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下の名前と溶かされていく気持ち

【秋山海斗】

「涼花、ちょっと待って」

 授業が終わり帰る支度を済ませて冬野に玄関まで送ってもらうと、後ろから冬野母が慌てて俺たちを引き留めた。

「今度は何?」

 冬野は不機嫌そうに目を細める。

「実は今晩使う調味料切らしちゃって、お使い頼める? 海斗君を送るついでに」

「……わかった」

 冬野は仕方なさそうに顔をムッと膨らませて、調味料が書かれた紙とお金を受け取った。

「お邪魔しました」

 俺も冬野の母親に一言挨拶し、冬野と一緒に人通りの少ない住宅街の広い路地を歩いた。

 その道をいつも自転車で来ている俺は、自転車を押しながら冬野と並行している。

 今でも浮かない顔をしている涼花に、俺はさりげなく声をかけてみた。

「調子でも悪い? さっきも不安そうな顔してたし、今だって……」

 暫く冬野は黙っていたが、深呼吸を一つ入れて愁いを帯びた笑みを浮かべた。

「分かっちゃいますか。それくらい長く一緒だったってことですかね」

「何か嫌なことでもあったの?」

「嫌なことはないんです。ただ、不安になったというか」

 やはり数学以外に実績がない俺が、他の教科を教えるとなると不安になるのは無理はない。

 それを素直に「嫌」とは言わず、「焦り」や「不安」とオブラートに包んだ言葉で伝えたというところか……。

 そうとなれば、言えることは一つしかない。

「俺……頑張るから」

 歩いている冬野の横で、俺はか細く呟く。

「……え?」

「俺、初めてだけど頑張るから。涼花の満足がいくように頑張るから」

 そして、自分なりの表現で思いを伝えようと顔を近づけ、笑うことも瞬きすることなく冬野の顔をじっと見つめた。

 すると、冬野は肩を縮ませ、恥ずかしそうに左腕の関節を右手で抑える。

「私だって……初めてですよ」

 赤く染まり、緩んだ顔が横に流れる。

「分からないことは、いつでも訊いてくれていいから」

「分からないことですか。そうですね……」

 涼花は口を伏せて考える。

 こちらを一瞥しながら、考える涼花を俺は目を離さずにずっと見ていた。

「かっこいい男の子にじっと見つめられた後、女の子はどうすればいいですか?」

 奇抜な質問だった。

 登場人物の心情を答えよ、といった現代文の類の問題だろうか。

 一旦冬野から目を反らし、思考を張り巡らせてみる。

 こういうのは本文を読まないと、答えるのは難しい。

「とりあえず、相手の気持ちになってみる……としか今は言えない」

「相手の気持ち……」

 涼花はまた考え込む。

 しばらくして答えが出たのか、誰もいない住宅街の路地で冬野は、おもむろに目を閉じて顔を斜め上に上げた。

「……何してるの?」

「相手の気持ちになって見ました。合っているでしょうか?」

 何を考えたらその行動に至るのか不思議でならなかったが、俺は冷静になって返答する。

「答えを見ないことには何とも……」

「何で海斗君の気持ちなのに、答えを見なければ分からないんですか?」

 目を開いた冬野が、不思議そうに眼をぱちくりとさせる。

「それ……俺の気持ち?」

 俺たちは根本から、間違っていたらしい。

 お互いに誤解しながら会話が続いていたことに、冬野はクスクスと笑いながら再び歩みを進める。

「海斗君の教え方に不安なんてありえませんよ~」

「でも、今まで数学ぐらいしか教えたことなかったから、他の教科だと経験不足で満足に教えられないかもしれない」

「それなら私を利用して、経験を積めばいいじゃないですか」

「お金貰ってる人を利用するなんて……」

「そもそも勉強って教える人と教わる人、両方が向き合ってちゃんと学べるとものだと思うのですよ。海斗君が必死に教えても私がやらなければ身に付かないし、海斗君が教えてくれなければ、無知な私は何もできなくなるでしょう? 大切なのは相手を信じることだと私は信じます」

 俺の前を歩く冬野は後ろ手を組んで、そう話す。

 なんだか、俺の方が答えを貰っているようだ。

「そう……かな……」

 励ましのような言葉を貰ったのに、俺は自信を持てず視線を落としてそう零した。

「数学を教えている時の海斗君はいつも真剣で、どうやったら私が理解してくれるかずっと考えてくれてたじゃないですか。だから、海斗君の期待に応えたいって私も頑張れたんですよ」

 冬野は後ろを振り返り、安心させるようにいつもの無邪気な笑顔を俺に見せた。

 ――最近感じることがある。

 時間を重ねるごとに彼女は笑うことが多くなって、その笑顔を見るたびにつくづく俺なんかとは釣り合わないなんて思うようになっている。

 今思うと学校で関わることを否定したのは、その影響が大きかったからだと思う。

 でも、それと同時に今この瞬間だけは、許されたような気がして……。

 束縛された気持ちが解けて、一人の時間に戻ると「勘違いするな」という残響が固く結び直す。

 流れ星のようにほんの一瞬だけど、今だけは根拠の無い自信が持てる気がした。

「それに、海斗君の初めてに私がいられるのなら、こんなに嬉しいことはないです」

 冬野は頬を赤らめ、上目遣いで俺を見つめた。

「俺も初めてが冬野なら、上手くやれそうな気がしてきた」

 すると、冬野の頬だけに染まっていた赤色が顔中に広がり、視線も前に戻っていた。

「じ、実は勉強とは別にお願いがあるんですよ」

「何?」

「こ、これからは下の名前で呼んでくれませんか? そ、その……私だけだと一方的に聞こえるので……そ、それにお母さんも冬野なので区別しやすいと思うんですよ!」

 後半から早口になって焦っていることに気づいたのか、喋り終えるとしおれた花のように頭を垂らす。

「確かにそうだね。その考え方は無かった」

「そ、それでどうなんですか?」

「分かった。これからはそうするよ」

 すると、しおれていた花は光を得て光合成し、笑顔の花を満開に咲かせてみせた。

 やっぱりこの瞬間だけは、目を反らすことも瞬きすることも出来なかった。

 それからの俺たちは漫画の話で盛り上がり、瞬く間に別れの時間となってしまった。

「それじゃあ、俺はこっちだから」

「ええ、また明日です。海斗君」

「また明日……涼花」

 後ろ歩きで大きく手を振る涼花に対し、俺は右手を添えて涼花を見送った。

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