近くて遠い君との距離
【春香由紀】
漫画を読んでいるうちにいつの間にか眠っていたようで、カフェオレの甘く香ばしい匂いで瞼が自然と開いた。
右を向くと、そこにはバイト帰りの海斗君がいて、カフェオレをスルスルと啜っている。
「おはよう」
「ん~、おはよう海斗君」
目を擦りながら周囲を見渡すと、私が読んでいた漫画たちが散乱していた。
自分の家をこんな理不尽に使われているのに、海斗君は落ち着いた顔をしている。
「ご、ごめん。すぐ片付けるね」
私は慌ててソファから立ち上がり、散らばった漫画を拾い集めようとした。
すると、海斗君も何も言わず、漫画を拾い集めてくれた。
漫画たちは元あった海斗君の部屋に戻される。
「ごめんなさい」
私は肩身を狭くして謝罪する。
「いいよ、別に」
海斗君は全く気にしない素振りでリビングに戻り、お互い無言でカフェオレを啜り合った。
この気まずさに限界を迎えた私は、何か話題を作ろうと口を開いた。
「海斗君って、少女漫画好きなの?」
瞬間的な割にはごく自然なことを訊けたことに、僅かながら満足感を感じながら海斗君の答えを待つ。
「好き……というか、家庭教師のバイトで教えてる生徒に勧められたから借りて読んでるだけ」
「へぇー、それって女の子?」
「うん」
それもそうか。
男の子が進んで少女漫画を読むことなんて、とても考えられない。
海斗君と関りを持つ私と同性の子……。
その情報だけでも変な興味をそそられてしまい、更に質問を投げかけた。
「そっか、どんな子なの?」
「どんな子か……。多分普通だと思う」
海斗君は回答に困ったようで、私は分かりやすい訊き方に変えて再び投げかける。
「じゃあ、その子は可愛い?」
ただ、これでも海斗君は天井を見上げて考え込んでしまった。
そもそも、海斗君が普段女の子のどういうところを見ているのか分からない時点で、最適な訊き方なんて無いのかもしれない。
数十秒間が空いてようやく海斗君の口が動いた。
「多分そうだと思う。人懐っこくて、そういうところが皆大好きみたいだし。最近クラスの人から告白されてたんだけど、それもこれも全部可愛いからじゃないかな」
客観的な返答に上手くかわされた感じがしたが、それ以前に違和感を感じていた。
ただ授業をするだけの関係のはずなのに、まるでその光景を実際に見て来たかのような言い方だ。
海斗君とその生徒の関係を言い換えるなら、同じ学校の仲の良いクラスメートといったところか。
これ以上踏み込んでみようかと迷っていると、先に私のお腹の虫が音をたててしまった。
お昼ご飯を食べるのを忘れるくらい、少女漫画に没頭していたのだ。
「そろそろご飯にしようか」
海斗君がソファから立ち上がり、キッチンで食材たちを並べる。
「私も何か手伝うよ」
「ありがとう。それじゃあ、そこでゆっくりしてて」
遠回しにいらないと言われ、渋々とソファに腰を下ろした。
前にお礼で作った卵焼きのことを、まだ覚えているのだろう。
テレビをつけても面白そうな番組はやっておらず、すぐに電源を切って真っ白な天井を見上げる。
そして、晩御飯が出来るまで、海斗君が話していた女の子のことを考えていた。
人懐っこくて皆から愛される子――。
それはきっと、明るくて純粋無垢で、その純粋さが皆に笑顔を届けているような私と真逆の存在。
だからこそ、今の無表情な海斗君にとっては、なおさら必要な存在に思えてくるのだろう。
そのおかげで、海斗君とその子が手を繋いで歩いている後ろ姿を容易に想像できてしまった。
女の子は目一杯に笑顔の花を咲かせて、海斗君はその姿に微笑みかけているイメージ――。
部屋で女の子が海斗君に漫画を紹介しているイメージ――。
勉強で苦戦しているところを、海斗君が指をさして教えているイメージ――。
なんて暖かな光景なのだろう。
そして、無自覚に私自身と顔も名前も知らないその女の子と比べている自分がいた。
まるで偽りのない光を持っている太陽のような存在と、その太陽から仮の光で輝かせている月のようだ。
その現実から背けるように、私は目を閉じてリビングから聞こえてくる調理音に耳をそばだてる。
トントンとリズムに乗った包丁の音に、じゅ~と炒める音は食欲を掻き立てる。
今日はどんな御飯がテーブルに並べられるだろう。
今度は鼻にも神経を研ぎ澄ませる。
甘い味噌の匂いが強く香り――。
切った具材の中には野菜以外にも肉を切ったようなゆっくりとしたリズム――。
きっと今夜は回鍋肉だ。
今度は女の子と海斗君が並んで、キッチンに立っている後ろ姿を想像する。
「ご飯できたよ」
海斗君が呼ぶと、目を開いて献立の答えを確かめる。
予想通りテーブルの真ん中には回鍋肉が盛られた大皿があって、ご飯と味噌汁がそれぞれの席に置かれていた。
いただきますと手を合わせ、早速メインの回鍋肉を箸で掴み口に入れる。
「どう? 美味しい?」
そう訊かれると、私は箸を置いて俯いた。
とても美味しい。
でも、それよりも海斗君や家庭教師の女の子と比べて、自分の無力さや汚さを思い知った気がした。
私は何もできていない。
海斗君は涙が出そうになっていた私に駆け寄り、ポケットから取り出した白いガーゼのハンカチを差し出す。
どこまで準備が良いんだ、私の彼氏は。
「大丈夫?」
洗い立ての甘い香りがするハンカチ。
すがりたくなるような、甘くて優しい声。
どこまでも優しくする海斗君に私という存在を教えるように、徐に彼の唇を奪いそのままソファに押し倒した。
海斗君は倒れこみ、私はその上に乗る。
そして、見せつけるようにワイシャツのボタンを一つ二つと外していく。
「どうしたの?」
右手で彼の前髪を払い、おでこから頬を伝って撫で回した。
それでも、彼は依然と表情を崩さず、平然としている。
左手で海斗君の心臓に手を当てても、鼓動は不必要に早くなることも遅くなることもなく、一定のリズムを保ち続けている。
膝で股を押し当てても、今まで感じてきた感触は無かった。
異性に興味が無いどころの話ではない。
それなら一層、私がここにいる意味を見出せなくなってしまうというのに。
「私はさ、今までこうやって生きてきたんだ」
私は顔を隠すように、ボタンを開けて露になった透き通るように真っ白な胸に顔をうずめる。
「始まりはいつも怖くなるけど、終わってしまえば呆気ないものだったんだ。それでその人たちは満足したようにベッドに倒れこむから、私はここにいていいんだって思える」
きっと、海斗君は何のことだか分かっていないだろう。
でも、そんなことどうでもいいから、今は話を聞いてほしかった。
何もかも、嫌なもの全部吐き出したかった。
「私、海斗君に何もしてあげられてないのに……それどころか、海斗君の部屋に勝手に入って、勝手に漫画読んで、勝手にリビング散らかして、その前は不味い料理だって食べさせたのに」
――あの子に比べたら私なんて全然ダメなのに。
泣きそうな顔を見せたくなくて、海斗君の胸から離れられなかった。
「私、どうすればここにいても良いって思えるのかな?」
心は抜けたように軽くなり、体は汚れることがない空間。
これほど自由が許された家はこれまであっただろうか。
でも、その引き換えに感じるのは、無気力な日々。
容姿しかない自分に与えられた無力な日々。
何も感じず何もできないことに、何故か不安と不満を募っていた。
その上、相手に悪気がないとはいえ、他の女の子の話をされて胸が苦しくなった。
その結果がこのザマだ。
情けない……。
今もこれまでも自分が恥ずかしくなって、嫌になっていく。
私は顔をうずめたまま海斗君の言葉を待ったけれど、海斗君は微動だにしない。
「ごめん。情緒不安定だったよね」
私は海斗君から離れ、立ち上がる。
「ちょっと気持ちの整理したいから、部屋に戻るね」
そう言って、食卓に並ばれたご飯を食べずに、私は部屋へと戻った。
そして、私はベッドに入って、布団の中で抱いていた枕を濡らしていた。