メイクアップ海斗
【春香由紀】
陽炎君がやる気を出し始めて数分後――。
「もぉ何でこの問題こんなに計算が複雑なんだよ! 電卓あれば終わってんだよぉぉ!」
数学の計算問題を目の前に、陽炎君の怒号が部屋中に響き渡る。
「はぁ……はぁ……あっちぃ」
怒りと知恵熱で体温が上がっているようで、陽炎君の体から汗を流れていた。
すると、陽炎君はネクタイを取ってワイシャツのボタンも全て外し、少しでも涼もうとワイシャツをふわりとなびかせた。
そして、私の目は自然と問題文から、六つに割れた腹筋に移ってしまう。
「あぁ? どうした?」
「いえ、何でも……」
「複雑な計算は俺がやるから。陽炎はどういう式を立てればいいか考えて」
海斗君が陽炎君の横に近づくと、陽炎君はおもむろに海斗君の右肩におでこを乗せた。
「その前にちょっと充電させてもらっていいですか?」
「……分かった」
海斗君は微動だにせず、甘える陽炎君の頭をさらっと撫でた。
丁度ココアを飲んでいた私はそんな男の子同士の触れ合いを見て、喉の奥をつっかえてしまう。
「由紀、大丈夫?」
心配した海斗君はその場から動かず、ポケットから取り出したハンカチを差し出す。
「どうしたの?」
「いやなんて言うか……二人とも仲良いなと思って」
「仲良いとむせるの?」
何も気づいてない海斗君は、柔らかく首をかしげていた。
その後も陽炎君は難しい問題を目の前にする度に噴火していたけど、私たちはなんだかんだで課題を終わらせることができた。
そして、約束通り海斗君は女装するために、別室で着替えている。
「やっと拝める~」
陽炎君もさっきまでの鬼のような形相から打って変わって大きな体を揺らし、ショーを楽しみに待つ子供のように海斗君のお披露目を待っていた。
女装した海斗君か……。
冬野さんにあんなことを言った手前、瓢箪から駒が出たように現実になろうとしている。
あの透き通るような白い肌に、女の子も憧れてしまうようなしなやかでか細い体。
まつ毛も長くて、目鼻立ちだって整ってる。
そんな海斗君の容姿なら髪を伸ばして女の子みたいな服を着させたら、本物の女の子と間違えてしまう程のポテンシャルならある。
そうこう考えているうちに、向こうから扉を開く音が聞こえてきた。
いよいよお披露目のようだ……。
「着替えたよ」
そう言って入ってくる海斗君の姿は、本物の女の子そのものだった。
淡いピンクのワンピースを着ただけでこの変わり様。
冬野さんとの会話で適当に言ったことが、現実のものになってしまった。
海斗君が歩く度に長い銀色のウィッグが、サラサラと靡いて大人の女性を引き立たせている。
あまりの完成度の高さに私も陽炎君も言葉を失い、ただ突っ立っていた。
「どこか変だった?」
何も言わない私たちを見て、海斗君は自分の衣装を見渡す。
すると、隣で見ていたはずの陽炎君はいつの間にか海斗君の目の前に立ち、海斗君の顎をくいっと持ち上げた。
「綺麗ですよ、兄貴」
そう言って顔を近づける陽炎君の口を海斗君は片手で抑えて、私の方を見た。
「そろそろご飯にしようか」
「そのままでいいの?」
「陽炎がいる間は」
そう言って長い髪を靡かせながらキッチンを歩く横の姿はとても優雅で、私の視線はその姿をずっと追いかけていた。
調理する姿なんて、母親そのものだった。
晩御飯は陽炎君の分まで用意され、三人で食卓を囲んだ。
「やっぱ兄貴の料理うめー」
嬉しそうにカレーライスをがっつく陽炎君。
「今日はどうやって入ってきたの?」
女装したままの海斗君が、陽炎君の犯行について事情聴取する。
「今日はこれっす」
そう言って取り出したのは、二本のピッキングツールだ。
見た目に合わず、器用なものだ。
「今回は正面から入りましたよ」
「今回はって……前もこんなことあったの!?」
前科があることに、私はつい口を開いてしまった。
「前はベランダからだっけ?」
「そんでその前は、兄貴の部屋の窓ぶち破って入りましたね」
「すごく怒られたね。弁償まで払わされたし」
明かされる数々の犯行の手口。
ここのセキュリティといい陽炎君の侵入のレパートリーといい、一体何を心配すればいいのか分からなくなってきた。
「鍵開けって意外と簡単なんですよ」
「じゃあ、今度からはそれで入るようにして」
「うぃ」
勝手に決まっているけど、これでいいのだろうか。
でも、私はここの住人じゃないから口出しする権利はない。
少しの間借りているだけの居候者。
そう、いつかはここを出なきゃいけない。
でも、それっていつになるのだろうか――。
出た後はどうするの――。
また一から男の人を探すの――。
それともあの日決めた時のように――。
変な方向に考えが飛躍してしまい、突然心は不安な色一色に染まってしまった。
スプーンでカレーライスをすくいあげたまま、口に入れられなかった。
「由紀、どうしたの?」
食が進んでいないに私を、海斗君が心配そうに声をかけた。
「苦手なものでもあった?」
「う、ううん大丈夫!」
海斗君を心配させないように、私はお皿に乗ったカレーを頬張った。
それを見て海斗君は安心したのか、陽炎君に目を移す。
「まだおかわりあるんだけど、陽炎食べれる?」
「何杯でも行けますぜ!」
陽炎君は自信満々に親指を突き立て、海斗君は陽炎君のお皿を持ってご飯を装った。
やっぱり、お母さんみたいだ。




