痕跡
マンションに到着すると、俺と美奈は車から降りて、我が家である202号室まで足を運んだ。
美奈が部屋の扉の鍵を開けると、中は床から天井まで埃まみれになっていた。
「美奈、俺が入院してる間に帰らなかったの?」
「わざわざ帰ってくる意味が無かったのよ。病院でも寝泊りできるし」
美奈はバタリと扉を閉じて、現実の惨状から目を背ける。
「どうする? 運転手さんに全部掃除してもらう?」
冗談として受け取りたかったが、残念ながら美奈の顔から本気が伝わってくる。
「美奈、せめて自分でやる癖は付けなよ」
結局、運転手さんには買い出しだけを頼んで、中の掃除は俺と美奈で行った。
数か月も空けていた家の中は廃墟のようで、床一面灰色の埃で覆われている。
足を突っ込むのも気が引けたが、中に入らなければ掃除機が取れないので、意を決して飛び込んだ。
靴下が埃まみれになりながらも掃除機を手に取り、コンセントを刺したら吸引力マックスで埃を吸い込ませる。
埃を払いきったら、美奈はようやく靴を脱いで廊下に足を付かせ、辺りに埃は残っていないか入念に見渡していた。
「大丈夫だよ、美奈。塵一つ残してないから」
掃除で体中埃まみれになった俺は、揺るがぬ自信をもってそう言う。
「そう、ご苦労様。シャワー浴びてきてもいいわよ」
宿主の美奈から直々に許可が降りたので、俺は遠慮なく浴室へと足を運んだ。
埃をかぶった服は洗濯機に入れ、浴室でシャワーを浴びる。
体を洗い流したら、洗面所の鏡の前に立ってタオルで頭から拭いた。
腕を上下に動かしていると、洗面カウンターに置かれていたうがい用のコップが肘に当たった。
落ちそうになったところを寸前で受け止めたが、コップに入っていた2本の歯ブラシは床に落ちてしまった。
俺は腰を下ろして2本の歯ブラシを拾い、コップに戻そうとすると、ある違和感を覚えた。
青色の歯ブラシは間違いなく俺の使っているものだが、もう1つのピンク色の歯ブラシの持ち主は美奈の所有物ではないのだ。
美奈は普段帰ってくる頻度が少ないので、歯ブラシは常に日用品入れに携帯している。
美奈が今日久しぶりに帰ってきたのであれば、ここにあるわけがないのだ。
俺はピンク色の歯ブラシを手に取り、名前が書かれていないか確かめる。
すると、持ち手の裏側に太いマジックで、二文字のカタカナが記載されているのを見つけた。
――ユキ。
おそらく、この歯ブラシの持ち主の名前で間違いないだろう。
その歯ブラシを見ていると、胸の奥で何かが小さく音を立てた。
それは、俺の失くした記憶に関係する人物なのだと、確信はないが予感をざわめかせるようにぎこちなく締め付ける。
「海斗、出たらこっち手伝って。タンスも埃まみれになってる」
扉の向こうから美奈の声がすると、見えていないと分かっていても、反射的にピンク色の歯ブラシを背後に隠してしまった。
今の美奈は俺に隠し事をしている。
だから、俺が不信に感じたものは、きっと全て取り上げられてしまうだろう。
俺の記憶を遠ざけるために。
歯ブラシは美奈の目に届かない所に隠し、服を着て美奈の下に向かった。
美奈と協力してタンスを動かし、俺は一生懸命に腕を伸ばして、隙間に溜まった埃を濡れた雑巾で拭いた。
同時に、美奈はタンスの中を掃除するために、一旦しまっていた服を取り出す。
「あちゃ~、これもダメね」
案の定、数か月間放置していたタンスの中も埃まみれになっていて、服も全体的に埃をかぶっていた。
「こんなことなら、家政婦でも雇っておけばよかった」
美奈はため息交じりに、後悔を零す。
どこまでいっても、自分でやるという発想には至らないらしい。
「裏側はもう終わったよ」
俺はタンスの表側に目を向けると、美奈がキャミソールを手に持って呆然としていた。
そして、俺の声に反応すると、おぞましい剣幕でこちらを睨みつけた。
「ご苦労様」
そんな鋭い目つきでは、労いの言葉すらも素直に受け取れない。
「それ、美奈の服?」
俺は試しに訊いてみると、美奈の剣幕は鳴りを潜め、とても自然ないつもの美奈に戻った。
「ええ、そうよ。これから、暑くなるから買ってみたの」
「でも、それサイズが合わないんじゃ……」
俺が言いかけようとすると、美奈はさっきよりも恐ろしい形相で、顔を近づけてきた。
「私のものと言ったら私のものなの。文句があるなら、その節穴の目玉をくり抜いてあげましょうか?」
これ以上の詮索は不毛と判断した俺は美奈から目を反らし、だんまりとして作業を手伝った。
しかし、このやり取りだけでも充分な収穫はあった。
俺があの服の存在に気づいた時の、追い出そうとしているかのような美奈の目つき。
美奈の所有物か訊いた時の、安心したような涼しい表情の変りぶり。
サイズがあからさまに違うのに、押し通すかのように私物だと訴えるおぞましい形相。
あれは間違いなく美奈の服ではない時のリアクションだ。
そして、洗面台に置いてあった謎のピンク色の歯ブラシ。
そこに書かれていた“ユキ”という名前。
そこに行きつく答えはただ一つ――。
俺の失くした記憶は、その人物との記憶であるということだ。




