第9話 信念:前編
※本作は一部に生成AI(ChatGPT)による言語補助を活用していますが、ストーリー・キャラクター・構成はすべて筆者が作成しています。
ご理解の上でお読みください。
1
彼女の最初の記憶は、冷たい空気に包まれた冬の朝だった。
けれどその前に──生まれた時の姿について、彼女は何度も姉から聞かされていた。
下半身は毛並みのある馬の体、背にはしっかりとした羽が一対。人間の耳は見当たらず、その代わりに頭の上から鹿のような耳が二本、ぴくぴくと揺れていたという。
「まるで神話のキメラみたいだった」と、シモーネは冗談めかして言っていたが、その声の奥に潜む複雑な響きを、イヴァンカは子どもながらに感じ取っていた。
「母さん……あのとき、酒を飲んでたから、あんたは魔女になったのかもね」
ふとした冬の夕暮れ、火の前で針仕事をしながら、タラシオサがぽつりとこぼした。
それがどこまで真実なのか、今となっては知る由もない。
けれど彼女の“魔女”としての人生は、確かにそこから始まっていた。
母はイヴァンカを産んだその日に亡くなった。
苦しそうな悲鳴の中でこの世に生を受け、ぬくもりも、声も、乳も知らぬままに、命の重みだけを背負った。
そのことに罪悪感を抱いていたのは、父ではなく、姉だった。
だから彼女は、せめて姉を喜ばせたかった。
幼いころ、指先をちくちくと刺しながらも、夢中で小さな人形を縫った。
淡い桃色の糸で形を作り、青いボタンの目を縫いつけた、ちんまりとしたお守り人形──名を「モコシちゃん」といった。
双子の姉と、無骨な手をした父に、それぞれ一つずつ渡したとき、姉はほんの少し目を潤ませ、父は「こんな器用なのは誰に似たんだか」と頭を撫でてくれた。
イヴァンカはその記憶を、誰よりも大切にしている。
2
父が鍬を手に、背をかがめて畑へ向かう。
姉たちは本を抱えて、坂道を笑いながら駆けていく。
春先の朝はどこまでも穏やかで、誰もが日課へと向かうなか、イヴァンカだけが家の裏手でじっと息をひそめていた。
──今日は、行こう。
人間の姿を完璧に模せるようになってから、何日が経っただろう。
肌は白く、足は二本。耳は頭の側面にぴたりとついていて、背中に羽もない。
鏡に映る自分を何度も確かめた。姉に似せた髪型も、父に内緒で縫ったワンピースも、準備は万端だった。
「イヴァンカ、お前は絶対に外に出るなよ」
父の声が頭をよぎる。でも、今日はどうしても我慢ができなかった。
扉をそっと閉め、家の影から道へ出る。
村外れの麦畑は、金色の穂が風に揺れて、まるで波のようだった。
その真ん中に、ひときわ目立つ姿があった。
レースのついた白いワンピース。青いリボンが風に踊る。
その子は、イヴァンカと同じくらいの歳に見えた。
畑の端にしゃがみこみ、小さな花を摘んでいた。
「……こんにちは」
イヴァンカの声に、少女はぱっと顔を上げた。目が合う。
瞬間、逃げられるかもしれないと身構えたが、少女は笑った。
「こんにちは。ねえ、ここでよく遊ぶの?」
「ううん、初めて……」
「私も! 一緒に遊ぼ?」
少女の声は、麦の波よりも柔らかく、イヴァンカの心をくすぐった。
その日は、ずっと一緒だった。
麦畑の迷路を走り回り、風で笛を作り、摘んだ花を髪に飾った。
名乗ることはなかったけれど、名前なんてどうでもよくなるほど楽しかった。
夕暮れ、名残惜しそうに少女が口を開いた。
「今日は本当に楽しかったわ。これ、あげる」
彼女の手には、小さなガラス瓶。淡い紫のリボンが結ばれていた。
香水──タラシオサ姉さんがどこで集めてるのか分からない、富裕層を対象としたチラシで見たことがあるだけの、貴族の女の子が使う高価なものだ。
「でも、私何も持ってな──」
「あ、それじゃあ交換にしよう」
イヴァンカが着ていたポケットから、小さな布の塊が引き抜かれた。
それは彼女の作った、モコシちゃんだった。
少女はまじまじとそれを見つめ、にこっと笑って受け取った。
「ありがとう。この香水ね、いざという時、体に吹きかけるの。そうすると──」
少女は指先を自分の胸に当てた。
「もっと頑張れるようになるのよ」
夕焼けの中、風が吹いた。
麦畑の穂が、金色の波を揺らす。
そして少女は、すっと立ち上がり、畑の向こうへと去って行った。
3
季節が巡り、姉たちはそれぞれの道へと進んだ。
シモーネは軍学校へ入学した。小さい頃から背筋を伸ばして歩き、剣よりも言葉で人を動かす少女だった。
タラシオサは都へ上京した。読み書きも裁縫も誰より上手く、母親のように家のことを切り盛りしていた彼女は、もっと広い場所で力を試したかったのだろう。
家には、イヴァンカと父の二人だけが残された。
朝ごはんはもう食べ飽きてるお粥だった。
小さなキッチンの椅子に腰かけて、イヴァンカは父の手元を見つめていた。
粗末な背嚢。中には乾いたパンと、水筒と、シモーネが縫ってくれた包帯。
そして、あの小さな金属の板──認識票。
「……行くのか」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「うん」
父は短くうなずき、イヴァンカの頭に手を乗せた。
その手は、大きくて、重たくて、温かかった。
「姉さんたちのこと、誇ってやれ。お前も、ここで元気でな」
イヴァンカは頷くしかなかった。
行ってほしくない、とは言えなかった。
言ったところで、この国の誰もが、男というだけで前線に駆り出される時代だった。
「モコシちゃん、まだある?」
「うん、あるよ」
イヴァンカは奥の棚から取り出した。薄汚れてはいたが、耳の長いその小さな人形は、確かに家族の守りだった。
父はモコシちゃんを鞄の外ポケットに入れ、最後にもう一度、イヴァンカの目を見た。
「……じゃあな」
そして、扉が、閉まった。
音がした瞬間、イヴァンカの心臓が少しだけ震えた。
それが、家の中の最後の音だった。
あとは、静けさ。
風の音すら遠く感じられた。
何日かして、父の認識票だけが帰ってきた。
それを持ってきた軍人は、何も言わなかった。
玄関先でそれを差し出し、深く頭を下げただけで、すぐに背を向けて去って行った。
家の中の壁に、影が滲んだ。
夜、イヴァンカは泣かなかった。
涙をこぼすよりも、声を出すよりも先に、自分を保つことに精一杯だった。
そしてその頃、村の空気は変わり始めていた。
「またあの王家のせいか……」
「王族は安全な場所にいて、うちらだけが戦わされるんだ……」
大人たちはひそひそと話した。
それはまるで、雨が降る前に漂う湿気のように、じわじわと村に広がっていった。
あの日麦畑で出会ったあの少女も、都に帰ったのか、もう姿を見ることはなかった。
イヴァンカは一人、家の中で窓の外を見ていた。
変わりゆく空の下、何が正しくて、何が間違っているのか、その頃の彼女にはまだわからなかった。
ただ、扉の向こうへと消えていった人たちの背中だけが、やけに鮮明に記憶に残っていた。
4
季節はいつの間にか変わっていた。
イヴァンカが小さな家の中で、ぼんやりと天井の木目を数える癖を覚えた頃──あの音がした。
トントン、と硬い足音。扉がノックされる音。
久しく聞いていなかった、けれど確かに懐かしい音。
扉を開けると、そこに立っていたのは、シモーネとタラシオサだった。
軍服と汚れが一切ない綺麗な服。二人とも凛と背筋を伸ばしていたが、イヴァンカが「おかえり」と言いかけたその瞬間、目を伏せた。
沈黙。重い、濁った空気。
それだけで、イヴァンカは何が起きたかを悟った。
「……お父さんは?」
自分の口から漏れたその問いに、タラシオサが少しだけ唇を噛み、首を横に振った。
シモーネは何も言わず、鞄の中から銀色に鈍く光る認識票を差し出した。
イヴァンカは震える手でそれを受け取った。
重い──はずなのに、掌の中でそれはやけに軽く思えた。
「遺体は……見つからなかったの」
タラシオサの声は、遠くから届くようにかすかだった。
イヴァンカは頷くことも、否定することもできなかった。ただ、心の中でぽっかりと何かが欠けていくのを感じていた。
その穴は、風が吹くたびにきしむように痛んだ。
その夜、三人は久しぶりに揃って食卓を囲んだ。
パンの数が三つ。笑い声も会話もなかった。
やがて、シモーネが椅子の背もたれに身を預けるようにして、口を開いた。
「……あたし、軍学校でいろいろな場所に派遣されたの」
イヴァンカとタラシオサは静かに彼女の言葉を待った。
「そこで気づいた。……誰もが、王室に怒ってる。
貧しい人も、貴族も、兵士も、農民も、みんな同じように疲れてる」
シモーネの声は震えていなかった。ただ、酷く静かだった。
「自分たちの『面子』のためだけに、王室は戦争を続けてる。
犠牲になるのは、名前も知られない人ばかり。……父さんも、そうだった」
イヴァンカは、認識票を両手で包み込むようにして、膝の上に置いた。
「父さんを殺したのは、王室だ」
シモーネの声が、低く、しかし確かに響いた。
「……だから、あたしは決めた。
もう、あんな連中にこの国は任せられない。
軍学校の学友や、卒業した先輩たちと、準備してる。
クーデターを起こす。王室を、倒すために」
空気が、ぴたりと止まった。
イヴァンカも、タラシオサも、返す言葉を失っていた。
それは、国を裏切るという意味だった。
でも同時に、愛する人を失い続けるこの現実から逃れようとする、唯一の希望のようにも聞こえた。
シモーネは目を伏せず、まっすぐにイヴァンカを見て言った。
「……妹としてじゃなく、国民として聞いてほしい。
この国を変えるために、あたしは剣を取る。あたしが先に、変わる」
イヴァンカは何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
その夜、星は雲に覆われ、家の灯りだけが頼りなく揺れていた。