第75話 取引相手の笑顔
ウェス・アドニスを出て、ウェサ・クヴァレまで戻り。
翌朝、馬車から荷馬車に乗り換えてティブロン村を目指す中、私はステラからの手紙を読み返していました。
手紙の他にも、昔レイチェル様から頂いた軟体生物の図鑑、ステラから貰った貝殻のネックレス――メルカトール邸の私の部屋にあった物をお父様達の承諾を得て頂いたのです。
私の物を全て大切に取っておいてくれたお父様と兄様には、本当に頭が上がりません。
「……ステラ嬢、昔自分の書いた物をよくそんなにじっくり読み返せますね」
私の向かい側で、新聞を読み終えたらしいライゼル卿が苦笑いしています。
「あら……こうしてかつての自分の手紙を読み返していると、その時の自分の気持ちが蘇ってきませんか?」
「……私はかつての自分の字の汚さや文面の拙さに対する恥ずかしさの方が勝りますね」
確かに、自分が書いた物であればそういう気恥しさを感じたかも知れません。
ふふ、と軽く愛想笑いで濁した後、
「……新聞を読み終えられたのなら、お借りしてもよろしいですか?」
「どうぞ。アドニス家は大体収まる所に収まりそうですよ」
手紙をいったん仕舞い、ライゼル卿から受け取った新聞に目を通します。
彼の言う通り、今朝の新聞の一面にはアドニス家の顛末が書かれていました。
コンラッド様が自らアドニス家を出る事を望み、マイシャ共々子に一切関わらない事を条件にアドニス伯から男爵位と新たな家名を賜ったと――
「……アドニス伯はまだコンラッド様を見限っていないようですね」
新聞に新たな家名を載せていないのは、広まれば迫害と嘲笑の対象になりかねないと判断したからでしょう。
家を出た者がどうなろうと知った事ではない、とお考えならわざわざ圧をかけて家名を伏せさせる必要は無いですから。
何より、今の状況で彼に爵位を与えれば公爵の不快を買いかねません。
それでも、そうしたのは――
「親というものは、どうしても子に甘くなりがちですからね……私も親には随分と我儘を聞いてもらったものです」
「……そうですね、親はどうしても……甘くなってしまうようです」
ライゼル卿の言葉に心から同意します。
アドニス伯だけに限らず、伯父様やお父様、公爵――彼らだけでなく、これまで出会ってきた親の大半が子どもに甘い印象があります。
父親の場合、特に娘に甘い傾向がある――と思いながら目を通していると、オイフェ様とメイファ様についてはアドニス伯が養子に迎える事が書かれていました。
年端もいかない幼い子ども達に被害が及ばず、ホッとしましたが――親と子どもが引き離された事については心がチクリと痛みました。
ただ、子ども達の未来を想えば、これが最善の方法だという事も分かります。
コンラッド様もマイシャも、もう社会的に死んだも同然です。
かつての私と種類は違えども、けして拭えぬ汚名と不名誉を被る事になってしまった。
そんな親に育てられるより、手厚い保護と教育を受けて育つ方が未来は開ける。
これもまた、アドニス伯と、コンラッド様達の、それぞれ親としての判断でしょう。
それでも、いつか――私が自分の過ちを悔いて立ち上がったように、あの二人も自分の過ちを悔いて立ち上がってくれる事を願います。
社会的には一切の価値を失くしてしまっても、命を奪われた訳ではないのですから。
新聞を一通り読み終えてライゼル卿に返すと、彼は笑顔で受け取りました。
「ライゼル卿……何か、良い事があったのですか?」
彼はメルカトール邸に戻って来てから今朝の新聞を読むまで、ずっと真顔でした。
焦っているような、苛立っているような、そんな話しかけるのを躊躇してしまう程のオーラがすっかり消えているのが気になって問いかけると、
「良い事……というより、悪い事が起きなかっただけです。ただ、今はそれが何より嬉しい」
愛想笑いとは思えないほど穏やかで優しい笑顔と共に、安堵の言葉が返ってきます。
悪い事――この新聞を読んで悪い事が起きなかったと思えるなら、それはきっとマイシャの事でしょう。
「……ライゼル様、マイシャ様の事は」
「私は自分がやれるだけの事をしました。それで振り向いてもらえなかったのです。悔いはありませんよ」
清々しい笑顔を向けてくるライゼル卿を見る限り、私がメルカトール邸でコンラッド様と話している間に彼がアドニス邸でマイシャと話していたのは間違いないでしょう。
マイシャとどんなやりとりをしたのか、どんな様子だったのか、聞きたい気持ちもありますが――そこまで聞くのは野暮でしょう。
改めてステラの手紙に手を伸ばすと、ライゼル卿は幌を見上げてポツリと呟きました。
「ただ、あの方が人を愛したら……きっと誰より美しく、苛烈に輝いたでしょう。私はそんな彼女を見てみたかった。システィナ様の誘拐事件さえなければ……そう思ってしまうのが悔いと言えば悔い、かも知れませんね」
コンラッド様の婚約者変更の打診を受けた際、お父様はマイシャを止めたそうです。
マイシャがその制止を受け入れていれば、ライゼル卿が望む未来もあったのかもしれません。
もし、そうなっていたら――
「……《《ウェス・ティブロン》》に戻ったら忙しくなりそうですね?」
「え、ええ……恐れ多い事に都市扱いにして頂いたので……これからはラリマー領の都市の名に恥じないよう一層、村の発展に力を入れていかなくては……」
ライゼル卿が話題を変えたのに従い、私もありえたかもしれない未来に想いを馳せるのはやめて、現実に目を向けます。
まずは海真珠の独占権の引き換えに頂いた、都市領主の立場と、伯爵位をどうするか――
伯父様が伯爵という地位に気後れしてしまうのは目に見えていますし、伯父様には治癒師兼相談役兼村の取りまとめ役として頑張って頂くとして、私が女伯爵になるしかないでしょう。
商談を誰かに任せるのはまだまだ難しいでしょうが、帳簿付けはヨヨや他に計算が得意な子達にも教えて――適性のある子には治癒の魔法も教えれば、私や伯父様の負担も大分軽減されるはず――
「ところで……あの魔獣使いはいつ帰ってくるのです?」
顔を上げると、ライゼル卿は一層ニコニコ――ニヤニヤした顔で私を見ていました。
「ローゾフィアで必ず家族を説得して戻って来ると言っていましたが……いつ帰って来るかは分かりません」
「そうですか……結婚式には是非呼んでください。彼にはスミフラシのタキシードを、貴方にはシアークヴァレのヴェールをそれぞれプレゼントしますよ」
昨日オルカ邸に戻った時には既に<レイチェル公女お気に入り>のドレスやショールが欲しい、とラリマー領の貴族達から注文がたくさん来ていたようです。
タキシードとヴェール、それぞれかなり値の張る物を提供してくれるのは彼なりの感謝の気持ちなのでしょう。
それ自体はありがたく受け取りたいと思いますが――それとは別に、今の発言、物凄く引っかかるものがあります。
「ライゼル卿、ひょっとして……リュカさんが私の事を好きだって気づいてました?」
「気づくも何も、あからさまじゃないですか」
「な……何故教えてくれなかったのです!?」
あっさり答えるライゼル卿に思わず声を荒げると、
「ははは、そんな無粋な事はしませんよ! 私が彼に協力する義理もありませんし! マイシャ夫人に恋焦がれる私を可哀想な目で見る貴方も、私と同じように恋に苦しめばいいと思ってましたから!」
「ライゼル卿……私の事嫌ってます?」
私の反応が余程面白かったのでしょう。高笑いするライゼル卿に前々から感じていた事を聞いてみると、
「嫌いではないですよ。性格が合わないと思ってるだけで仕事上のパートナーとしては信頼していますし、貴方が幸せになる事を心から祈ってます。貴方に似合う朱色のドレスも友情価格で受け承りますよ」
「……本当に、商売上手な方」
性格が合わない相手との会話でも、ちゃっかり商売に結び付けてくるこの商人魂は見習わないといけません。
「えっ、何々ー!? 師匠、やーっと先生に告白したのかー!?」
私達の荷馬車の前方――荷物持ち兼御者見習いとして御者の隣に座っているイチルの声が荷物の向こうから聞こえてきます。
「イチルまで……! 教えてくれれば良かったのに……!」
「いや、先生……授業始まった頃、ニアが言ってたじゃん! 師匠は先生の事好きだと思うって! でもその後、先生、アーティ様といい感じになってたから、先生がアーティ様が好きなら……って皆騒ぐの止めたんだよ!」
「うっ……」
それを言われると、返す言葉がありません。ライゼル卿は意地悪で黙っていたみたいですが、子ども達は完全に善意ですから。
「先生ってさ、賢い癖に男心って奴を分かってないよなー! 好きな女の為でもなきゃ普通あそこまで働かないって!」
「ですね……賃金を一切貰えないのに雪かきや雑用をこなし、命の危険もある行商の護衛兼荷物持ちまで文句言わずにこなす……そして「何か心配だから」という理由であんな所までやってきて、激昂している公爵に一緒に立ち向かう……あれほど相手に尽くす献身的な愛、私は見た事が無い」
「あ、俺それ知ってる! ニアやヨヨが憧れてる、溺れるくらい凄い愛……溺愛って奴だ! 先生、師匠の愛についに溺れたんだ!」
「イチル、大人をからかわないの……!」
リュカさんがパーティーに来たのは、私がシスティナだと知って――元婚約者や妹と会うのが心配でいても立ってもいられなくなったから、なのですがそれをそのまま言えるはずもなく。
ライゼル卿には『リュカさん、私の事が何か心配だったそうです』と濁した結果、こんな風にからかわれる羽目になってしまいました。
「いやでも、3年かぁ……村帰ったら皆喜ぶだろうなぁ……!」
私達のやりとりが聞こえたのでしょう。
私達が乗る荷馬車の後に続く荷馬車の御者の隣に座っているサンチェの嬉しそうな声も聞こえてきます。
くつくつ笑うライゼル卿は本当に、性格合わない人間《私》が顔を赤くしてあわあわしているのが楽しいようで。
ずっと真顔で塞ぎ込まれるよりはいい、のですが――
(村でもこんな風にからかわれてしまうのでしょうか……)
皆、と言っている以上、村の皆が知っているのでしょう。
私だけ、リュカさんの片想いの言葉を誤解して――赤系統の人は他人の為に動く人が多いなんて知識もあったばかりに、彼が私に向ける感情に気づかなかった。
本当に――私は相当鈍感だったようです。
ステラの手紙を読み返せる程冷静にもなれず、ライゼル卿やイチルと視線も合わせるのも恥ずかしく。
ひたすら外の景色を眺めていると、涼やかな風が頬を撫でて。その心地よさに浸っているうちにふと、見覚えのある景色が重なりました。
(この辺り、行商の時によく野宿していた場所……)
リュカさんと、彼が大切にしている魔獣達と、子ども達と一緒に歩いた懐かしい日々。
遠ざかっていくその場所も、これから向かう場所にも、たくさん想い出がある。
(……守りたい)
大切な想い出も、村も、村の人達も。全て守りたい。
それは私と、ステラの――二人の願い。
村を発展させていけばいくほど、領主という立場の責任は重くなります。
何処まで発展させるか、何処まで他所の人間を受け入れるか――村人達の安寧を守りつつ、健やかな生活を維持し続けるのは並大抵の事ではありません。
コンラッド様を支える為に、ウェス・アドニスを支える為に学んでいた政治や統治の知識が何処まで役に立ってくれるか分かりませんが、それでも――
(皆で力を合わせれば、きっと、大丈夫)
まだフカワニサメの問題も残っていますし、これから色んな問題にぶつかるでしょう。
ティブロン村には、素敵な人達がたくさんいます。リュカさんもいつか必ず戻って来てくれる。
だから――私は私が出来る事を精一杯頑張りましょう。
3節ぶりのティブロン村は、入り口の方は私が出て行った頃と変わっていないようで。
荷馬車から降りて背筋を伸ばしていると、荷馬車に気づいた村人達が村の中から出てきました。
「ステラちゃん、おかえり!」
「先生!! イチル!! 来て来て!!」
「お兄ちゃんも来るのー! ライゼル様もー!」
集まる村人達の中からバタバタと駆け寄って来たニアとヨヨは私達の手を強く引っ張りました。
「ど、どうしたの、何かあったの!?」
「着いたら分かるよ! 大丈夫、良い事だから!」
「ニア達がすごい事したのー!」
二人が驚かせたいのが伝わってくるのでそれ以上聞かず、大人しく手を引かれていると、灯台の方に連れて行かれました。
そこで、久しぶりに一面の海が見えた時――驚くような光景が広がっていました。
岩場に、いっぱいの青毛玉――青ペンギンが犇めいていたのです。




