帰りを待つ人
部屋の片づけが一通り終わり、ようやく普通に暮らせるくらいの環境になった。
部屋の熱気で汗だくになっていた美奈は、洗い流すために浴室でシャワーを浴びている。
その間、俺は昼食の準備に取り掛かった。
片付けに追われて買い物する時間が無かったので、予め運転手さんに頼んでおいたそうめんを食べる。
片手鍋に水を入れて沸騰するのを待っていると、洗面所から美奈が出てきた。
「何か作ってるの?」
「お昼ご飯」
俺はそう答えて美奈に目を向けると、美奈は体にバスタオルを巻いて濡れた長い髪を拭いていた。
「服はどうしたの?」
「どうしたって、汗で気持ち悪かったから、洗濯に出したんだけど……」
『どうしたって、洗濯に出したよ』
すると、誰かの湿ったような声が、脳裏をかすめた。
しかし、その声は泡沫のようにすっと消えて、現実に戻されてしまった。
「……どうしたの?」
だんまりになっていた俺を、美奈が案じて声をかける。
「……ごめん、何でもない。それより、着替えは?」
「持ってきてるわけないじゃない」
「それなら、俺の服でも……」
貸そうかと言いかけたが、美奈が着るには俺のサイズは物足りないと思い、口を紡いだ。
「あんた、今物凄く失礼なこと考えてるでしょ?」
察した美奈が訝し気に目を細める。
「そんなことないよ。悪いのは力不足の俺だから」
俺の思いついた最大限のフォローを入れると、美奈はため息をついて睨むのを止めてくれた。
「まぁいいわ。それに、案外この格好も悪くないわ。私結構好きかも」
美奈は心地よさそうに、うんと腕を伸ばす。
『これ開放感あっていいよ。私結構好きかも』
……まただ。
さっきと同じ声が俺の頭の中に入り込んでは、すぐに消えていく。
その時に感じるのは、どこか懐かしい気持ちと、すり抜けてしまうことへのやるせない気持ち。
でも、それはもしかしたら、ただの思い過ごしかもしれない。
俺がただ、あって欲しいと願った妄想かもしれない。
そんな、あるかも分からない記憶を必死に探していると、火にかけた片手鍋から沸騰した水が吹き零れた。
俺は急いで火を止めて、片手鍋をコンロから離す。
「さっきから様子が変だけれど、何かあったの?」
「大丈夫。何でもない……」
しかし、説得力の無い俺の言葉を、美奈がすんなりと受け入れるわけもなく、片手鍋を持っていた俺の手をどけて、代わりに持ち手を持った。
「まだ、完全に本調子ってわけじゃないんだから、大人しくソファで休んでなさい」
こうなったら止められないことを知っている俺は、潔く美奈の言葉に甘えてソファに寝転がった。
そして、眩しい光を腕で遮りながら、天井に広がる白い板を見て記憶探しの続きを始めた。
数分経つと、正装に着替えた美奈が俺を見降ろしていた。
「お昼ご飯、出来たわよ」
俺は上体を起こして、美奈を見上げる。
「ありがとう」
それだけ返したら、俺はソファから離れてテーブル椅子に座った。
テーブルの真ん中には茹で上がったそうめんが、氷と一緒にザルに入っている。
「これ、美奈が作ったんだよね?」
「もちろんそうだけれど、何かご不満でも?」
「いや、なんとなく……無意識に」
美奈は訝し気に俺を見ていたが、本当に無意識だった。
何故だか、他人が作った物に抵抗感があって、一瞬拒否反応を起こしてしまったのだ。
これも、失ってしまった記憶の一部なのだろうか。
「お皿、持ってくるね」
しかし、またぼーっとしていては美奈に心配されてしまうので、記憶の模索は中断させて、棚から食器を出した。
「それにしても、随分と多いわね。あなたってそんなに大食漢だったかしら?」
「いや、流石にその量を一人で食べるのは無理」
俺はそう言いながら、二人分に重ねたお椀と箸をテーブルに置く。
それを見て察した美奈は、目を大きく見開いて俺に訊ねた。
「ちょっと待って。これ、私も食べるの?」
「そのつもりで作った。美奈だってお腹空いてるでしょ?」
すると、図ったようなタイミングで、美奈のお腹の虫が静かに音を立てる。
「でも、私頼んでないし……」
美奈は気恥ずかしそうに頬を赤らめながら、鳴ったお腹を抑える。
「これは俺の想像の内でしかないけど、家族ならわざわざ頼まなくても、こんな風に帰りを待ってるものだと思う……そんな気がする」
そう言いつつ、俺は重ねたお椀をそれぞれの椅子の目の前に置く。
「だから、そのうちとかじゃなくて。俺はいつでもご飯作って、美奈の帰りを待ってる」
「海斗……」
瞠目していた美奈の瞳は、次第に陽に当てられた湖のように煌びやかになる。
いつか見たその瞳は、優しくなった姉の本来の姿なのだろうと、今の俺にはそう感じた。
「さぁ、食べよう。美奈」
俺は美奈が座る椅子を引いて、美奈の肩を静かに押した。
「それじゃ、いただくわ」
美奈は椅子に座ると、めんつゆが入った瓶を手に取って、お椀に注ぎ込んだ。
俺も自分の椅子に座ったら、二人揃って手を合わせた。
「「いただきます」」
美奈はそうめんをお椀に入れてつゆに浸け、その内の数本を口の中に流し込むと、苦虫を嚙み潰したような顔でこちらを見た。
「このつゆ、しょっぱくない?」
「普通は水で薄めるんだよ」
俺はテーブルに置いてあった二リットルの水を持って、美奈のお椀に少量注ぐ。
「あと、薬味が無いけど、作ってないの?」
「それって、写真で見るネギとかを細切れにしたやつ? 私に包丁を使えというの?」
「それもそうだね」
こうして、俺は美奈に抱いてはいけない期待の領域を、また一つ知ることになる。
その後、俺たちは無心でそうめんを啜り続け、部屋にはその啜り音だけが流れていた。
きっと、これも姉弟としての、俺たちの一つの在り方だろう。




