二人きりの授業
【秋山海斗】
午後の家庭教師のバイト――。
午前中は普段と変わらない肉体労働をしていたはずなのだが、途中からとてつもない腹痛に襲われていた。
原因はなんとなく検討がついている。
なんにせよ、そのおかげで今はげっそりとした顔で、バイト先の自宅に向かわなければならなかった。
家のインターホンを押すと、家の中から「はーい」と落ち着いた声が聞こえてくる。
声だけでこれから教える生徒の母親だとすぐに分かった。
家庭教師としてこの家にはそれだけ長い間お世話になっているのだ。
「海斗君いらっしゃーい。……って大丈夫? なんだか顔がすぐれてないように見えるけど」
彼女が玄関を開くと、最初は笑顔で出迎えてくれたが、俺の姿を見るや心配そうに眉を顰めた。
「仕事に差し支えない程度には大丈夫です。本日もよろしくお願いします」
「ごめんなさいね。今、涼花に買い物頼んじゃって。少しの間待っててもらってもいい? さっきお隣さんから美味しいお菓子を頂いたからご一緒にいかが?」
「はい。それではお言葉に甘えて」
空腹で死にそうだった俺は謙虚になって断る余裕もなく、有難くお菓子とお茶をごちそうさせてもらうことにした。
俺はリビングに招かれ、用意ができるまでテーブルで大人しく待っていた。
運ばれたお盆から花柄のティーポットと二人分のティーカップ。
そして、お菓子が入った大きな皿が真ん中に置かれた。
俺はティーポットを手に取り、自分のティーカップに注いだ。
アールグレイから漂う柑橘系の香りが、肉体労働で溜まったストレスを湯気とともに蒸発していく。
一口飲むと甘酸っぱい味の中に僅かな苦味が混ざっており、まさに大人の味という感じだ。
「いつも涼花の勉強をみてもらってありがとうね」
「いえ、お金を戴いている身なので」
俺は腰を低くして、皿の上のクッキーを一枚食べた。
バター風味とレモンの爽やかさが良いバランスを作り、紅茶との相性抜群だ。
「それで、うちの娘はどう? 何か困るようなことはしてないかしら?」
「そんなことないです。出された課題はちゃんとやるし、結果にも結びついてる。これなら、レベルの高い大学でも充分通用できるのではないかと」
「それは良かったわ~。涼花ったら海斗君と同じ大学に行きたいって言うんですよ? だとしたら、もっと頑張らなきゃよね~」
「俺と同じ大学ですか?」
「海斗君はどこの大学に行くの?」
俺は俯くと、紅茶に映る自分の顔と目が合う。
「自分が大学に行くとか考えたことありませんでした。お金とかかかるし、それに大学に行ってまでやりたいこととかなくて」
「え~そうなの~、頭良いのに勿体ない」
彼女は心底残念そうに言う。
「すみません」
「いいえ~、謝ることじゃないわ~。海斗君も先生とはいえ、まだ若いんだし。きっと見つかると思いますよ~。でも、このことは涼花には黙っておいた方がいいかも。ショックで勉強しなくなっちゃう」
「それこそ、困ってしまいますね」
「そうね~」
彼女は上品に笑い、俺は静かに紅茶を飲んだ。
「ただいまー。……ってえーーーーー!」
しばらくすると、買い出しから帰ってきた俺の担当生徒が買い物袋を持ってリビングに入って来るや、俺の姿を見て大声を上げて驚いていた。
「お邪魔してます」
「か、秋山君!?」
彼女は持っていた買い物袋を落とし、俺の方を見て愕然としていた。
名前は冬野涼花。
俺と同じ学校のクラスメートで九か月前から家庭教師のバイトで担当させてもらっている生徒の一人。
ハーフアップで大人っぽく見せているつもりだろうが、それ以前に小学生とも見分けのつかない身長の低さに加え、童顔が幼さを何十倍にも引き立たせている。
「――大丈夫?」
「ご、ごめんなさい! すぐに準備するのでー!」
そう言うと爆速で階段を駆け上がり、自分の部屋の方へ向かって行った。
「あの子も相変わらずねぇ」
「いつもあんな感じなんですか?」
「まぁ、“先生の前では”あんな感じです」
「顔でも怖いんでしょうか。俺、笑うとかあまり得意じゃなくて」
「まぁ~、顔は関係ないようで、あるかもしれませんね~」
冬野母は含みのある笑みを浮かべている。
「ちょっとお母さん!」
戻ってきた冬野は俺の手を取り、慌ただしく部屋に連れ込んだ。
「それじゃあ、ごゆっくり~」
冬野母は終始その笑顔で、俺たちを見送っていた。
「ふぅ……全くあの人は」
息を切らしている冬野は部屋の扉にもたれかかり、呼吸を整える。
今思えば、数ある家庭教師の中で、何故俺が選ばれたのか果てしなく疑問だ。
教え方が特別うまいわけでもなく、女性の先生がいないわけでもない。
にもかかわらず、現役高校生で男子である俺を指名するなんて一体両親は何を考えているのだろう。
そんな目の前の問題集より難しい難問を解きながら、俺は今日の授業を始めた。
「今日は昨日の数学の続きからだったね。いつも通り分からなかったら声かけてね」
「はーい」
冬野は元気よく返事をして、目の前の数学の問題に取り掛かる。
だが、冬野の短所で集中力は長く続かず、始まって10分もしないうちによく俺に雑談を吹っ掛けることが多い。
「海斗君。この前貸した漫画は読みました?」
「あの少女漫画? まだ一巻の途中までしか読めてなくて。返すの遅くなるかもしれない」
ここは「勉強に集中しろ」と言うのが教師として言うべきことなのだろうが、俺は相手に強要させることはあまり好きじゃない。
例え脱線したとしても、相手が楽しいならそれに越したことはないと思うのだ。
「あれは布教用ですから。いつでも大丈夫ですよ~。それより読んでみてどうでしたか?」
「それはここと次のページの問題解いてからにしようか」
「お任せください!」
強要はしない……。
その代わりに、彼女からの質問の返答を、彼女の問題へのモチベーションにする。
そうやって、脱線した電車をレールに戻し、それを繰り返していくのが俺のやり方だ。
「終わりました!」
冬野はギラギラと目を輝かせ、答えを書いたノートを差し出す。
俺はそのノートに赤ペンでマルバツをつけていった。
採点中、彼女は自分が解いたノートを見ながら、バツが出ると極端にへこんでいた。
「正解も多くなってきたし、多分細かいところの計算ミスがあるだけだと思う」
ノートを返して、間違えた問題にペンで指す。
「解き方ならもう分かってるのに……」
冬野はあからさまに落ち込んでいた。
解き方は分かっていても、結果が追いついていないのだから無理はない。
「計算ミスは数でカバーするしかない。俺も見てるから一緒にやっていこう」
失敗したときは前向きにさせることも俺のやり方だ。
「海斗君……」
冬野は目をウルッとさせて、俺を見つめていた。
「その前に使命は果たしたので、漫画の感想聞かせてください」
冬野は両手で頬杖をついて、餌を求める子犬のように目を輝かせる。
「そうだね……まだ序盤なのに、いきなり男の人と同居するのは正直驚いた。でも、だからこそこの先の展開は気になった、かな」
本当は興味を持ったかと訊かれると、そこまでではない。
ただ分かるのは、冬野は俺に前向きな感想を欲しがっているということだ。
だから、ストーリーを交えることでちゃんと読んだことを伝えつつ、正直な気持ちから少しだけ誇張した言い方をする。
案の定、冬野は満足そうに顔を近づけ、足をばたつかせる。
「そうですよね! ヒロインと主人公が一つ屋根の下で物語が始まるんですよ。でもですね、実はこの作品の本当の主人公は……」
いけない、と冬野は両手で口を塞いで、拍車にブレーキをかける。
「ネタバレは布教するものとして一番してはいけない行為でした。危なかったです……」
「……そろそろ再開しようか。続きはまた終わってからにしよう」
「はい!」
そうして、またペンの音だけが聞こえる時間に戻る。
彼女との授業はこの繰り返しで、ここまでゆっくりだと進捗に影響が出るのではないかと思うかもしれないが、春休みとなると与えられた時間は通常授業よりも増えてその心配が無かったりする。
それに冬野自身、数学は解き方の理解が早く計算はそれなりの数をこなして早く正確になってきている。
現代文や歴史に関しては冬野が好きな漫画に類似した物語を使って説明すれば、簡単に理解してくれた。
俺自身も冬野を担当してから棚にぎっしり詰められた漫画を借りては読んで返し、また新しいシリーズを借りて冬野の趣向に偏ったが、漫画の知識はかなり増えていった。
昼下がりに始まった授業はあっという間に時間が流れ、空はオレンジ色に染まり授業も終わりを迎えた。
「キリもいいし、今日はここで終わろうか」
「あーあ、もっと漫画の話したかったですー」
冬野は両腕をうんと伸ばし、まだ物足りなさそうにため息をついた。
俺は使った教材をトントンと縦横揃えながら「一応これ勉強の時間だからね」と言及する。
階段を降りると、晩御飯の支度をしていた冬野母が「今日もお疲れ様」と、労いの言葉をくれた。
「いつもありがとね。今日の涼花はどうだった?」
「はい。解くスピードも正答率も最初の頃よりは間違いなく上がっていますよ。これならもう一人でも充分やっていけると思います」
冬野母は目を閉じたような糸目で、「そっかそっか~」と満面の笑みを浮かべた。
「でも、もうちょっと海斗君には涼花の家庭教師を続けてほしいな~」
どうしてかと、理由を訊こうとしたその時、上の階段からどたばたと足音を立てながら「ちょっとお母さん!」と、俺の声を遮るように冬野が飛び出してきた。
「あら涼花。お夕飯もう出来てるわよ」
笑顔を崩さない冬野母に対して、ぷっくりと頬を膨らませながら母を睨みつける冬野。
「海斗君を玄関まで送るから、あっち行ってて!」
そう言って、冬野は実母の背中を押して、無理矢理台所に押し込む。
「すみません。母が変なこと言ってませんでしたか?」
「いや、特には」
きっと娘にはもっと頑張ってほしいのだろうと自己完結させ、何事も無いように振舞った。
「それならよかったです。全くこれだから朱夏中盤を生きている人間はイヤなんです」
何に腹を立てているのか気持ちを察することは出来なかったが、冬野はすぐに気持ちを切り替え「それより……」と別の話題を俺に振った。
「海斗君学校には行かないんですか?」
和やかな空気が一変する。
これまで冬野の口から何度も言われ続け、胸の中が煮えくり返りそうになっていた。
しかし、俺はその気持ちを押し殺し、軽く息を整えてから口を開いた。
「一応行ってるよ。出席日数ギリギリだけど」
「もっと行きたいとは思わないんですか?」
冬野は負けじと、食い下がる。
「どうだろう。たまに行ってもただ時間だけが過ぎてるように感じるんだ。だから、こうやって働いてる方が生活費も補えるし、何より……」
自然と言葉が止まった。
これ以上はしゃべり過ぎだ。
冬野が「何より?」と、続きを訊こうと耳を立てていたが、俺は申し訳なさそうに「ごめん、またね」と踵を返し、家を離れた。




