ただ“そばにいて”と願った夜
【春香由紀】
陽炎くんは半分以上も残ったカレーライスを一瞬で平らげ、満足そうにお腹をさすった。
「へぇ~、美味かったぜ」
「そろそろ帰らないと、親がうるさいんじゃない?」
「うるさいのは弟たちのほうっすよ。どうせ今頃俺がいなくて半べそ掻いてるところっすね」
「それなら、尚更帰らないといけないんじゃ」
「まぁ、あいつらなら大丈夫っすよ。なんだかんだ言ってしっかりしてるし。それより……」
会話の流れで陽炎君の雑談が始まり、それを私は横から見ていた。
陽炎君は少年のように目を輝かせて語り、海斗君は相変わらず無表情で話を聞いている。
海斗君が女装しているせいで、余計にその光景が母と息子のように見えてしまった。
本当に楽しそうだ。
でも、その輪の中に私は入っていない。
仕方ないことなのは分かっているけれど、この時間はとても退屈だった。
他に何かやることはないか考えてみたが、何も思いつかない。
部屋に戻ろうかとも考えたけど、この流れで出ていくのは不自然だ。
疎外感と陽炎君の明るい声で、胸の奥がむしゃくしゃする。
でも、吐き出す場所も無くて、胸が苦しくなる。
こんな感覚は初めてだ。
私、海斗君を取られていることに嫉妬してるの?
とにかく、海斗君には心配させないように、私は必死に堪える。
「……そんでお馬さんごっこしたいからって言って、俺を馬にして二人同時に乗りかかるんすよ」
「陽炎は体丈夫だからいいんじゃない?」
「俺は兄貴の特等席だ! って心の中では叫んでるんすけどねぇ」
「俺は乗ったことないけどね」
「今から乗ります? その姿で」
陽炎君はその場で四つん這いになる。
「大丈夫」
海斗君は即座に断った。
「まぁ、その気になったらいつでも言ってくださいよ。あとそのヅラは兄貴にあげますよ。またいつか見せてくださいね。そんじゃ、俺はこの辺で」
陽炎君の長話がようやく終わりを告げた。
私は何事も無いように、すまし顔でお茶を飲む。
「ちょっと待った」
陽炎君が部屋を出ようとすると、海斗君が肩を掴んで引き留めた。
「ネクタイ、つけ忘れてる」
「あはは、すいません」
女装した海斗君が後頭部に手を当てて笑っている陽炎君にネクタイを結ぶ光景を遠くで見る。
それは出勤する夫と、それを見送る妻のようだった。
「そんじゃ、俺はこれで」
そう言って陽炎君が扉を開けると、何かを思い出したように振り返った。
「そういやぁ、忘れてたぜ」
陽炎君は胸ポケットから一枚の紙きれを取り出し、海斗君に手渡す。
海斗君は折りたたまれた紙切れを開いて、中身を確認した。
「これ、電話番号?」
「何かあったら連絡してください。そんじゃ!」
そう言うと海斗君の反応を待たずして、飛び出して行ってしまった。
「俺、ケータイ持ってないんだけど……」
そう言いつつも紙切れを丁寧に二つ折りにして、部屋のハンガーにかけた制服の胸ポケットにしまった。
そして、陽炎君が帰ったことで、また二人だけの時間が戻る。
それは、海斗君にかかったシンデレラのような魔法も、同時に溶けていくことも意味する。
「俺、着替えるから由紀は外に……」
「待って」
私はウィッグを外そうとする海斗君の腕を掴む。
「もう少しだけ……そのままでいてほしい」
私は恥を忍んで、海斗君にそう伝える。
私の想いが伝わったのか、海斗君は掴まれた腕を振り払うことなく下に降ろした。
そして、私は更に海斗君に求める。
「今日……一緒に寝てもいい? そのままで」
気の迷いだろうか……。
私の方からこんなことを求めるなんて、今までなかったのに……。
それに、受け入れてしまう海斗君もどうかと思う。
こんな状況、海斗君は何も気にしないのかな。
私は寝る支度を済ませると、枕を両手に海斗君の部屋に転がり込んだ。
ベッドと勉強机以外のインテリアが存在しない殺風景な部屋に、さっきまで別の女の子がいたんじゃないかと疑うほど甘い香りがした。
「狭くない?」
海斗君が布団を広げ、私の入るスペースを作ってくれる。
「うん、大丈夫」
私は海斗君の胸に、顔をうずめるようにして布団に入った。
乱れのない心臓の音――。
心を落ち着かせる甘い香り――。
ボタンが一つ空いた所から見える雪のように白い肌――。
そこを直で触れると、春を感じさせるような暖かさがあった。
見上げればそこには銀色の髪の優しい顔をした大人びた女性の顔があって、彼女の目を閉じる姿は絵画に描かれる母のようだった。
頬に触れると、もっちりと柔らかく暖かい。
恐怖も寂しさも感じさせない空間だった。
これが母親に甘えるという感覚なのかは私には分からないけれど、確かなのは泣きたくなるほどの至福と、ずっとこうしていたいという欲深さが生まれたこと。
もっとこの人の胸の中に顔をうずめていたい――。
もっと白い肌を触っていたい――。
もっと甘い匂いで満たされていたい――。
もっとその綺麗な顔を見ていたい――。
私を抱いている女性は子供を宥めるように、その人は私の頭をそっと撫でた。
「……お母さん」
私はその一言だけを零し、目を閉じた。
二人きりの夜はとても静かで、とても短い夜だった。
今朝は小鳥のさえずりに起こされ眠い目をこする。
あたりを見回すとあの夜の綺麗な女性の姿はなく、机の上に長い銀色のウィッグが横に垂れるように置かれているのが見えた。
大きく腕を伸ばしながらリビングに入ると、いつもの海斗君の姿があった。
「おはよう、由紀」
海斗君は昨夜のことなど、日常だったかのように平然としている。
「おはよう……」
私はというと、しばらくは彼女を拝めないだろうという切なさが残っていた。
「昨夜はありがとう。その……いびきとかうるさくなかった?」
「大丈夫。今日は俺が先に出る日だから。もう行く」
「行ってらっしゃい」
私は海斗君を見送ると、一人リビングに戻ってテーブル椅子に座った。
そして、テーブルに置かれた食パンとハムエッグをチビチビと食べながら、昨夜の余韻に浸っていた。
抱えていた不安や孤独は息をひそめ、ふわふわした気持ちだけが残っていた。




