第74話 価値を失くした夫人(※マイシャ視点)
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
ただ、ゴトンと鈍い音を立てて落ちた燭台。そこに滴る血。
オイフェを抱えてその場にしゃがみ込んだお義父様と、泣き叫ぶオイフェの声。
最初はオイフェに当たってしまったのかと思った。
「ごっ……ごめんなさい! オイフェ、大丈……」
我に返って、一気に血の気が引いて――慌てて二人に駆け寄ると、何かが頬に当たった。
「ママきらい!!」
オイフェが床に落ちた、花瓶の破片を拾い上げてわたしに投げつけて来た。
「きらい!! やだ!! ジジいじめるのやだ!!」
(何……何で、わたし、オイフェに物を投げつけられてるの?)
頭が真っ白で、服に、顔に、破片を投げつけられる中、止める事も出来ずに呆然としていると、
「やめなさい、オイフェ……! 手を怪我してしまう!」
お義父様がオイフェを宥めると、オイフェはお義父様にしがみついた。
「ジジ、死なないで……!」
「オイフェ……ジジは大丈夫だ。ちょっと血が出ただけだ。今から治癒師に治してもらうから、安心しなさい」
お義父様は燭台が抜けて血がダラダラと零れる手を気にする事なく、再びオイフェを抱き抱えた。
そして、わたしに何を言う事もなく――ただ、酷く冷めた視線を向けた後、オイフェを連れて部屋を出て行った。
「何で……何でよ……!! 何で、オイフェまでわたしを攻撃するのよ……!!」
「……まともにオイフェ様と向き合ってなかったからですよ」
他人事のように言ってくるライゼルを睨みつける。
元はと言えばライゼルがわたしを怒らせるような事を言ったせいなのに。
「何を偉そうに……貴方にそんな風に言われる筋合い無い!! わたしはちゃんとあの子を可愛がってたわ!!」
言い返すとライゼルは哀れな人を見るような目で、わたしを見ていた。
「……毎日1時間でも2時間でも傍にいる時間を作りましたか? 世話をしてあげましたか? 遊んであげましたか?」
「それは……でも、わたしはあの子の母親よ……!? 母親にこんな物投げつけるなんて……!!」
足元にある、オイフェが投げつけて来た花瓶の破片を拾い上げる。鋭く尖った破片は指でなぞったら簡単に皮が切れてしまいそうで。
「こんなもの危ない物投げつけて来て……頬が切れたらどうしてくれるのよ……!!」
「貴方は、本当に自分の事しか考えていないのですね……母親ならば、あの方の様に危ない物を持ったオイフェ様が怪我しないように止めるべきだった」
さっきから、ライゼルの言葉一つ一つが、私の心を切り付けてくる。
言い返したらきっとまた傷つく言葉を投げつけられる。
もう何も言い返す気にもなれずに、ライゼルに背を向ける。
「マイシャ様……お辛いでしょうが、自分の行いを冷静に鑑みて悔い改めなければ貴方の立場は悪くなっていく一方ですよ」
ライゼルはそれだけ言うと、部屋から出て行った。
一言もわたしを慰める事なく、自分の言いたい事だけ言って去っていた。
一人ぼっちになってしまった部屋で、ベッドに腰かける。
手あたり次第物を投げつけたい気持ちも、泣き叫びたい気持ちも、不思議なくらい消え失せてしまった。
そうしたところで、誰もわたしを助けてくれない。私を馬鹿にするかお説教するだけ。
あれだけ色んな物が壊れる音が響いたのに、こんなに本や、花瓶や小物の欠片で散らかっているのに誰も入って来ない。
きっとお義父様が「入るな」って言ってるんだろう。
戻って来てから初めてお義父様と会ったけど、もう私が必要とされていない事が分かる。
お父様より、ライゼルよりずっと冷たい――他人の視線。
お義父様に見限られた。ライゼルは出て行った。コンラッド様も来ない。
お父様も、兄様も来てくれない。よく話し相手になってくれたメイドも来ない。
お茶会を過ごした友人達からの手紙もない。
わたしがどれだけ泣いた所で、誰も手を差し伸べてくれない。
お姉様にはお見舞いの品や手紙が送られていたのに。
(……やっぱりわたし、お姉様の事が嫌いだわ)
だって、あれだけのお見舞いの品にも手紙にも目もくれずにただ横たわって一日を過ごして。
お姉様には価値を失くしても励まそうとしてくれる人達がたくさんいたのに、見向きもしないで勝手に死んじゃうんだもの。
(……わたしが死んだら、葬儀にはどれだけの人が集まってくれるかしら)
好きな男をわたしに取られた程度で死んだお姉様。
価値を失ったからって、思い通りの自分じゃなくなったからって死んだお姉様。
わたしだったら絶対にそんな事しない――そんな風に考えた事もあったけれど。
(……価値を失くして、思い通りの自分じゃなくなるってすごく辛い事なのね)
今なら、姉様の気持ちが分かる。
姉様はわたしの気持ちなんて最後まで分からなかっただろうけど。
(……何で、こんな事になってしまったのかしら?)
薄暗い部屋の中、今のわたしを馬鹿にしてるかのようにうるさい雨音はまだまだ止みそうにない。
ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見上げる。
(わたし……わたし以上に美しい人が現れた事が許せなかった)
それが姉様によく似ているから、なおさら――いえ、姉様だったらまだ許せた。
だって姉様は幼い時から美しくて賢くて、すごく悔しいけど負けるのも仕方がないって気持ちもあった。
でもあの女は、口の中は真っ青で、舌はまだらで、生臭くて――そんな女に負けるのが物凄く悔しかった。
あの気持ち悪い生き物の体液で染められた青のドレスに負けたのが悔しかった。
子どもの時にあの女が庇われたように、皆わたしを悪者にする。
わたしがあの女のせいで辛い思いをしている事、分かってもらえなくなる。
恐かった。あの女にまた自分の立場が奪われる気がした。
だって、コンラッド様もライゼルも皆、あの女に見惚れていたから。
わたしの事を好きでいてくれる人を誰かに奪われる辛さを、姉様は知らな――
(……いいえ。姉様は知ってる。わたしが……奪ったから)
ベッドに横たわる姉様に、コンラッド様に嫁ぐと告げたのは――わたし。
わたしがコンラッド様に嫁ぐって言ったから。
家の為に、なんて言い訳して。お姉様にもそれを押し付けた。
――貴方が陰で何と言われていたかご存じですか? アドニスの毒花ですよ――
ライゼルの言葉が耳に残る。アドニスの毒花――いつからそう呼ばれていたんだろう?
――悪妻愚母の駄目駄目夫人――
そんな事、誰からも聞いてない。皆ニコニコして、わたしの話を聞きながら頷いていた。
子どもを産んでもマイシャ様は美しいとか、スタイルも変わらないの凄いとか言って。
友達だって、そんな感じ、なにも――
(でも……わたしも昔はそうだった)
表面上は笑顔で取り繕って、水面下では馬鹿な人達を馬鹿にしていた。
友達も、館のメイド達も、皆そうだった。それが普通だった。
いつから――いつからわたしは、わたしの目に見えるものが全てだと思い込んでいたんだろう?
姉様も、兄様もお父様もよく言っていた。
『人は皆、笑顔を浮かべていても水面下ではどう思われているか分からない、だからこそ無難な振る舞いを身に付けなさい』って。
時には微笑みながら、時には笑っちゃうくらい真剣な顔で、わたしに口うるさく言ってきた。
わたしだって、表面上を偽って――本心を偽って生きていたのに。
そうやってコンラッド様と結婚する事が出来たのに、何で今まで忘れてしまっていたんだろう?
家の為、姉様の為――そうやって人を欺いて、自分の思い通りに事を運んで。
コンラッド様と結婚してしばらくは、周囲によく思われようと上手く繕っていたはずなのに。
いつの間にか、妬み羨ましがられるような生活を堪能して見せびらかすようになっていた。
(甘やかされて、甘えているうちに……繕う事を忘れていた?)
お姫様のような生活をしているうちに、繕う必要も欺く必要もなくなって――都合が悪くなった時こそ知恵が働いたけれど、都合が悪くない時は何も考えずに我儘放題で楽に過ごしていた。
コンラッド様が、お義父様がわたしを甘やかすから、悪い――だなんて、自分でも情けなくて言えない。
言えた所で、誰もがわたしを笑うに決まってる。馬鹿にするに決まってる。
(それに……今更そんな事に気づいたところで、もう遅いのよ)
わたしも、お姉様と同じように価値を失ってしまった。
いえ――お姉様は価値を奪われたけれど、わたしは自ら自分の価値を貶めた。
積み上げてきた物を、自分で、崩した。
同じようで、全く違う。
何処までもわたしは姉様に勝てない。姉様によく似たあの女にも勝てなかった。
地位は圧倒的にわたしの方が上でも――わたしは暴れ馬と謗られて、あの女は公爵達に認められて。
――アドニスの毒花、悪妻愚母、辺境の村娘に負けた領主夫人、暴れ馬――
「……もう、やだ」
これ以上笑い者になるのは、汚名を被るのは絶対嫌。
お父様達の所に戻って頭を下げるのも、絶対嫌。
このままずっとここにいて、皆から冷たい目で見られるのも――絶対嫌。
それなら、もう――死ぬしかないじゃない。
わたしがすぐに楽になれる方法なんて、それしかない。
いつの間にか雨が止んで、雲の切れ間から覗く青白い星がわたしを優しく照らす。
まるでわたしの決断を後押しするかのように。
そっと窓を開ければ、涼やかな風がわたしに吹き付けて来た。
そのまま窓に足をかけて、身を乗り出す。
うっすらと照らされる窓の下は暗くて、よく見えない。
ここは3階――お姉様は2階から飛んで死んだから、きっと私も死ねる。
お姉様はわたし達を置いて死んだけど、わたしには誰もいないもの。
わたしが死んだところで、誰も悲しんでなんかくれないもの。
お姉様が許されたなら、わたしだって――
「何をしてるんだ……!!」
背後から声がして振り向いた瞬間、体がピクリとも動かなくなる。
ドアのところにコンラッド様が立っていた。
彼の手元には薄青の魔法陣――わたしの体が動かないのは多分あの魔法陣のせい。
その魔法陣を維持したまま、コンラッド様はわたしを窓から引き離した。
魔法陣が消えた瞬間、体が自由になる。
「何で……何で止めるの!? わたしに死んでほしいって思ってるくせに!!」
「思ってない!!」
「嘘!! 皆わたしに死んでほしいって思ってる!! わたしが死ねばみんな幸せになるじゃない!!」
あの女は、気に入らないわたしが死んでせいせいするでしょう?
ライゼルは、想いに応えなかったわたしが死んでスカッとするでしょう?
お父様も、兄様も、お義父様も、家に物凄く迷惑かけたわたしが死ねばホッとするでしょう?
オイフェだって、お義父様に怪我させたわたしなんて死ねばいいと思ってるんでしょう?
周りの貴族達だって、暴れ馬なんて死んでしまえばいいと思ってるんでしょう?
わたしは、そんな風に思われる世界で生きていられるほど、強くない。
「コンラッド様だって、そうでしょう? コンラッド様だってわたしが死んだ方が良いでしょう!? それで心置きなくあの女の所に……!!」
涙が零れ落ちるのも構わずに醜い言葉を言い連ねていると、温かいものに包まれた。
「マイシャ、すまなかった……本当に、すまなかった」
何が、起きてるのか分からなかった。
コンラッド様が、わたしを抱きしめてる。
(嘘――絶対嘘。コンラッド様がわたしを抱きしめるはずなんて、ない……!)
だって、コンラッド様は知ってしまったもの。わたしが姉様に酷い事言ったこと。
コンラッド様と結ばれたいって星に願った事も、言ってしまっているもの。
全部知ってしまったコンラッド様が、わたしを抱き締めるはすがない。
「こ……こんな風に抱き締めたって、いなくなれって思ってるんでしょう!? 悪者になりたくないから謝ってるだけでしょう!?」
「……違う」
「放っておいてよ、勝手に死んであげるから!! お姉様みたいに嫌味な遺書残さずに死んであげるから、もう……!!」
「駄目だ……!!」
コンラッド様の腕に一層力が籠って、頭がぐちゃぐちゃになりそうで。
「わたしが……わたしが悪かったのよ!! 全部わたしが悪かったの!! だから……死なせてよぉ……!!」
今更、自分が愚かだった事を知らしめられて。
親にも兄弟にも子どもにすら見限られて。
このまま、存在価値のない悪妻愚母の暴れ馬として生きていきたくない。
「……本当に悪かったと思うなら、死なないでくれ」
「皆私の事が嫌いなのに!? 幼い子どもにすら見限られたわたしに、これからどう生きろって言うの? ただ恥を晒して笑われながら生きろっていうの……!?」
わたしがどれだけ訴えても、コンラッド様は腕から解放してくれない。
「……私も、一緒に笑われる」
「綺麗事言っておいて、いざ笑われたら逃げる癖に……!」
抱きしめてくるコンラッド様の腕が、震えているのが分かる。
腕だけじゃなく、声も――口も。
「もう逃げない……私は君の傍にいる。一生、ずっと傍にいる……今度は、私が君の光になりたい」
わたしがコンラッド様がいない間に何をしたか、知っているはずなのに。
知らなくてもこの部屋の惨状を見れば、お説教の一つだってしたくなるはずなのに。
「……間に合って、良かった……」
コンラッド様の言葉がただただ、温かくて――ボロボロ涙が出てきて、止まらなかった。




