第73話 同じ過ちを前に・2(※コンラッド視点)
父上の部屋のドアをノックすると「入れ」と返事が返ってくる。
静かにドアを開けると、父上は丁度ベッドから身を起こす所だった。
「コンラッド……その様子だと大体の話は聞いているな?」
「はい……父上、お怪我は大丈夫ですか?」
首から吊るした三角巾に収まった右手はしっかりと包帯が巻かれており、痛々しい。
「二か月治癒を続けて、どこまで動かせるか……といった状態らしい。まったく、酷い物音がしたから駆けつけてみれば、とんでもない目に合った」
「……私が、目を離している間に……本当に申し訳ありません」
「まあ、オイフェに怪我が無くて良かった。私が庇わなければオイフェの顔に直撃しただろうからな……それを考えればこの位、大した事ではない」
燭台の蝋を差す尖った部分が突き刺さったのだ。もし父上が庇わなかったらと思うとゾッとする。
「それより、あの娘を一体どうしたものか……システィナ嬢を死なせてしまった詫びとして散々甘やかしてきたが、それが逆に彼女を付けあがらせてしまったのかもしれん……私達にも責任はあるだろう。それでもパーティーの一件と今回の件は許し難い」
包帯が巻かれた右手を眺める父上の表情は、無表情で何を考えているのか全く読めない。
だが私は、父上のこの表情こそ誰かを見限る時の顔だと知っている。
税を横領していた部下に、反乱を企てているという噂があった者に、システィナに会いに行けず彼女が身を投げた時に私に向けた顔――
ただぼんやり何かを眺めるその姿が、誰かを殺す事を決めた顔だと――私は、知っている。
父上自身はそこまで武芸が立つ人ではないが、人脈が広い。己の手を汚す事無く殺す手段をいくつも持っている。
病死に見せかけて毒を盛るのか、呪術師や暗殺者に頼んでこの館の中で始末してもらうのか――
昨日戻ってきた時、私は父上に頭を下げた。
その時父上は『2、3年大人しくしていれば噂も薄れていく。何を言われてもその間はひたすら耐えろ』と私に言ってくれた。
その時の表情は厳しい物だったが、見限る時の表情ではなかった。
(だから……父上の判断に逆らわずにいれば、私は助かるだろう)
様々な貴族の弱みを掴み、旨味を見せて懐柔して都市を発展させてきた父上の強さは、個人の強さすら中途半端な私ではかなわない。
だが――
「父上、どうか……マイシャをお許しください」
自然と言葉が零れ出ていた。
「私が……私がマイシャと子ども達を連れて家を出ます。これ以上父上の手は煩わせません」
「……お前や子ども達まで家を出るほどではあるまい。別に彼女を追い出そうとも思ってない。昨日も言ったが2、3年大人しくしていれば噂も薄れる」
間違いない――追い出すつもりはない、という事は消すつもりだ。
(どうする……?)
今なら、発言を撤回できる。しかしこのまま何もしなければマイシャは父上によって殺される。
この館に留まっても、ずっとマイシャの傍にいられる訳ではない。
この館にいる限り、マイシャは常に暗殺の危機にある。
――コンラッド様もどうか二度と、愛した人から逃げたりなさいませんよう……同じ過ちを繰り返さないよう、よろしくお願い致します――
こんな時に、システィナの言葉が過る。
(同じ、過ち……)
システィナは私のせいで価値を失った。マイシャは自業自得で価値を失った。
同じじゃない。
だが――私がシスティナを失ったのは、何もしなかったからだ。
今も――何もしなければ、マイシャを失う。
(……マイシャを、失う……)
マイシャと婚約した当初はすぐに子どもを作る気にはなれなかった。
しかし、マイシャは悪夢にうなされる私をいつも支えてくれた。
あの時の私は父上に強制的に表舞台に復帰させられ、マイシャ以外の誰もが私を愚かな者として冷ややかな目で見つめてくる。
その中でただ一人、献身的に尽くしてくれる彼女に甘えて、溺れてしまった。
早かった、とは思っている。その事を反省しても、後悔はできない。
オイフェとメイファというかけがえのない宝物が出来た。後悔できるはずがない。
パーティーで再び絶望に落とされる前まで、私は確かに幸せだった。それはマイシャが支えてくれたからだ。それは間違いない。
頭で何を考えていようとも、私を欺いていようとも。
あの時の彼女は、いや、数日前までの彼女は――確かに私に光をもたらしてくれていた。
――コンラッド様……私達にはマイシャを救う事は出来ません。マイシャを救えるのは貴方しかいないのです――
ここから逃げたら、私は本当に、救いようのない愚者になり果てる。
「コンラッド……お前を再び領主にする事は出来んが、ほとぼりが冷めた頃にそれなりの立場を与えてやる。今はとにかくこの家で耐えろ」
「いえ……この家にマイシャを残せばまたアドニス家の名誉を貶めるような事をしでかすでしょう。ですが……私は彼女を守り続けるとシスティナに、パーシヴァル卿に誓ったのです。それなのに彼女だけを追い出したら、私は……二人に顔向けできません……!」
私ももう、逃げる訳には、いかない。
とにかく父上にとって耳触りの良い言葉を紡ぎ、システィナにしたのと同じように膝をつき、深く頭を下げる。
長い沈黙が室内に漂う。汗がゆっくりと額から顎に伝った頃、父上の言葉が響いた。
「……分かった。お前とマイシャが出て行く事は認めよう。だが子ども達までお前の不幸達に付き合わせる訳にはいかん」
「それは……!」
「自分の非を認めず、手当たり次第に物を投げつける……あのような者と暮らせば、いずれ私と同じ目に合うのは目に見えている」
包帯を巻きつけられた右手を見せつけながら言われては、何の反論も出来ず。
「あの子達は私の養子にする。お前達が育てるのと、私が育てるのと……どちらがあの子達の為になるか、言わずとも分かるだろう?」
公爵は父上を認めている。だからこそパーティーを荒らされてもアドニス家そのものを潰さなかった。
アドニス家自体の名誉は落ちたが『アドニス家の崩壊を止めた男』として父上自身の株は上がっている。
『子どもと孫に甘い』という不名誉も、オイフェ達に向けられる嘲笑の視線も、父上なら何とでもできる。
衣食住に関しても何不自由ない生活をさせてもらえるだろう。
だが、私とマイシャが育てれば子ども達が蔑まれる未来が見えている。家を出た私がマイシャを抱えてどこまでやれるか、分からない。
今の私では、蔑まされる子ども達まで守る事が出来ない。
オイフェとメイファは父上に守ってもらえる。
だが――マイシャは私が守らなければ誰も守ってくれない。
「……父上の温情に、感謝致します。どうかオイフェとメイファを、お願いします。私は彼女と一からやり直し、いつかこの恩に報いたいと思います」
「一からどころかマイナスだぞ……本当にいいのか?」
「はい。……父上、何処までも不出来な息子で申し訳ありません」
「……全くだ。お前がシスティナ嬢に対してそうあってくれたなら、こんな事にはならなかった」
父上の言うとおりだ。あの時私がシスティナに会いに行けたら、謝れていたらこんな事にはならなかった。
取り返しのつかない事態になってから(せめて彼女の妹に尽くし、領主としてふさわしくあろう)と都合の良い言い訳を作り、マイシャを心の拠り所にした。
誘拐事件の時から、私は全然成長していなかった。
(システィナは……こんな私を見透かしていたのだろう)
今もこうして、失う危機に直面しないと自分の気持ちにすら向き合えない。
こんな私のところに、彼女が帰って来てくれるはずがないのだ。
自嘲しながらも、少し晴れた気分で立ち上がると、
「ところでコンラッド……この事はマイシャに先に言ってあるのか?」
「いえ、これから説得するつもりで……」
「……早く行け。また間に合わなくなるかもしれんぞ」
「それは、どういう」
言っている意味が分からず顔を上げると、父上は呆れたような表情で息をついた。
「姉妹なら同じ事をするかもしれんだろう? 全く、こういう時にそういう所に気が回らんようでは先が思いやられるな……」
父上の重いため息を背に、私は部屋を飛び出した。




