第47話 取引相手の危ない私情
ライゼル卿は私に気づくと姿勢を正し、胸に手をあてて一礼しました。
「夜分に男一人で淑女の部屋を訪れるのはマナー違反……ただ、どうしても二人きりでお話したい事がありましたので。よければ、これから少し夜風に当たりませんか? バルコニーにお茶と肩掛けを用意してあります」
非礼を詫びた上で部屋の中で話したい、ではなくバルコニーへの招待。
邪な話ではないと判断できます、が――
「……失礼ですがライゼル卿、奥様は?」
「ご安心ください。私にはまだ妻はおりません」
「あら……そうでしたの」
ライゼル卿の返答は意外な物でした。
この方がメルカトール家と縁がある私達と誠実な契約を結んだのは、既に奥様がいて、マイシャの事を吹っ切っているからだと思っていましたから。
夕食の際、食堂に奥様らしき方がいなかったのも(平民と食事を共にする事を嫌がられたのでしょう)と思い込んでおりました。
「……これだけ見事な館と多くの部下を一人で統率するのは大変ではありませんか?」
全く安心できる要素が無かったライゼル卿の返答に嫌な予感がして話を広げると彼は困ったような苦笑いを浮かべ、頬を掻きながら照れ臭そうに呟きました。
「……お恥ずかしい話ですが、私の心は叶わぬ恋に溺れておりまして。貴方の艶やかな銀色の髪と目の色は、その方によく似ている……アーティ卿の従姉妹と聞いて納得しました」
(……ここは知らぬ存ぜぬを通すより、少し踏み込んだ方がいいでしょうか?)
嫌な予感が一層強まりますがライゼル卿が今、マイシャやメルカトール家の事をどう思っているのか――それだけでもここではっきりさせておいた方がいいでしょう。
小さく息を吸った後、少し眉を下げて口角をあげます。
「ライゼル様……私、システィナ様と文通していました。ですのでマイシャ様の婚約者候補に貴方の名が挙がっていた事は存じております」
「ああ……私はシスティナ嬢と面識はないのですが、とても麗しい方だったそうですね」
お互い面識が無かった事を感謝します。もしシスティナとしてこの方と顔を合わせていたら、従姉妹という嘘が通用しなかったかもしれません。
「システィナ様との文通は彼女の誘拐事件以降途絶えてしまったので、貴方とマイシャ嬢がどうなったのか分からず……商談の際は試すような物言いをしてしまい、申し訳ありません」
「いいえ……あの場には周りに人もいましたし、むしろここで打ち明けてくださった事に感謝します」
隠し事を打ち明けて肩の力が少し抜けたところに、ライゼル卿から手が差し伸べられました。
「メルカトール家の縁者である貴方には、私とメルカトール家の今の関係も含め、色々お話ししておきたい事がございます……どうか、今しばしお付き合いくださいませんか?」
絶妙に気になる話題を持ち出してきたライゼル卿を前に、断る理由は何処にもありませんでした。
夜空で淡く輝く青白い星とそれを囲う様に満天の星が見えるバルコニーの中央には大きなガーデンテーブルと、対になる椅子が2つ置かれていました。
テーブルの傍には日中私達を客室に案内してくれた執事の男性が立っており、彼は私達を確認するなりお茶の準備を始めました。
椅子にかけられた肩掛けを羽織り、座ったタイミングで温かいお茶が置かれます。
一言お礼を言うと執事の男性は深く頭を下げた後、私達から離れました。
「あまり他人に聞かれたくない話ですので、防音障壁を張らせていただきます」
ライゼル卿の右手にうっすら魔法陣が浮かび上がった後、半透明の緑がかった水色の半球体が私達の周囲を囲いました。
防音障壁――念話が使えない者と内密な話をする時によく使われる魔法です。
この障壁にいる限り、私達の会話が外に漏れる事はありません。
「先ほどの話の続きになりますが……システィナ嬢の誘拐事件が起きた事で、私とマイシャ嬢との縁談は保留になりました。状況的に強引に推し進められるはずもなく、こちらも丁度忙しい時期だったという事もあって様子見していた所、メルカトール家から<マイシャ嬢とアドニス伯爵令息の婚約が決まった>と、私に一方的に謝罪の手紙が送られてきたのです」
「それは……お気の毒な……」
「ええ……向こうからすればまだ顔合わせをした事のない者からの縁談など、謝罪の手紙一通で済むと思ったのでしょう。私も、これが政略的な物であればそういう物だと諦める事が出来たのでしょうが……納得できない私はすぐにメルカトール邸に向かいました。そこでパーシヴァル卿とアーティ卿から、マイシャ嬢は亡くなったシスティナ嬢の為に嫁いだのだと説明されたのです」
「まあ……」
何度聞いても、全く理解できない理由だこと。
仮に私が本当に亡くなり、天に上がる前に後の顛末を知ったら――私はマイシャとコンラッド様を呪い、悪霊と化したでしょう。
私の命を繋ぎ止めてくれた伯父様にはいくら感謝しても足りません。
冷めた感情を温めるようにお茶に口をつける間に、ライゼル卿は言葉を続けます。
「マイシャ嬢はとにかくアドニス家の資産で豪遊して、食い潰す……その際、パーシヴァル卿から、『そのうちアドニス親子があの子に愛想を尽かして離縁するかもしれない』と仰っていました」
「そうですね……気づかぬうちに散財されて、気が付いた時にはもう手遅れ……そんな馬鹿な人間に領主など務まるはずがありませんから」
「その通りです。ですのでマイシャ嬢がアドニス邸を追い出された後、受け皿になる者が必要だと思ったのです。幸いここはアクアオーラ領。ラリマー領の都市領主の影響は然程ありませんし」
「…………え?」
私の戸惑いの声はソーサーに置いたティーカップの音にかき消されたのか、彼の耳には届かなかったようで。
「なので、パーシヴァル卿にマイシャ嬢の離縁の気配を察した際は連絡をくれるよう伝え……早い物でもう1年半が過ぎようとしています」
「あ、あの……お待ちください。マイシャ様には既に子どもがいらっしゃるのでは……!?」
異常な流れについていけず咄嗟に現実を突きつけると、ライゼル卿は視線を落とし、
「そうですね……結婚式の幸せそうな写真も見ました。そして子どもも産まれ……今や二人目も宿していらっしゃるとか。コンラッド卿は人当たりの良い優しい方ですから、マイシャ嬢も心変わりしているのかもしれないと頭では分かっているのです。ですが、それでも……もしかしたら、という想いが消えないのです」
そう訴えるライゼル卿の声は微かに震え、目も潤んでいました。
全く冗談を言っているようには見えない彼を前に、改めてマイシャの心情を推測してみます。
確かに婚約当初こそ家の為、姉の為と気負い、コンラッド様と過ごすうちに彼を愛するようになった――あり得ない話ではありませんが、もしそうなら家や私に対して罪悪感もあるはず。
ですが、あの結婚式の写真やアーティ兄様から聞いた限りではそんな罪悪感、微塵も抱いているようには見えませんでした。
それに、私に汚名を被せたアドニス伯と私を捨てたコンラッド様に、どんな形であれとにかく痛い目を見てほしい、と思ったお父様の想いは理解できますが――アドニス家の資産を食い潰して豪遊する事がメルカトール家と私の為になる、というマイシャの思想は本当に全く理解できません。
私が愛した方と結婚して子を成す事が、どうして私の為になるというのでしょう?
それはあの方が私を捨てた悲しみの上に、大切な妹があの方と体を重ねて子を成す事の悲しみを被せるだけの、拷問にも等しい行いだというのに。
マイシャの言葉は自分がコンラッド様と結ばれたい、だけど悪者にはなりたくないが故に周りについた浅はかな嘘――そう思えばまだ理解できます。
ただ、それ以上に目の前の男――他の男に嫁ぎ、子も成している幸せそうな女性をずっと待ち続けるライゼル卿の思考が全く理解できません。
マイシャのように自分に都合の良い嘘をついている、という推測も出来ないのが厄介です。
私に心情を打ち明けても好感度が上がるどころかマイナスにしかならない――それは彼自身が一番分かっているでしょうから。
「……ライゼル様は本当にマイシャ様に恋焦がれていたのですね」
「ええ……交わした言葉は少ないのですが、私の心は彼女に奪われて、今なお溺れています」
パーティーで華やかに可愛らしく咲き乱れるマイシャの姿はそれはそれは多くの殿方を魅了していました。
ただ――その魅力で誰でも彼でも惹きつければいい、というものではないという事をマイシャに分からせてあげられなかったのは姉として不徳の致すところです。
こうして、婚約が決まった女性の館に押し掛けたり、相手が子を成した後も変わらず想い続けるような不幸な人を生み出してしまったのですから。
私が次にかける言葉を慎重に探っている間に、ライゼル卿は気を良くしたのか改めて微笑みを浮かべました。
「今回……いえ、四節前に貴方と会う事が出来て本当に良かった。マイシャ嬢の結婚以降メルカトール家と関わる事が無く、手紙も来ないのでどうしたものかと思っていたのです」
離縁の気配がない以上、お父様はライゼル卿に手紙の出しようがないでしょう。
諦めた方がいいなんて手紙を送ったらまた館まで来られそうですし。
「スミフラシの布をきっかけに再びメルカトール家と接点を持てれば、マイシャ嬢の様子も確認できる。パーティーで話すきっかけにもなる……良い事ずくめです」
マイシャはもう《《嬢》》ではなく《《夫人》》なのですが、と訂正する気さえ起きません。
今この状況でライゼル卿に激高されても困りますし。
「……もしかして、契約祝いは」
「あれは私にとって最高の契約が出来た事に対する、私的な感謝の現れですよ。あの平民の子が持っていた最上級の細工道具6つと村人達分の揚げ菓子、明日までにきっちり用意させて頂きます」
上機嫌で語るライゼル卿は一旦そこで言葉を切ってお茶で喉を潤した後、再び言葉を続けました。
「その代わり、と言っては何ですが……貴方には是非、私とメルカトール家の橋渡しをして頂きたい。私に対して色々思う所があるだろうパーシヴァル卿やアーティ卿……ひいてはマイシャ嬢との仲を取り持っていただきたいのです」
なるほど、かなり癖の強い方ではありますが私情と契約は別物ときっちり割り切られている辺り、相当頭の切れる方のようです。
そして現時点でこの方がメルカトール家に怒りや恨みを抱いていない事も分かりました。
ですが、これから先、何がきっかけで怒りや恨みを抱かれるか分かりません。
お父様や兄様はともかく、マイシャやコンラッド様にはもう一切関わりあいになりたくありません。
しかし、既に正式な契約を結び色々と手配しているだろうライゼル卿とオルカ商会を前にそんな我儘を押し通せば、今後の見通しが真っ暗になってしまいます。
私情さえ飲み込めば、とても心強い味方になってくれるのは明らか、ですが――
(今更ながら、私……取引相手を間違えてしまったかもしれません)




