、そもそも僕は何でこんなところにまで来ているんだ?


「鍵が掛かっていると思います」


 辛うじて出せた言葉は全く役に立つとは思わなかった。

 仮に鍵が掛かっていようが、誰も家に居なかろうが、魔王は何が何でもこの家に侵入するだろう。


「今すぐドアを開け」

「……はい」


 開かないでくれと願いながら回したドアノブはあっさりと開く。


「えっ……?」


 真っ先に僕の目に入って来たのは数歩も歩けば終わってしまうような廊下だった。

 廊下の右隣りには一口コンロとあまりにも小さな流し台にその下にある正方形の冷蔵庫、左にはトイレとお風呂が一体となっているユニットバス。

 最後にここからでも見える廊下の先には六畳というあまりにも小さな部屋が一つ。


「ワンルームなの……?」

「見たら分かるだろう」


 僕の独り言に魔王は答える。

 ちらりと土間を見ると靴はなく、どう考えてもこの部屋に居る人物は独り暮らしをしているとしか思えなかった。


「居ないみたいですね」

「見れば分かる」


 そう言うと共に魔王はずかずかと仮名の家へ侵入する。


「何をしている。早く来い」


 予想に違わず数歩で終わってしまった廊下の先には粗末なパイプベッドと三段で終わりの白い衣装ケース、そして足が曲がりかけた折り畳みのテーブルがあるだけで他には何もない。

 テーブルの上に化粧水と思われる安物のボトルが数本と手鏡にヘアブラシ、そしてどう見ても僕や仮名より年上にしか見えない電池式のラジオが無造作に置かれているのが僕には酷く印象的だった。


 漫画やゲームは勿論、部屋を飾る小物さえない。娯楽になりそうなものが一つもないこの空間は仮名が僕と同じ中学生であることを忘れさせるほどに空虚。

 ここは本当に同級生の部屋なのだろうか。

 半ば混乱しながら考える僕を他所に魔王が苛立ちながら声を漏らす。


「くそ。この辺りに居るのは確かなはずだが……」


 魔王はそう呟きながら無造作にカーテンを開けたが、あまりにも狭いベランダの先にも仮名の姿はなかった。


「あいつめ、外へ行ったか?」

「えっ?」


 言うが早く魔王はそのままベランダへ飛び出したと思った途端、そのまま宙を飛び僕の前から姿を消した。

 僕は仮名の部屋に一人残され、そのまま呆然と少しの間立ち尽くしていた。


「もしかして、このまま逃げられる?」


 自分に言い聞かせるため、白々しく呟いた言葉は奇妙なくらいに強く響いた。

 言葉の重みが自分の内に広がっていくようだった。

 事実として僕があの魔王……否、この意味の分からない状況から逃げ出すことが出来るのはこのタイミングしかない。

 そう理解していたのに僕は仮名の部屋から抜け出すことは出来ず、むしろ立ち止まったまま動けずにいた。


「いや、逃げられるわけないか」


 僕は途方に暮れていた。

 巻き込まれたまま逃げられもせずこんな状況になっていることに。


「もし、仮名が見つかったらどうなるんだろう」


 正直なところ、全く想像がつかなかった。

 そもそも、僕の世界がこんなにも変わってしまってからまだ一時間も経っていない。

 僕は仮名の虐めに神経を擦り減らしながら、我関せずといった態度で授業をする教師や、見て見ぬ振りをする者や仮名の後ろから野次を飛ばすような連中に頭を悩ませながら生きているだけの人間だったはずなのだ。

 それが気づけばこんな訳の分からないことに巻き込まれている。

 もし、魔王が仮名と出会った事を切欠にして魔力の問題を解決したならどうなるのだろう。


『心しておけ。我がその気になれば世界征服とまでは行かずとも、世界の半分くらいはあっという間に支配出来るのだ』


 勇者を始めとした脅威が消えるのを待って復活した魔王が何をしようとしているかなんて、考えるまでもない気がした。


「魔力、か」


 僕を振り回している言葉を改めて呟く。


「そもそも仮名は何で魔力を持っているんだ?」


 そう、僕は仮名のことを何も知らない。

 彼女が何故、魔力を持っているのかは勿論、一ヵ月前に僕を虐めるようになったのかも、何故、こんな環境でたった独り暮らしているのかも。

 僕は彼女の事で知っているのはクラスメイトであることくらいなのだ。

 彼女の持つ魔力。そして、この特異な環境。二つの事柄はたった一つの疑問に終着する。


「仮名は何で、一人でこんな場所で暮らしているんだ?」


 思考の整理のため呟いた一言が奇妙なほど大きく感じた。

 同時に僕の身体に感じたこともないような感覚が走り、それが強い熱を伴い僕の両目に集中していく。


「っつ!?」


 くぐもった声を漏らし、反射で瞬きをして目を開いた直後。


『仮名。お前は今日からここで住め』


 まるで水中で聞くようなくぐもった声が玄関から聞こえた。


「えっ?」


 驚き振り返ると無精ひげを生やした中年の男と呆然としながら彼を見る少女の姿があった。


「仮名?」


 事実、少女は仮名にしか見えなかった。

 僕の知る姿よりも幼い。

 もしかしたらまだ小学生かもしれない。

 僕の問いかけに二人は反応をしない――幻の類いのようだ。

 その証拠とばかりに二人はくぐもった声のまま会話を続ける。


『何で私がここに居ないといけないの?』


 幼い仮名が不安げな表情で男を見た。


『馬鹿。お前が居ないなら誰がこの部屋の掃除をするんだよ。誰も住んでいねえってバレたら生活保護も打ち切られちまうだろうが』


 そう言って男は仮名の頬をぱしんと叩いた。

 男の動きに迷いはなく同時に少女も痛がりこそすれど驚いた様子はない。

 少なくとも僕の目には日常的に男が暴力を振るっているように見えた。


『電気やガスのメーターも見られるらしいからちゃんとここで暮らせよ。だけど、金は毎月渡した金額以上はやらねえからな』


 吐き捨てるように男はそう言うと財布から二万円を取り出してコンロの上に置き、そのまま扉を叩きつけるようにして閉めて部屋から出て行ってしまった。

 残された少女は独りぽつんと閉じられた無機質な灰色のドアを見るばかりだ。


 不意に少女の姿が消え、それと同時に背後から音がした。

 振り返るとあの少女よりさらに僕の知る姿に近づいた仮名が壁にもたれ掛かりながらラジオを流していた。

 しかし、ラジオから流れる音は周波数が上手く合っていないのか、耳障りな雑音が多く混じっており、言葉がよく聞こえない。

 テーブルの上には封筒が置かれ、さらにその隣には一万円札が一枚と千円札が五枚、そして小銭が丁寧にまとめられており、一目見て幾らのお金が残っているか分かるようにされていた。


「仮名」


 僕が声をかけた途端、彼女は身を起こして僕の方を見る。


『父さん』


 いや、正確にはいつの間にか僕の位置に立っていた先ほどの男を見ていたのだ。


『今月余った金を寄越せ』

『うん。こっちにあるから確認して』

『お前が持って来い』


 縋るような仮名の言葉があっさり断ち切られる。


『ごめんなさい』


 びくりと彼女は震えるとそのまま封筒をゆっくりと開き、まるでコンビニやスーパーの店員がするようにお金を丁寧に男へ見せながら封筒へしまっていく。


『今月は結構節約したの。ほら、いつもみたいに一万円が一枚と千円札が五枚に……』

『かさばるだろ。なんで五千円にしなかったんだよ。このバカ』


 三枚目の千円札を入れていた仮名の手がびくりと震える。


『ごめんなさい』


 繰り返される謝罪の言葉に男は舌打ちをした。


『こっちは忙しいんだよ。お前と話す時間だって惜しいのに』


 仮名は頷き今までより手早く封筒にお金を入れると立ち上がって男の方へ差し出すと男は奪い取るようにして封筒を掴み、そのまま一言さえ発さずに部屋を後にしてしまった。


 僕の目の前で仮名の姿が消え、再び背後から音がする。

 振り返れば僕のよく知る仮名の姿がそこにあったが、彼女は僕に一声かけることもなく通り過ぎてベッドの隣に座り込んだ。

 どうやら、これもまた本物の仮名ではないらしい。

 僕のよく知る姿をした仮名は虚ろな表情のままテーブルの下に手を伸ばし、そして何故か転がっていた包丁を握って自分の方へと持って行く。

 そして、それを少しの間、じっと見つめていたがやがて震えたままの右手をきつく握る。


「まさか」


 息を飲むような僕の呟きに仮名の身体がびくりと震え――彼女は僕の方を見上げる。


『貴様』


 声が聞こえると同時に僕の頭が背後から誰かに掴まれた。


「痛っ!?」

「魔力が行使されるのを感じたから戻ってくれば……覗き見とは良い趣味をしておるな」


 学校で感じたあの激痛と熱が再び僕の頭の中に走る。

 振り向けないまま苦しみに喘いでいると背後の魔王が怒鳴り散らす。


「貴様に分け与えた魔力はこんな事に使わせるために与えたのではない!」


 痛みの中、僕は今更ながらに理解する。

 やはり僕が見た今の光景は幻だったみたいだ。


『何で一人でこんな場所で暮らしているんだ?』


 切っ掛けはあの不用意に呟いた言葉だろうか? 

 どうやらあの言葉がそのまま魔法として機能したらしい。

 つまり過去を見る魔法へと。


「魔力が尽きれば我の姿さえも認識出来なくなる。次にくだらぬ魔力を使えば貴様の命はないと思え」

 その言葉と共に僕は解放された。

「すみません」


 どうにか謝罪をしながら魔王の方を振り返ると、彼は右手に持っていたジュースの缶を開けてそれを飲み干し八つ当たりのように壁へ投げつけた。

 当然魔力は減っていた。

 それもジュースの缶、二つ分――そんなことを指摘する度胸なんて僕にはない。

 苛立つ魔王の姿を見ながらふと疑問に思って僕は魔王に尋ねる。


「でも、僕は今、魔法を使ったのに何でまだ魔王様を見ることが出来るのでしょう? 一回魔法を使えば1しかない僕の魔力は消滅するんじゃあ……」


 魔王がこれ見よがしに大きなため息をつく。


「先に説明しただろう。この数値はあくまで大まかなものだ。そんな分かりやすく一回の魔法で1の魔力が失われるわけではない。だが、貴様の魔力はもうほとんどないと覚えておけ」

「すみません、分かりました」


 そう言いながら僕は魔王へ尋ねる。


「まったく。探している途中で魔力を感じたからてっきりあの娘が魔法を使ったのだと思っていたのだがな。くそっ。魔力の感覚からしてこの近辺に居るのには間違いないのだが」


 苛立つ魔王を見つめて僕はふと一つの可能性に思い当たる。

 とはいえ、それは仮名の性格や行動から結びつくものではなく、たった今、垣間見た仮名の人生に僕自身を当てはめた時に浮かんだものでしかない。

 故に見当違いの可能性も十分にある――だけど。


「魔王様、一つだけ思い当たる場所が出来ました」

「何?」

「ただ、魔王様の協力が必要です。僕の話を聞いてくださいますか?」


 僕の問いかけに魔王は思考をしていないような速度で頷いた。


「当然だ。さっさと言え」


 僕は頷くと魔王に話し始める。


「ではまず始めに――」



 ***



 その後、僕は魔王と別れてマンションの最上階まであがりそのままエレベーター隣にあったドアの前に立つ。


『関係者以外立ち入り禁止』


 ドアにはそう書かれていたが僕は半ば確信めいた気持ちでドアノブを掴むと、予想に違わずドアノブはあっさりと動き屋上へと続く階段が現れた。


「間違いない」


 心臓が早鐘のように鳴るのを感じながら僕は急いで階段を駆け上がり――そして。


「切り裂け」


 教室を二回りほど小さくしたくらいの狭い屋上に金網が破られる音が響く。

 僕が屋上の戸を開けるのと仮名が屋上を囲う金網で出来たフェンスを破ったのはほぼ同時だった。

 僕の視線の先にはこちらに背を向けて立つ仮名の姿があった。

 仮名はそのまま金網が裂けて出来た穴を抜ける。

 彼女はきっと止まらない。

 強制的に歩けなくなる……つまり屋上から落下するまで。

 僕は慌てて走り出す。


「こないで」


 その走りは仮名の言葉によりたった三歩で止められてしまった。


「今更、何の用?」


 しかし、仮名の足もまた止まっていた。


「私を見限ったんでしょう? 魔力が覚醒しなかったから」


 魔力の覚醒。

 その言葉跳ねられたような違和感を覚えると共に僕の時間は動き出す。


「仮名」


 どうにか仮名に声をかけると仮名の身体はびくりと震えた。


「え?」


 心底混乱したような息を漏らしながらゆっくりと仮名が僕の方へ振り返る。


「行末?」


 僕の視線と彼女の視線が重なる。

 仮名の頭の上に浮かぶ、8の数字が今更ながらに彼女の身体に魔力が宿っていることをはっきりと僕に伝えていた。


「なんで、あんたがここに……?」


 問いかけにどう答えて良いのか僕には分からなかった。

 僕は仮名が嫌いだ。

 消えてしまえばいいと思う程に。

 しかし、自分でも分からないことに、少なくとも今、この瞬間の僕は仮名が屋上から飛ぶのを止めさせるためにここへ来ていた。


「死んだはずじゃ……」


 動揺する仮名の方へ僕は一歩踏み出す。


「事情は後で話すから……とりあえず、こっちに」


 仮名は僕の言葉に反応をしなかった。

 冷静さを取り戻したように彼女は僕を睨むとそのままの勢いで僕へ告げた。


「こないで」


 僕の身体は怯む。

 だけど、仮名の声と身体、そして世界に響いた言葉は震えていた。

 その事実が僕の身体に熱を戻した。

 その熱が一つの事実を僕に伝えていた。

 止めようと思えば魔力を使えばいい。

 だが、仮名はそれをしていない。

 一歩、さらに踏み出す。

 仮名が一瞬息を飲んだ。

 僕の足が一歩さらに前へ出る。


「止まれ! 止まれ!」


 仮名の金切り声が響いた。


「仮名、落ち着いて」


 その中に僕の声が混じる。

 掻き消されそうな僕の言葉は自分でも奇妙な程よく通る。

 まるで、僕の言葉の方に魔力が宿っているようだ。

 それを仮名も感じたらしい。

 彼女は叫ぶのを止めて下唇を強く噛みながら僕を睨みつける。


「答えて。なんであんたがここにいるの」


 僕が口を開きかけた途端、彼女の背後から声が響いた。


「馬鹿が。貴様が殺し損ねたからに決まっておろう」


 反射的に仮名は振り返り自分の背後で空中に浮く魔王と相対する。

 仮名が自殺をしようとしているのだと察した僕が万が一に備えて空を飛べる魔王に反対側に待機をしてもらっていたのだ。

 固まる仮名に僕は呼びかける。


「仮名、その方は……」

「あんたは――どういうこと?」


 僕の言葉を遮り仮名は魔王を睨んでいた。

 仮にも異形の姿をしている魔王に恐れる様子もない。


「私を見限ったんじゃないの?」


 仮名の言葉に僕は耳を疑う。

 彼女は魔王の存在を知っていたのだ。


「見限ったわけではない。ただ、あの虫けらに魔力が宿ったのを感じたのでな。少しの間、あいつと共に行動をしていただけだ」

「魔力が……?」


 問いかける仮名に魔王は頷く。


「貴様が奴を助けようと放った魔法だ。どういうわけか、あの時の魔力が奴に宿ったのだ」


 一体何を話しているんだ? 

 そんな疑問の中に屋上から飛んだ一瞬、耳の奥に残っていた言葉が蘇る。


『飛んで、行末』


 飛び降りている空中で確かに聞こえた声。

 仮名の、言葉。


「貴様が奴を殺し損ねた時は大層失望したが、結果的に魔力の伝播という方法を知ることが出来たことに感謝している。見て見ろ、奴の身体に魔力が宿っておるだろう? あの時、貴様が奴に宿した魔力だ」


 目の前の光景で混乱する頭の中、もう一つの記憶が蘇る。


『飛べ。虫けら』


 飛び降りる直前。

 いや、僕が飛び降りる切っ掛けとなった言葉。

 あの言葉は本当に――『仮名の言葉』だったのか?


「故に今一度、貴様に命ずる。あの虫けらを殺せ」

「なっ」


 僕は思わず声をあげる。

 その声に魔王はこちらを向いたが、仮名は魔王を睨みながら言った。


「嫌だよ。殺さずに済んだ相手を何で殺さなきゃいけないのさ」

「馬鹿が。殺せていないから殺せと言うのだ」

「何故、ですか?」


 二人の会話に僕は割って入る。


「何故、仮名に僕を殺させようと……」

「察しの悪い奴だ。仮名に貴様を殺させようとしたのは我だ」


 呆然とする僕に魔王はこれまででも一番残酷な笑みを浮かべる。


「我が世界を支配していた時代。我の同族である魔族にはある特徴があった」

「魔族の特徴?」


 言葉を繰り返しながら僕の脳裏に根拠はないけれど確信に近い想像が浮かぶ。


「魔力の覚醒だ。どの魔族にも一度は訪れる儀式。それは初めて人間を殺した時に行われる。この特性故に我と勇者は――いや、魔族と人間は互いの存亡をかけて争ったのだ」

「しかし、もう魔族は居ないはずじゃ……」

「その通り。我が封印されている内に魔族はもう勇者に駆逐された。しかし、それは魔族が殺されつくしたというわけではない。中には人間と交わり血を残した者もいる」


 魔王はそう言うと仮名の隣に立つ。


「もう血は薄れただの人間に近い。しかし、遥か昔より連なる血と共に僅かな魔力を己が内に残し、それ故に現代の魔法である言葉を人間より遥かに上手く扱う。魔力が宿る故に人間に似ながらも決して人間ではない。言うなれば、言の葉の魔法使いといったところか」

「馬鹿らしい」


 仮名はそう言うと魔王から目を背ける。


「貴様がどう思おうが構わん。奴を殺しさえすればな」

「私は殺していない」


 絞り出すような仮名の声に魔王は笑う。


「確かに今日、最後の一押しをしたのは我だ――だが、だからと言って貴様は本当に自分が関係ないとでも言うつもりか? あの虫けらを言葉一つで死を選ぶほどに追い詰めたのは誰だ?」


 魔王の言葉に仮名はびくりと震える。


「はっきり言ってやろう。貴様は確かに奴を殺したのだ」


 否定の言葉を仮名も僕も出せなかった。

 それはこの場を魔王の魔法が――言葉が支配したという意味でもあった。


「行け。言の葉の魔法使い」


 魔王の言葉を受けて仮名は僕に向き直り――そして。


「今までごめん、行末」


 謝罪の言葉が響いた。

 白々しいとも、腹立たしいとも思わなかった。

 何故か、分からない。


 ――だけど、仮名の言葉が心からのものだと僕は感じた。


「切り裂け」


 仮名の口から言葉が吐き出され、それと同時に僕の目の前で一瞬にして風が集まり、屋上に存在する砂やゴミを巻き込みながら風の刃を造り出す。


「ひっ」


 僕が後ろに駆けだしてその風を避けられたのは屋上に来た時、仮名がフェンスを破壊したのを事前に見ていたからだろう。

 もし予備知識がないまま仮名の言葉を聞いていたら、仮名の言葉に動揺したまま体を文字通り切り裂かれていたかもしれない。


「狙いが甘いぞ。あれでは奴が動かずとも命中はしなかった」

「うるさい! 次はよく狙ってやるよ!」


 自分の後方に立つ魔王に仮名は吐き捨てる。

 だめだ。このままここに居ても殺される!

 僕は一目散に屋上の扉に向かって走り出す――が。


「閉じろ」


 開け放たれていた扉が勢いよく閉じる。


「閉まれ」


 仮名の言葉に呼応して扉の鍵は閉まり、僕は立ち尽くす。


「随分と豪快に魔力を使うものだ」


 魔王の言葉に振り返り仮名の方を見るとその魔力は3まで減っていた。


「確実に殺せばいいんでしょ?! 黙ってて!」


 仮名はそう叫ぶとさらに僕の方へ手を向ける。


「っ!」


 僕は慌てて扉から離れる。


「動くな!」


 仮名の言葉に僕は思わず立ち止まる。

 まずい――!


「切り裂け!」


 今までで一番大きな声で言葉が響き、風の刃により僕の背後にあるフェンスが切り裂かれる。


 は、外れた――? 


 そう思ったのも束の間、僕の方へ仮名が突進してくる。

 身構える間もなく僕は仮名と共にフェンスの先――空中へと投げ出される。

 思考が現実に追いつかない中、仮名が囁くように言った。


「飛んで、行末」


 その言葉に呼応するように僕の身体が空中に浮いてそのまま屋上の上に着地する。

 時間という概念が介入できないほど一瞬の内に落ちていく仮名が見え、その瞬間。

 ――僕は反射的に右手を伸ばして仮名の腕を掴んだ。


「えっ?!」


 仮名の心底動揺した声が響く。

 それと同時に彼女の重みで僕の身体はずるずると引きずられ、再び屋上から落下しそうになる。


「離して! 何をしてるの!?」


 そんな言葉を無視しながら右手でしっかりと仮名の腕を掴み、左手で屋上の縁を必死に掴む。

 段差のない縁のせいで、このままで仮名共々落下してしまう……。

 そんな焦る僕の前に魔王がやって来た。


「何をしているは我の言葉だ。仮名。貴様、何故このような事をした?」


 魔王は空中に停止しながら僕と仮名、二つの命の瀬戸際を退屈そうに見つめていた。


「我はこの虫けらを殺せと言ったのだ。助けろなどと言っていな……」

「行末!」


 魔王の言葉を無視して仮名が叫んだ。


「今すぐ私を離して! 私が死ねばコイツがあんたに拘る理由はなくなる!」


 この状況を仮名が自ら作ったのだと僕は今更ながらに悟った。

 僕を助けるために――。


「行末」


 僕の名前が呼ばれた。

 呼んだのは仮名じゃない。


「離していいぞ。どうせ、引き上げたところでその虫けらはまた死のうとするだけだ」


 魔王の言葉が深く僕の心に響き同時に僕の行動へと変わろうとするのを感じた。

 しかし。


「今、助けるから……負けないで……!」


 僕の言葉が世界に反響するのを感じた。

 こちらを見つめる仮名の目に色が戻る。


「そっちの手で僕の手を掴め! 早く!」


 叫ぶような僕の言葉に仮名はハッとしたような表情になり、そのまま垂れていた手で僕の腕を掴む。

 ――それを確認した直後、僕は何をすれば良いか悟ったままに言葉を口にしていた。


「引き上げろ――!」


 全身に強い熱が走るあの感覚が蘇り、それがそのまま仮名を掴む腕に伝わる。

 いける! 

 そう確信したまま僕は仮名の身体を引き上げ――その直後に感覚が消えた。

 肩で呼吸する僕の隣で仮名は気まずそうに俯く。


「何をしているのだ、貴様らは」


 息も絶え絶えの僕らの隣に立つ魔王は心底呆れた様子でため息をつく。


「まぁ、いい。仕切り直しだ」


 残酷に告げられた言葉が僕達二人に向けられる。


「殺し合え。こうなっては最早どちらが勝っても構わん」


 その言葉に仮名はいち早く反応した。

 仮名の両手に黒い靄のようなものが集中し、それが球体のように変化する。


「ほう。凄まじい悪意と殺意だ」


 仮名の真横へ着いた魔王は満足気に笑うと僕の方へ向き直り笑う。


「喜べ、行末。苦しまずに死ねそうだぞ」


 言われなくとも理解出来るほどのどす黒い魔力を抱えた仮名は僕を見つめたまま両手を振り上げる。

 ――そして。


「二度と。誰かに、こんなことしないで」


 呟くように響いた言葉と共に彼女は僕の方を向いたまま真横に居た魔王へ魔力をぶつけた。

 直後、魔王の体がズタズタに引き裂かれる。


「なっ!?」


 魔王は絶叫しながらその場に倒れると、痛みに打ち悶え屋上を転げまわり、止める間もなくそのまま屋上から地面へと落下していった。

 仮名はふらつきながら遥か下を見下ろして呟いた。


「逃げられたか」

「仮名……」


 僕が呼ぶと彼女は振り返り、気まずそうに視線を泳がせていたが、やがて意を決したように僕と目を合わせてぽつりと呟くように僕へ言った。


「行末。今までごめん」


 仮名が踵を返し空中へ足を踏み出そうとするよりも早く――僕はその身体を後ろから抱きしめていた。


「なに、するのさ」

「君こそ」


 彼女を止める言葉が僕には浮かばなかった。


「はなしてよ」


 そもそも何故彼女の自殺を止めているのかも分からなかった。


「しなせてよ」

「死んでどうするのさ」

「あんたにしたこと、つぐなわせてよ」


 息も絶え絶えという様子で僕に向けられた言葉を受け止めながら、僕はしばらくの間、仮名の身体を抱きしめていると彼女は静かに震えだす。


「ごめん……ごめんなさい」


 泣いている彼女にどんな言葉を向ければ良いのか僕には分からなかった。

 死にたいと思っている仮名の気持ちが痛いほど分かる気がしたから。

 このまま終えたいという彼女の気持ちが苦しいほど理解出来る気がしたから。


 少しして仮名の身体から力が抜けていくのに気づいた。


「大丈夫だよ」


 僕は自然に言葉を口にしていた。


「君は強いから」


 きっと、自分の心に深く突き刺さった罪の重みを背負って歩けるほどに。


「だから、勇気を出して」


 屋上で――僕と仮名にしか聞こえない言葉は世界に沈むように深く響いていた。



 ***



 一週間が経った。


「いってきます」


 家を出てから一番始めの曲がり角。


「おはよう」


 待っていた仮名が僕に言う。


「うん、おはよう」


 あの日から仮名は出来る限りの時間、僕の隣に居るようになった。

 彼女は罪の償いだとか報復にくるだろう魔王の警戒だとかそれらしい理由を述べていた。

 きっと、それらは本心なのだろうと思った。


 急に変わった仮名の態度にクラスメイトや教師は首を傾げていたが、幸いこの手の話題にありがちな、くだらない噂が立ったりしなかった。

 何せ、仮名が僕に対してやっていた事は色恋の話題に結び付くほど微笑ましいものではなかったから。

 いずれにせよ、考え得る限り最も良い形で僕にとって仮名の脅威は消えた。


「魔王の姿、見かけた?」


 歩きながら仮名が僕に尋ねる。


「いや、まったく。仮名の方は?」


 尋ね返すと彼女は肩を竦める。


「まぁ、もうやって来ないと思うけどね」


 その言葉に僕は頷いていた。

 報復をするつもりならば僕も仮名もとっくにされているはずだし、そうでなくとも仮名の身体に残る魔力はもう既に2しかない――今更、吸収などしないだろう。

 それに仮名はもう人を殺さないだろうという事もきっと魔王は分かっているはずだ。

 仮名が最後に魔王に放った魔法にはそれだけの強い拒絶の意思が込められていた。


 とはいえ相手は仮にも魔王。

 仮名の魔法がどの程度のダメージを与えているのかなんて分からないし、ひょっとしたらダメージはなかったかもしれない。


「案外、私の魔法が作用しているのかもね」

「二度とこんなことをするなって奴?」


 仮名は頷く。


「そもそもアイツ、魔王だなんだとか言っているけど、全体的にやることがみみっちいんだよ。必死に現代の魔力について探しまわっているくせに、その割には馬鹿みたいに後先考えずに魔力を消費しているし」

「あぁ、確かに。ジュースの買い方とか凄かったもんね」

「私、何度も言ってやったんだけどね。少しは節約をしろってさ」


 あの後、僕は仮名と魔王の関係も聞いた。

 僕が途中まで幻視していた光景の通り、一人で暮らしていた仮名の下に突如、魔王が現れたのだという。

 それは勿論、仮名の魔力に惹かれた故だが、同時に目覚めたばかりで右も左も分からない状態で頼る者を探しての行動でもあったらしい。


『独り、孤独に耐えられなかった私はあっさりとアイツにつけこまれた。それに他の人とは違う力を持っているという言葉も私にとっては強い輝きを放っているように感じた』


 しばらくの間、魔王は仮名の下で共に過ごしながらこの世界について学び、自分の置かれている現状をゆっくりと整理していったらしい。

 仮名はそのまま魔王に協力し、現代の魔法である言葉について調べることになったらしい。

 その過程で魔王は魔法が言葉という形に変わって残っていることに気づいたのだ。


『こじつけだと思ったけどね。だけど、アイツはその事を信じて疑わなかった。魔力があるものではなくとも声を使う事で世界を……いや、人を変える事が出来る。そして、人間が世の支配者となった現代において、人間を操ることは即ち世界を支配することなんだって』


 確かにその通りだと僕は思った。

 僕や仮名のような学生であれば親や教師の話す言葉を信じるし、それらから得た情報を常識として自らの内に世界を形成していく、いや、そうやって成長をしていくのだ。

 

 ――そして、それは僕ら学生だけに限らない。

 今、人間が世界に満ちたこの時代において、本や新聞を始めとする紙は勿論、テレビやスマホなどの電子媒体、果てはもっと単純に友達や恋人との会話の中で行き交う言葉が世界を支配している……それこそ、歴史を紐解けば力強く語った言葉で戦争が起こった例すらあるのだ。


『だけど、アイツがここまで言葉を恐れた理由が今なら分かる。何せ、アイツは勇者に負けたんだから』


 魔王は何度も勇者について仮名に語っていたらしい。


『勇者は強かった。だけど、それ以上に厄介だったのは奴の言葉で勇気づけられる人間共だ。どれだけ絶望させようとも、奴らは勇者の言葉を受ければ希望を持って――奮い立つ』


 魔王の声色を真似て、そう語った後、仮名は僕をじっと見つめてぽつりと言った。


『あんたみたいに言葉で勇気を与える者。それを人は勇者と呼んだんだってさ』


 仮名の言葉の真意を確かめる勇気など僕にはなかった。

 あるはずもなかった。


「ま、色々と問題はあるけど、気にしたってしょうがないでしょ」


 不意に放たれた言葉に記憶の再生が途切れる。


 尤もな言葉だと僕は思った。

 僕と仮名を取り巻く環境はほとんど何も変わっていない。

 僕には僕の。

 仮名には仮名の問題は未だに残っている。

 ――だけど、気にしたって仕方ない。


「今日の一限目の授業ってなんだっけ」

「え? ごめん、なに?」


 声のする方を向くと仮名が僕の方を見ながら問いを繰り返していた。


「いや、だから今日の一限目は何かってきい――」

「あっ、えっと、確か現代文だったと……どうしたの?」


 仮名が固まり立ち止まっていることに僕はようやく気づいた。

 彼女はぽかんと口をあけたまま僕の後ろを指差す。


「後ろ?」


 僕が呟きながら後ろを向くと。

 4132――真っ先に数字が飛び込んできた。

 次に公園のベンチの周りに転がる数え切れないほどのジュースの缶。

 そしてベンチに座り両手で顔を覆う魔王の姿。


「なに、あの――あれ、なに?」


 僕の問いかけに仮名がぽつりと呟いた。


「いや、どう見てもヤケクソになっているだけでしょ」


 僕と仮名はしばらくの間、無言で顔を見合わせていた。

 先に口を開いたのは仮名だった。


「どうする?」

「どうするもなにも……どうしようもないでしょ。だけど」

「だけど?」


 僕はため息交じりに言った。


「下手にどこかに行かれるより僕らの目の届く所に居てもらう方がいいかもね」


 仮名は肩を竦めた。

 僕の言葉に同意しているのか、呆れているのか分からない。

 それでも彼女は僕より先に魔王の方へ行って声をかける。


「何してんの、あんた」


 魔王はびくりと体を震えさせて僕らの方を見た。


「なっ――きっ、貴様ら!」


 怒りの形相を向ける魔王に仮名は容赦なく吐き捨てながら魔王の方へ歩いて行く。


「あんた、今んとこ缶ジュースを万引きしているだけの犬じゃない」

「仮名、言い過ぎだよ……」


 そう告げながら僕は仮名の背を追う。

 魔王は僕らを見て何やら必死に喚いていたが僕達を攻撃してくることはなかった。

 どうやら仮名の魔法は本当に魔王に通用していたらしい。


「とりあえずあんたはもう無駄遣いすんのやめなさい。節約のコツくらい教えてあげるから」


 仮名の言葉が登校する生徒達の姿が行き交う世界に溶け込むようにして響いていた。



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