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大日本帝国海軍鉄道隊

作者: 山口多聞

架空戦記創作大会2024秋 お題➂で参加いたします。

 日本陸軍が鉄道連隊を数多く編成し、主として大陸の戦場での鉄道の復旧作業や、その運行を行ったことは、つとに有名な話である。その遺物もそれなりに残り、千葉県習志野に存在した演習用線路が、戦後私鉄路線の敷地として活用されたのも、鉄道ファンの間ではよく知られている話だ。


 では日本海軍はどうであったか?日本海軍でも軍港や工廠内に小規模な専用線を敷設し、物資や人員の輸送に用いていたことは知られているが、これは主として本土の、それも後方での話である。


 しかしながら、日本海軍が戦場でも鉄道の有効利用を企てていたことは、あまり知られていない。


 ここに1枚の写真がある。写っているのは海岸にビーチング間近の日本が誇る上陸用舟艇、その中でも特に大型の特大発と呼ばれる艇だ。そしてこの写真に写る特大発には、明らかに小型の蒸気機関車が写り込んでいる。


 さらに、別の写真には同じく海岸へ揚陸するタイプの輸送艦である二等輸送艦の艦首から艦内に掛けて、2本のレールが伸びて、その奥に貨車や客車と思しき車両が載せられている姿が写っている。


 これらの写真はごく最近になり、元海軍鉄道隊に所属していた技術将校、ならびに当時の鉄道省(運輸通信省)の元技師の遺品から発掘されたものだ。


 この写真と共に手記や、わずかながらではあるが図面などの技術資料が見つかったことで、海軍が鉄道隊を編成し、最前線に於いて鉄道利用を企てたことが明白となった。

 

 では、海軍鉄道隊は戦場に置いて鉄道をどのように利用しようとしたのか?


 残された資料から、その運用思想は同じ鉄道を扱った陸軍の鉄道連隊とは、全く違うものであったことが窺える。


 1941年に勃発し、1945年に終結した太平洋戦争は、日米による島嶼の奪い合いとなった戦いでもあり、特にそうした島々に設ける飛行場の熾烈な設営競争が起きている。


 この飛行場建設に当たり、米軍がシービーズと言う工兵部隊を組織し、南方の島々のジャングルに、短期間での飛行場設営に貢献したことは有名である。そして、そのシービーズを支えたのは、同国で進んでいたモータリ―ゼーションによって裏打ちされた土木機械群であった。


 一方対する日本海軍でも、海軍設営隊という最前線に置いて飛行場建設を行う部隊が組織されてはいた。しかしながら、当時の日本の国力や機械化の進捗状況と連動する形で、その装備はシービーズとは比べ物にならない程にお粗末であった。特に、機械化の度合は致命的なまでに開いており、その遅れを人力に頼らなければならないというのが、実情であった。


 もちろん、こうした現実を放置するほど日本海軍も愚かではなく、当時は均土機と呼ばれたブルドーザーをはじめとする建設機械の設計、製造をメーカーに依頼するなど、機械化を試みてはいた。しかし、下地となる工業力や自動車メーカーの実力が伴っていないのだから、上手く進むはずもなかった。


 戦前の日本でも自動車工業は、あるにはあったが、それは脆弱で勃興期レベルを抜けられていなかったのだ。


 これでは本土の実験部隊ならともかく、とても最前線の部隊の機械化を見込める状況には、なかった。


 そこで代わって海軍が目を付けたのが、導入から既に70年近く経過し、技術的にも様々な生産基盤も成熟している鉄道であった。


 この時代、建設現場に簡易な軌道を敷設し、トロッコを用いて土砂や資材の運搬を行うのは当たり前のことであり、また前述のように陸軍では鉄道連隊を編成して、大陸の最前線での輸送に活用していた。


 海軍が考えたのは、揚陸地点から飛行場の建設地までに簡易な軌道を敷設し、物資や人員の輸送に充てようというものだった。


 こうして昭和15年10月、海軍内に将来の島嶼戦における飛行場建設の部隊として、海軍鉄道部隊が創設された。


 ただし、一から部隊や資機材、さらには人材を用意していては、来るべき対米英戦争に間に合わない。このため、陸軍の鉄道連隊はオリジナルの車両やレールと言った部品を用意していたが、海軍はその多くを徴用に頼ることとなった。


 目を付けたのは、全国に点在する軽便鉄道だ。特に軌間762mm規格の鉄道は全国に森林開発を目的とした森林鉄道から、電気を使用した旅客営業も営む地方鉄道まで、多くの会社が存在した。それはすなわち、車両もそれらを運用できる人材にも事欠かないことを意味していた。


 早速海軍は、全国の軽便鉄道会社にレール、機関車、貨車、人員を差し出させるために、調査を開始した。


 さすがに全国に多数の軽便鉄道があるだけに、海軍はめぼしい車両や資材を次々と抑えた。特に貨車は有蓋車に無蓋車、果ては森林鉄道の木材運搬用貨車や、高級士官乗車用の貴賓車までもが徴用された。


 これらは飛行場建設の資機材、さらに完成後は航空機燃料や弾薬などの資材輸送に有望と見られたわけだ。逆に、客車は先述した貴賓車を除くと貨車で代用できる見込みとされて、あまり徴用対象とならなかった。このあたり、海軍内の身分格差が見て取れる。


 さて、ここで海軍関係者を悩ませたのが、機関車であった。この当時の鉄道、特に軽便鉄道の動力車で中心をなしていたのは、蒸気機関車であった。これは軽便鉄道に限らず、普通鉄道でもそうであり、陸軍の鉄道連隊でも蒸気機関車を使用していた。


 しかし、蒸気機関車は石炭を焚く煤煙が出ることに加えて、その燃料の石炭を新たに輸送する手段を確保しなければならない。また機関車自体の重量も嵩む。本土周辺での試験では蒸気機関車も使用されたが、その結果としては「最前線ではとても使えたもんじゃない」という評価になってしまった。


 ただし「最前線では」ということは、逆に「最前線でなければ」ということを意味するので、結局海軍が徴用した軽便規格のSLたちは、その後沖縄や先島諸島、小笠原といった比較的本土に近い島嶼や、本土での飛行場建設に駆り出されることとなる。


 話を戻して、では最前線での動力車をどうするか?に戻る。


 戦後日本国内では爆発的にディーゼル機関車が普及するが、戦前の時点では日本国内における鉄道動力としてのディーゼルエンジンは、まだ実用化前で、比較的よく使われていたのはガソリンエンジンを搭載した所謂ガソリンカーであった。


 ガソリンカーは文字通りガソリンで動くので、ディーゼルエンジン程の力強さはないし、また万が一の際の被害が大きくなる。現に1940年に発生した大阪の西成線におけるガソリンカーの脱線転覆事故では、漏れだしたガソリンに引火、炎上したことによって1両で180名近い死者を出している。


 一方でガソリン機関ならば航空機用燃料と共用できるというメリットがあり、また即席機関車を作るのにも便利だ。自動車のエンジンを流用した動力車を作れば良いからだ。場合によっては、陸軍と同じく自動車に鉄輪を付けて代用機関車にする手もある。牽引力は落ちるが、とにかく簡単に作れる。


 こうして、帝国海軍では最前線の鉄道部隊用にガソリン式の機関車を製作した。海軍内でガソリンカーと呼称されることになる車両である。


 トラックのエンジンを流用し、戦場での消耗を考え運転台はむき出しとなり、雨風は天幕で凌ぐという思い切った設計となっていた。


 太平洋戦争開戦が現実味を急速に帯びていた昭和16年10月、第一海軍鉄道隊が編制を完結した。総兵力1000名、装備車両はガソリンカー6両に蒸気機関車(予備)4両、軌陸車4両、各種貨車32両に客車(高級指揮官の移動用)4両で、これに線路、枕木をはじめとする資機材が加わる。


 なお、鉄道隊はあくまで鉄道の敷設から運行を行う部隊なので、この鉄道隊によって運ばれる飛行場設営隊はまた別に編成されている。


 また兵力1000名とあるが、正規の海軍将兵は現役・予備役含めて1割程度で、ほとんどは徴用の軍属が充てられ、これも設営隊と似たものであった。ただし鉄道の建設と運行は特技であるため、戦争が激化して身分保障を求める声が高まると、海軍では彼らに機関科下士官や兵としての身分を与えることになる。


 そして、この鉄道隊を戦地に送り込む艦艇の建造も始まった。


 海軍の計画では、大発と同じく海岸に接岸(ビーチング)して、仮説の軌道を敷設し、鉄道連絡船の様に艦内に敷設したレールを接続、列車をそのまま一気に送り込むというものであった。


 そこで、艦首にランプドアを設置した専用の輸送艦の建造が進められた。この輸送艦は鉄道隊向けと、通常輸送用の2種類の建造が進められたが、基本的な違いは艦内格納庫の床にレールが敷設されているかと、艦内でも動力車への整備作業が出来るように、多少なりとスペースを確保したくらいである。


 この手の艦種は、既に陸軍がSS艇として先行建造しており、海軍もそれに倣う形となったが、そこはさすがに海軍。陸軍のSS艇よりも量産に適しつつ、また他の海軍艦艇との機関部の共用化等が行われた。


 ちなみに輸送艦の建造自体は、鉄道隊の動きに間に合うようにと、昭和14年に開始され、1番艦が昭和15年に起工し、竣工は昭和16年10月と言うタイミングであった。なお、のちに一等輸送艦が建造されたことで、このタイプの輸送艦は二等輸送艦と呼ばれることとなる。


 そのため、開戦から半年近く行われた南方資源地帯攻略戦の最中は、艦も部隊も運用研究中であり、実戦参加の機会を得られなかった。


 そして昭和17年8月から始まったガダルカナルの戦いをはじめとするソロモン諸島の戦いは、まさに鉄道部隊にうってつけの戦場であった。しかし、ここでも実戦参加の機会は得られなかった。


 原因は、同部隊を動かすべき海軍上層部が、投入時期を逸してしまったことである。すなわち、その投入場所や時期を計画するうちに、肝心のソロモン諸島を巡る戦況が激変してしまい、投入予定地が二転三転してしまったのである。


 さらに昭和17年10月時点で、肝心の輸送艦の建造実績が線路敷設型2隻と、通常型2隻ずつに過ぎず、オマケと来て高速輸送艦が早急に求められたことで、本来であれば兵員や物資輸送用に使われる通常型2隻が鉄道部隊から召し上げられ、輸送手段を欠くことになってしまった。


 この輸送艦艇の不足が、鉄道部隊が実戦投入されない主たる要因となった。


 線路敷設型の輸送艦こそ4隻が揃い、その後比較的近距離の輸送に利用されたが、それ以外の輸送艦艇が揃わず、一行に当初計画された前線における飛行場建設に投入できる環境が整わなかった。


 それどころか、本来は鉄道隊とペアを組むべき設営隊だけが別に戦地へと派遣されてしまい、鉄道隊だけが本土に取り残されてしまった。


 このため、やむなく本土における飛行場建設や海軍基地の拡張工事などに駆り出されることとなったが、それは以前から国内の土木現場で見られたトロッコなどの利用の延長線上に過ぎず、まったく当初の設立目的から外れたものであった。


 おまけに、こうした消極的な活動は、必然的に鉄道隊の存在を希薄なものとしてしまった。


 結局最前線への投入がなされぬまま、戦局の悪化によって鉄道隊を輸送する予定であった線路敷設型の輸送艦は、艦内の線路を引っぺがして、通常の二等輸送艦と同様に運用された。そして、そのすべてが過酷な輸送任務中に受けた航空攻撃や潜水艦の雷撃によって喪われてしまった。


 残された鉄道部隊はと言えば、その後本土の飛行場や基地施設の拡張が推進されたゆえに、終戦まで日本全国で馬車馬の如く働かされることとなった。


 皮肉なこととなるが、昭和20年8月の終戦に至るまで、その活動のほとんどを日本本土で行ったゆえに、鉄道隊の戦死者は末期の空襲での数名と言う、他の部隊に比べて異様なほどに少ないものとなった。


 唯一、沖縄に派遣された部隊は、軽便規格の県営鉄道から引き込み線を敷くなどして、沖縄本島内の飛行場建設に活躍したが、これも昭和19年10月10日の所謂十・十空襲後、飛行場建設が実質的に無意味となり、装備の多くを現地に残して翌年2月までに本土へ撤退した。この部隊にしても、装備のほとんどを喪失こそしたが、沖縄との往復時なども含めて、戦死者は奇跡的にほとんど出なかった。


 そして、終戦となるや部隊を構成する車両の多くは元の鉄道会社に返還されるか払い下げられ、所属した隊員たちもそのほとんどが本土に駐屯していたこともあり、短期間のうちに復員した。また部隊に関する書類の多くは、他の部隊同様終戦時に焼却されて燃え尽きた。


 公式記録が大きく欠落したことに加えて、華々しい戦果を挙げたわけでもない。加えて、復員した隊員の多くは鉄道会社に復帰すると、戦時中の酷使で疲弊した鉄道設備の復旧と、その後の復興期の中での輸送にまい進したこともあり、海軍鉄道隊に関して語る者はほとんどなく、その存在は長く歴史の中に埋もれてしまった。


 同部隊の存在が、クローズアップされたのは、平成末期のことである。元海軍鉄道隊に所属していた技術将校、ならびに当時の鉄道省(運輸通信省)の元技師の遺品が、ほぼ同時期に発見されて、その資料が日本を代表する鉄道博物館に寄贈されたことによる。


 鉄道隊に徴用された車両に関しては、いずれも研究家たちによって、戦時中海軍に徴用されたという記録は以前から判明していたが、徴用中の詳細な運用内容まではわかっていなかった。


 これら資料によって徴用された軽便車両たちが海軍鉄道隊と言う、海軍独自の部隊に集められ、運用されたことが判明したのだ。


 海軍鉄道部隊への評価は、その詳細が最近になって判明したこともあり、まだ定まってはいない。当初の目的を全く達しえなかったことから、無駄な資金と労力の投入に過ぎなかったと言う者もいれば、部隊の編成と輸送艦の建造がもう少し早かったならば、充分に活躍できたと言う者もいる。


 ただこれだけは、間違いない。


 あくまで結果論ではあるが、海軍鉄道隊に徴用された結果、過酷な最前線行きを免れ、戦後いち早く鉄道職員として復帰し戦後復興に役立った多数の命があったということを。


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調べたら海軍に鉄道部隊こそなかったけど、基地や工廠で蒸気ディーゼルガソリンと色んな機関車を使ってたんですね。また無駄知識が増えました!ありがとうございます! せっかく部隊が出来たのに歴史に何も影響を…
ビーチングした揚陸艇から機関車というのが面白いしみたことがないですね。海軍の鉄道部隊というのが物珍しい設定です。 新規編成で既に各鎮守府に敷かれていた鉄道からの流用でないのも新鮮さがありますね。 戦…
市販されている架空戦記では、林譲治先生のに前線の島での軽便鉄道がよく出てきますが、海軍所属の鉄道部隊という発想はありませんでした。
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