綺麗になってた
【春香由紀】
朝――。
小鳥のさえずりと共に大きな電話のベル音が鳴っていた。
誰からだろうと部屋を出てみると、既に海斗君が電話に出ていた。
「……はい、今からですか? ……分かりました。準備が出来次第そちらに向かいます」
海斗君は電話を切り、スタスタとリビングの方に向かってくると、部屋の入り口から盗み見していた私に気づく。
「おはよう」
「おはよう、海斗君。さっきの電話、バイト先から?」
「うん。他のバイトの人が体調不良で来れないらしくて、代わりに俺が行くことになった。急いで御飯作るから……」
「私がやるよ!」
私は海斗君の言葉を遮るように、大きな声を出した。
私自身も驚いてしまい、鼓動が早くなる。
「あっ、いや、その……」
勢いで言ってしまったから、それが無くなると歯切れが悪くなってしまう。
「ご飯は作れないかもだけど……早くできるように私も手伝うから。あと、掃除とか洗濯もやる。だから、海斗君は安心してバイト行って来て」
言葉が連なる度に声が小さくなってしまい、目線も少しずつ下がっていってしまう。
家事なんてやったことないから自信はない。
それでも、海斗君は任せてくれるだろうか。
そんな不安な気持ちが影となって、私に襲い掛かる。
すると、海斗君は顔を上げてと言わんばかりに、両手で私の顔を持ち上げた。
「家のこと、お願いします」
海斗君の後ろには、玄関のガラス窓から陽の光が燦燦と差し込んでいた。
私は頬に触れている海斗君の右手を両手で包み込む。
「うん、私頑張る!」
海斗君の望み通りにできるかは分からない。
けれど、海斗君の役に立てるかもしれないことが、私を突き動かした。
海斗君が出かける支度をしている間、私は海斗君と自分の分の朝御飯を作る。
とは言っても、本格的にやろうとしたら、この前の卵焼きのようになってしまうので、パンをトーストで焼いて、バターを塗っただけだ。
海斗君はトーストを口に咥えたまま、バイト先に向かった。
私だけになったこの空間で、まずは洗濯物を洗うために洗濯機を回すところから始める。
とりあえず、海斗君と私が昨日着た分の服をまとめて洗濯機の中に入れた。
次に私が使った食器を洗剤で洗って、水切りに立てかける。
これは毎日やっていたことなので楽勝だ。
今度は掃除機を持ち、海斗君の部屋から始まって私の部屋へ。
それから、リビングへと渡り、最後に廊下。
見えた埃は余さず、掃除機の中へと吸い込ませていった。
あとは洗濯物をベランダに干せば、家事は完了だ。
やってみれば、意外と呆気ないものだ。
家事を熟せた高揚感と共に、私はソファに寝転がって洗濯が終わるのを待つ。
少しして洗濯が終わったメロディーが流れたら、私はソファを離れて洗濯機の蓋を開ける。
「うそ……」
洗剤の良い香りを漂わせた洗濯物は、顔が青ざめるような姿に変貌していた。
ガチャリ――。
玄関の扉が開く音が聞こえてきた。
足音はこっちに近づいてきて、今度はリビングの扉が開く音が聞こえてくる。
「ただいま」
「……おかえり、海斗君」
バイトの疲れを全く感じさせない落ち着いた声の海斗君とは対照的に、私は今にも死んでしまいそうなか細い声で返す。
「どうしたの?」
海斗君が気遣わしげに覗き込む。
私は観念して、膝の上の洗濯物を海斗君に見せた。
本来の白さが失われ、黄ばんでしまったワイシャツ。
太腿の部分に大きな穴が開いたデニムのズボン。
どれも海斗君が着ている服だ。
「ごめんなさい……」
力のない声で海斗君に謝る。
感情を出さない海斗君は、変わり果ててしまった自分の服を手に取る。
「やっぱり駄目だなぁ。こんなこともできないなんて……」
無言の空間に耐えられなくなった私は、せめて空気だけでも和ませようと目一杯笑って見せる。
でも、海斗君にはそんなことどうでもいいようで、自分の服をソファに置くとリビングから出て行ってしまった。
完全に見限られちゃったかな――。
私は膝を抱えてうずくまり、流れそうな涙を必死にこらえていた。
すると、海斗君が戻って来て、小さくなった私に目線を合わせる。
解雇を告げられるのだろうか――。
そう思うと、怖くて顔を上げられない。
怯えながら海斗君の言葉を待っていると、頭にか細い手の感触が伝わる。
そして、私の耳元で囁く。
「部屋、綺麗になってた。ありがとう」
その言葉に、私は思わず顔を上げてしまった。
そして、黙って立ち上がり、自分の服を畳んで棚に収納する海斗君を目で追ってしまう。
「また、お願いしてもいいかな?」
「で、でも私。海斗君の服を……めちゃくちゃに……」
「まだ着れるから大丈夫」
「でも、他の人に見られていいの?」
「気にしないよ」
「でも……」
海斗君に何度も言い返され、抵抗する力が無くなっていく。
「毎日こんな風にされたら困るけど、由紀なら直してくれるよね?」
「そんなの分からないよ! それは、出来ることならどうにかしたいけど……どうしてこうなっちゃったのかも分からないのに……」
「分かった。それじゃあ、今度もまたお願いするね。とりあえず、晩御飯を食べようか」
「えっ!? いやいや、こっちは何も分からないよ」
言っている意味も分からない上に、無表情で言うものだから余計怖く感じる。
「晩御飯作るから由紀はゆっくりしてて」
海斗君は私の話を聞かず、晩御飯の支度を始めた。
結局、海斗君の真意は分からず、夜を明かした。
窓から差し込む今夜の月明かりは、心なしか綺麗に映っていた。