眠らぬ君と私の想い
【春香由紀】
この日の朝は自分の力で起きた。
もう海斗君にこれ以上は負担をかけさせたくない。
顔を洗ってリビングに入ると、海斗君がキッチンで朝ご飯を作っている横顔が見えた。
「海斗君、おはよう」
「おはよう、由紀」
私の声に海斗君が振り向くと、目の下が青黒くなっていた。
「その目どうしたの!?」
「あぁ、これ? 昨日バイトの書類と一緒にこれ作ってて」
そう言ってテーブルからホチキスで留められた薄い紙の束を私に見せた。
表紙には『家事の注意事項』と書かれている。
「これって……」
「洗濯って意外と奥が深いんだよね。俺も違う色の服を一緒に洗って変な色になったことある」
これで、昨日の言葉の意味がようやく分かったような気がする。
でも、もっと分かりやすく説明してほしかったな。
なんにせよ、これを読めばきっと洗濯を失敗することはないだろう。
――それより心配なのが……。
「海斗君大丈夫?」
寝不足で足取りがおぼつかない海斗君は、朝ご飯の支度を再開しようとしていた。
とてつもない眠気に襲われているのか、顔は前を向く力も無くなっているようだった。
「大丈夫。午前中は何も無いから、朝ご飯食べたらすぐ寝る、だから……」
一瞬間を置くと、うなだれて落ちた視線を一生懸命私の目に合わせて、低くてか細い声でこう言った。
「今日も家事よろしくお願いします」
その言葉が嬉しくて、私は顔をほころばせる。
「うん。任せて!」
朝御飯を食べ終えて、使った食器を水に浸けたら海斗君は自分の寝室に入ろうとリビングの扉を開ける。
すると、玄関から電話のベル音が鳴った。
海斗君が受話器をとって電話に出ると、私はリビングの扉からやり取りをのぞき見する。
「……はい……はい。今日もですか? ……はい」
文脈から察するにまた急なバイトのシフトを任されたのだろう。
でも、寝不足のままバイトなんて絶対危ないに決まってる。
流石の海斗君でもそれくらいわきまえているだろうと、通話が終了するまで見守っていた。
「……分かりました。すぐそっちに……」
――え。
――今、何て言った?
聞こえた言葉を確かめに、私は足音を殺しながらスタスタと海斗君の方に近づく。
『いやぁ~、悪いね~。秋山君、頼みやすいからこっちも助かっちゃうよ~』
近づくと、電話の向こう側の声が聞こえてくる。
声からして電話の主はおそらく若い男性で、言葉遣いがとても軽い。
あっけらかんとした喋り方を聞いていると、胸の中が煮えたぎり海斗君に近づく足音は一歩一歩に重みがかかった。
私は海斗君から受話器をひったくり、相手には見えないことを分かっていながら軽蔑の眼差しで電話に出る。
「もしもし?」
『ん? 女の子の声? もしかして彼女さんですか?』
「えっ!?」
強気に断ってやろうと電話に出たはいいが、不意打ちのような質問に勢いを殺された。
向こうの憶測が正しいけれど、高校生の彼氏彼女が同じ家に住んでいることを正直に話すのは倫理的にどうなのだろうか。
しかし、口を紡いだままでは余計に怪しまれるので、私は咄嗟に思いついた関係を伝えることにした。
「わ、私は海斗君の保護者です! とにかく海斗君は体調が悪いので、今日はシフトに入れません! それでは!」
『え? ちょっとまっ……』
言葉をまくしたて、相手が応答する前に電話を切って強引に場を収めた。
一部始終を後ろで見ていた海斗君が私に訊ねる。
「由紀、どうしたの?」
「何で断らなかったの?」
「何でって……頼まれたから」
「でも、海斗君寝不足なんでしょ? だから、寝るって言ったじゃん!」
私は自分の唇を噛み締め、こぶしを強く握りしめる。
どうしてこんなに腹立たしいんだろう。
自分のことじゃないのに、海斗君が無理強いさせられてる気がして、居ても立っても居られなかった。
「でも、頼まれたんだから仕方ない」
「何でそうやって、いつも他人のことばかり優先してるの? もっと自分を大切にっ……!」
反射的に言葉が止まり、一度冷静になる。
どの立場で言ってるんだ私は――。
私も私自身を大切にしてこなかったじゃないか――。
「ごめん。今のは……違う」
我に返ると語気が弱くなり、次第に頭も上がらなくなる。
「いや、多分その方が正しいと思う。でも、俺は……」
海斗君が何かを言いかけると、気が付いたように目を反らし言うのを止めた。
「とりあえず、寝るね」
「うん……」
海斗君は静かに寝室に入っていった。
私も家事に戻ろうと思ったのだが、なんとなく海斗君が心配でベッドまでついてきてしまった。
「由紀、俺はもう大丈夫だから」
ベッドに入った海斗君は私を追い出そうとする。
「看病だよ。看病」
「風邪、引いてないんだけど……」
「とりあえず、寝付くまでいさせて」
海斗君は困ったように、人差し指で頬を掻く。
そして、布団をかけて横たわるが、目だけはパッチリと開いていた。
私は海斗君が寝付くまで顔をまじまじと見ていたが、一向に目を閉じようとしない。
「人って誰かに見られると、こんなに寝付けないんだね」
海斗君は私を一瞥すると、天井に目線を戻して冷静に感想を述べる。
「あっ、ごめん」
海斗君の言葉で過ちに気づき、私はベッドにもたれかかって足を抱えた。
「眠れそう?」
「……少し時間かかるかも」
「それじゃあ、少しお話ししてもいい?」
「……うん」
「海斗君はさ。どうして、私を受け入れてくれたの?」
「……何でだろう。俺にもよく分からない」
実に曖昧な回答に海斗君らしさを感じる。
「私が言うのも変だけどさ。重荷になるとか思わなかったの?」
「……重荷。感じたことないかな。何でそんなこと訊くの?」
私は抱えた膝に顔を埋める。
「ここでの生活がこんなに長く続くなんて思わなくてさ。だから、私のせいで海斗君の大事な人生が奪われちゃったらどうしようって……」
この関係が長く続けば、きっと私は想い焦がれていた場所に辿り着くかもしれない。
でも、同時に私のしていることは世間からしたら悪い事で、誰かに見つかってしまえば私はおろか、協力してくれた人も巻き込んでしまう。
それが優しい人ならば、私は後悔と自責の念に苛まれることになるだろう。
私の生き方は優しい人と出会ってはいけないのかもしれない。
海斗君の言葉を待つが、全く返事が返ってこない。
気になってベッドに顔を向けると、海斗君は既に目を閉じてスース―と寝息を立てていた。
私はベッドに腕を乗せて、海斗君の寝顔をまじまじと観察する。
透き通るような白い肌に、整った長いまつ毛。
銀色の髪からはプリンのような甘い香りが漂い、頬をつついてみるともっちりとした感触が指先に残る。
一日中こうしていたいけど、今の私にもやらなければならないことがある。
海斗君からもらった大事な役割を――。
「……ずっと、ここに居たいな」
聞こえないのをいいことに本音を零し、私は静かに部屋を出ていった。