主婦の修羅場に舞う少年
~old memories~
【淡々とした少年】
「ねぇ、ミーちゃん」
二人きりの病室で、聞き慣れない名前が飛んでくる。
「それ、僕のことですか?」
「今は私とあなたしかいないのだから、当然でしょ?」
“その人”はまるで僕の方がおかしいと主張しているかのように、目を丸くする。
「……おそらくですけど、あだ名というものですよね? 僕の名前と全く結びつきがないと思うんですけど」
「そうかな~? まぁでも、可愛いからいいじゃないの~」
そう言って、スツールに座る僕の頭を撫で、頬へと滑らせる。
会うと必ず一回は、こうやって僕の体のどこかに触れてくるのだ。
「そうだ! この前退院した子の両親からお菓子を頂いたの。一緒に食べましょ」
“その人”は破天荒な性格故か、たくさんの患者さんが彼女の魅力に魅かれ、彼女もまたこの病院にいる人たちを好いていた。
だから、この病院にいる子供から老人、従業員も彼女の存在を知らない人はいない。
その内の一人である女の子の母親が、入院中の娘がお世話になりましたとお礼のお菓子を下さったのだ。
“その人”は床頭台からお菓子の箱を取り出し、ベッドテーブルに置く。
蓋には見覚えのあるチョコレートメーカーのロゴが描かれていた。
蓋を開けて中身を見ていると、たくさんのチョコレートが縦横整って敷き詰められている。
白や茶色、黒が高級感を漂わせ、正方形や丸、ハートなど他にも言葉では表せないような異様なデザインのチョコレートとバリエーションが豊かだ。
「まあ、美味しそ~。ミーちゃんは何から食べたい?」
「僕ですか……」
色を見て苦くなさそうな、白いハートの形をしたチョコレートを指さした。
「あら、ハートを選ぶなんて、やっぱりミーちゃんは乙女なのね」
「偶々最初に目に入っただけです」
そう言いながら、手渡されたチョコレートを口に入れた。
口の中で溶けるチョコレートは、思ったよりも甘ったるくて優しい味がした。
◇
【秋山海斗】
由紀との生活が始まって、二週間が経った。
それは一学期開始の二日前ということでもある。
去年は最初の一週間だけ授業に付き合い、それぞれの科目担当の教師の見極めることから始めていた。
授業中の睡眠が許される科目には出席し、それ以外は授業を受けず家で睡眠時間を確保する。
学校のある日でも、労働基準法にギリギリ引っ掛からないところまでのバイトをしていた時期もあったので、昼間にどれだけ睡眠時間を確保できるかが肝なのだ。
どうやら、この学校が掲げている教育方針は見掛け倒しらしく、出席率が悪くても先生方は見て見ぬふりをするようだ。
その結果、俺の一年時の三学期は週二日程度の登校だったわけだが、二年からはそんなライフスタイルを変えようと思う。
バイトでの収入は以前よりは減り、一人増えたことで出費は重なることに繋がるが、この時のためにためていたのではないのかと自分でも疑ってしまうような貯金がある。
今ならスーパーで、一番高いステーキ肉だって買える気がする。
多少収入が落ちた程度で、金銭面に不安はないのだ。
ただ、今一番不安なことがあるとするのならば……。
「海斗君、どうしよう……」
由紀が気まずそうに、炭が広がった野菜炒めを食卓に出す。
そう、俺が思っていた以上に、由紀の料理が上達していないのだ。
話し合いの末、一日の大事なエネルギーを必要とする朝食は俺が担当し、由紀には時間に余裕がある晩御飯を任せることになった。
バイト帰りですぐにご飯にありつけることは、有難い。
有難いことこの上ないのだが、身体に害を及ぼしそうな食事を毎日していては、命にかかわりかねない。
この前の炭入りの卵焼きでできないことは認知していたので、上達するまでは毎晩一人分の料理を作り、もう一人の分はコンビニの食品で済ませるというのを交互に担っていた。
しかし、二週間経った今でも由紀の成長は全く見込めないという艱難辛苦な状態だ。
「今日は私が食べるから」
「……頑張って」
失敗作は一日交替で処理。
食事中は毎日どちらかが戦う覚悟をした目つきで、目の前の料理に立ち向かう有様だ。
「ご、ご馳走様……」
戦いを終えた由紀は、いろんな意味で苦しそうに口とお腹を抑えた。
「お疲れ様」
そんな由紀に、俺は労いの言葉をかける。
「私、才能無いのかな……」
「いや、家庭的な料理に才能はいらない……はず。俺だって最初は塩と砂糖を間違えたりした」
「私はそれ以上にやらかしてるんだけど……」
これ以上この状態が続くのは、いろんな意味でマズいと腕を組み考える。
でも、どう考えても俺が何とかするしかなさそうだ。
「明日、俺が教える」
「それは助かるけど、バイトはいいの?」
「最近は年に一回くらい、休みがあってもいいと思えるようになったんだ」
俺は噛み締めるような思いで言葉を零す。
「……そっか、成長したんだね」
その夜、俺は部屋で諸々の準備を済ませ、明日のために早めに就寝した。
翌日――宣言通りバイトを休み、由紀の料理部門での家庭教師を務めることになった。
もちろん給料は出ない。
「おはよう、海斗君」
いつも通り二人分の朝御飯の準備をしていると、一人で起きた由紀がリビングにやってきた。
「おはよう、由紀」
俺は味噌汁をかき混ぜながら、挨拶を返す。
「食器並べておくね」
そう言うと、俺の返事を待たずに食器棚から茶碗を取り出し、ご飯を装って食卓に並べた。
最近の由紀はこういった何気ない気遣いができるようになっていた。
そして、その時は決まって嬉しそうに笑みをこぼす。
だから、今の生活は由紀にとって間違いなく良い方向に進んでいるのだと確信した。
俺は出来上がった味噌汁をお椀に注いで、グリルから熱々の鮭を皿に盛り付ける。
それらを由紀が食卓に並べて、二人揃って朝御飯を食べた。
俺は一足先に私服に着替えて、玄関で由紀を待つ。
「お待たせ」
由紀も程なくして来た。
私服を持っていないので、基本的には俺の服を貸すことにしている。
トップスには白シャツと黒いジャケット、ボトムスにはデニムのズボンという至ってボーイッシュな格好だったが、由紀は気にしない様子だ。
身長に差があるので余り過ぎないか心配だったが、ズボンは裾をまくれば問題は無く、シャツも丁度良い丈だった。
「それじゃあ、行こうか」
「うん」
玄関の扉から出たら、俺は忘れず鍵をかけて由紀と横並びで道中を歩いた。
まずは練習の食材を調達するために、俺たちは行きつけのスーパーへと向かった。
スーパーの中は相も変わらず、子供連れの主婦やカートを押している老婦で賑わっていた。
「今日は何を買うの?」
「今日と明日の分の野菜類に魚と……今日は鶏肉の特別セールやってるみたいだから、買っておきたい」
チラシに載っている情報を見つつ、そう答える。
「なんだか、海斗君主婦みたい」
由紀は俺の顔を覗き込むように屈ませ微笑んだ。
「本物程じゃない」
俺はそう返すと、
「そこは真面目に答えるところじゃないよ」
と、笑われてしまった。
昨日の夜に立てた計画の通り順調に買い物を進めていき、最後にこのスーパーで行われる最大の特別セール――野菜袋詰め大会の会場に足を踏み入れる。
午前の部と午後の部に分かれていて、俺が参加するのは午後の部だ。
平台に積まれた野菜たちの山を、袋いっぱいに詰めるという昔ながらのシンプルなルール。
参加料百円でうまくいけば大量の野菜たちを確保できるという、何ともお得なイベントに、俺のようなギリギリを生きている人間が見逃すはずがない。
午後の部を選んだのにも理由がある。
主婦という名の好敵手が買い物に来る時間帯は、営業開始時間から昼までの間。
勝ちに行くのなら、敵は少ないほうが良いに決まっている。
とはいえ、午後の部でもそれなりの人数が参加しているわけなのだが、そこはどうしようもない。
あとは己の力を信じるのみ。
俺は着ていた上着を脱ぎ捨て、ワイシャツの袖を肘関節までまくる。
「由紀……」
「……な、何?」
この空気には由紀も緊張しているようだ。
「そこの上着、持ってて」
そう言って、俺は床に指をさす。
「あ……うん。頑張ってね」
「じゃあ、行ってくる」
後ろにいる由紀を一瞥して、俺は強く踏み込んで戦場へと赴いた。
「い、いってらっしゃい……」
武器にはイベント用の袋を両手と口の三刀流の態勢で臨む。
周りを見渡せば、準備運動や指の関節をゴリゴリと鳴らしている主婦様方が、鬼気迫るような目をしていた。
俺はリラックスするため、深呼吸をして息を整える。
「あんちゃん、随分と若いねぇ」
すると、横からいかにも強そうな体格でパーマ姿の主婦が、俺に声をかけてきた。
「可愛いからって手加減はしないよ!」
主婦は自慢の拳を突き立て、鋭い目つきで俺を威圧する。
「俺にも……譲れないものがあるので」
「その歳でよく言うもんだよ」
主婦はフッとにやけて、目の前の戦場に目を向けた。
「これより、野菜合戦を開始します」
アナウンスが鳴り、会場のざわめきが息をひそめる。
「「「「「…………」」」」」
「それでは、始めっ!」
「「「「「うぉーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」」」」」
開始とともに、主婦たちの雄叫びが飛び交う。
俺もそんな嵐の中を、颯爽と飛び込んだ。
すると、早速誰かの肘が俺のみぞおちにクリティカルヒット。
時には意図的な平手打ちが顔面に、振り回された野菜入りの袋が後頭部に。
こんな人ごみの中、気を失いそうになりながらも、俺は己の責務を全うし続けた。