第23話 呪われているのは
貼り付けた微笑みとは裏腹に、家路につく足取りはズッシリと重く。
吹き付けてくる潮風の冷たさに肩を寄せながら、私はニアの為に自分に出来る事はないか考えていました。
脆くなっている心に少しでも触れてしまえば儚く壊れてしまいそうな、彼女の精一杯の笑顔。
そんな笑顔を浮かべる人間に的確な励ましの言葉をかけられる人間など、そうはいません。
同じような傷を抱えている私ですら、ニアに無難な言葉しかかけてあげられませんでした。情けない話です。
(……きっと父様や兄様も、こんな気持ちだったのですね)
大切であればあるほど、冷静な人間であればあるほど、不用意な発言で相手を傷つけてしまう事を恐れ、口を閉ざしてしまうのでしょう。
深く傷ついているニアを目の前にして、過去の私を腫物のように扱った家族達の気持ちが痛い位に分かりました。
ただ――ニアは強い子です。ちゃんと前を向いていました。
時間が彼女を癒し、そう遠くない内に立ち直って前を向けるでしょう。
ですがまだ10歳にもならない子が、未来を諦めざるを得ないこの状況がとてももどかしくて。
私は、本当に彼女に何もしてあげられないのでしょうか?
気の利いた言葉をかけてあげられないからといって、それでお終いにしたくありません。
(……あの位のシミなら、お化粧道具があれば……)
スミは頬にベッタリと着いた訳ではありません。飛沫を受けたかのように点々と着いていました。
鮮やかな青は確かに目を引きますが、あの程度であれば白粉やくすみ消しを使えば目立たないようにできるはずです。
(……ただ、安く質の悪い化粧道具には、体に害を及ぼす物も含まれている事があると聞いています。そんな物を使わせる訳には……ですが、高価な化粧道具となるとお金が……あら?)
丁度灯台が見えてきたところで、良い匂いが漂ってきました。
歩みを止めて辺りを見回すと、岩場近くでリュカさんがリュルフと一緒に背を向けています。
どうやら魚を焼いているようです。彼の後ろからあがる白い靄が風でこっちの方に流れていました。
既にお昼近い時間という事もあり、香ばしい匂いに食欲がそそられます。
早く家に戻り、伯父様が作っておいてくれた保存食を食べようと歩みを再開すると、空から甲高い鳴き声を響きました。
見上げると、リュグルがリュカさんの方に飛んでいくのが見えます。
「えっ、あっ、ステラさん……!?」
リュグルは私がいる事をリュカさんに伝えたようで、その一鳴きでリュカさんが立ち上がってこちらを振り返りました。
そして明るい笑顔でリュグルとリュルフと一緒にこちらの方に駆け寄ってきてくれたのですが――いつもと同じくらいの距離間で立ち止まった時には、その笑みは消えていました。
「どうした……?」
「え……私、今、暗い顔をしてますか……?」
心配かけないよう、いつも通り微笑んでいたはずなのですけれど。
「暗い顔はしてないけど……何かちょっと危うい感じが出てる」
上手く表情が取り繕えていた事は良かったのですが、変な物が出てしまっていたようです。
危うい感じとは一体どんな感じなのか――声を紡ぐ前にリュカさんが言葉を重ねました。
「丁度、もうすぐ鍋が出来るんだ。良かったら食べていかないか? 元気ない時は美味しいもの食べるのが一番だ」
気遣われる事自体は嬉しいのですが、そこまで気を遣わせるのは心苦しくもあり。
断ろうと小さく口を開くと――リュカさんもリュグルもリュルフも皆、必死な目で訴えて来ていて。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
断る方が心苦しくなる気がして頷くと、リュカさん達は慌ただしく元々いた場所へと走っていきました。
リュカさんが毛皮を敷いてくれていた場所に座って鍋を見てみると、グツグツと音を立てるお湯の中で魚の身や一口サイズに切られたお肉が煮え滾っています。
(そういえばリュカさん、食事は自分で釣った魚や近くの森で狩った小動物を焼いて食べてるって言っていましたね……)
狩ったのは魔獣かも知れませんが、裁いたり刺したりしたのは間違いなくリュカさんでしょう。
感心しながらリュカさんに視線を移すと、彼は木製の大きなスプーンで鍋をかき回す鍋に集中しているようで話しかける気になれず。
(……出会った頃に比べたら、大分近寄れるようになりました)
2メートルないと駄目だった距離感も、今では1メートル程の距離――自然な距離で話せるようになりました。
今ではリュカさんの顔もしっかり見る事が出来ます。
リュカさんを見るとまず真っ先に紋様に目を引かれますが、とても整った顔立ちの方です。
優しさを感じる鮮やかな朱色の目と、いつだって明るい雰囲気を絶やさない彼はとても温かくて。
ずっとこの村にいるのでつい旅人である事を忘れてしまいがちですが、一人で旅をするからにはこうして料理や洗濯も一人でするのでしょうし、賊や魔物に襲われた時に戦う事だってあるのでしょう。
今は毛皮や厚い衣服を纏っていて見えませんが、夏の軽装の時は逞しい体の所々に古傷のような物も見えました。
「あ! ステラさんも食べるなら、あれ入れようかな」
リュカさんはそう言うとすぐ傍に置かれた革製のポーチから手の平の乗る程の小さな壺を取り出し、木べらで赤茶色のペーストを掬って鍋の中に入れました。
ペーストが入った鍋はあっという間に泥のように濁っていきます。
「そ、それは……?」
「ソイペーストだよ。豆とか木の実とか香辛料を刻んで発酵させた調味料。見た事ないか?」
「ええ……私は料理しませんから……」
料理はスミフラシのスミが付いた魚や貝などの処理もあるからと伯父様に言われて、任せきりです。
「そっか。アクアオーラの首都で見かけたから、ここにもあるのかなと思ってたけど……同じ調味料でも、作る場所で味も風味も結構違うんだ。これがステラさんの口に合うといいなぁ」
リュカさんから笑顔で差し出された器を受け取ります。
肉と魚が浸かる、脂が浮いた泥水のような見た目――ですが、漂う香りはとても美味しそうです。
目を閉じてそっと器に口を付け、少しだけ口に含んでみると、口の中に一気に温かさとコクと甘みが広がりました。
「これは……独特な味ですね。でも……美味しいです」
これまで飲んできたスープの中でもだいぶ濃厚で、香りも良いものです。
その上、微かにピリッとした辛みもけして不快な物ではなく、食欲をそそるもので。
色々乱雑に入れた鍋のように見えて、ちゃんと味がまとまっています。
正直、リュカさんがこんな美味しい物を食べているなんて意外でした。
「俺、これで作る鍋が一番好きでさ。君も気に入ってくれて良かった」
「ええ、でも……何故でしょう? 何だか体が熱くなってきました。この冷たい風が心地よく感じる位……」
「ああ、この汁に浮いてる赤い輪っかが体を温めてくれるんだ。レッドフープって言うんだけど、入れすぎると胃が荒れる特徴もあってさ。でもこのくらいの量なら美味いし温まるし、胃も荒れない」
「え……まさかこの調味料、リュカさんの手作りですか……!?」
「ああ。食事って毎日するものだから美味しい物の方が良いだろ? 自分にとって美味しい物は自分で作るのが一番確実だし」
リュカさんの言う通り、食事は生きる上で欠かせないものです。美味しい物の方が良いに決まっています。
弾力のあるお肉や、ほろりと実が崩れる魚は臭みも無く、滲み出る脂もスープによく馴染んでまろやかです。
見栄えこそ上品とは言えませんが、美味しい上に体も温まり、しっかり栄養も取れる――旅人ご飯、奥が深そうです。
久々に美味しいと感じる具沢山のスープをすっかり食べきると、先に食べ終えていたらしいリュカさんが嬉しそうにこちらを見ていました。
「元気になったみたいで、良かった」
「リュカさんのお陰です……本当に、リュカさんには励まされてばかりですね」
「良かったら、何で悩んでるのか教えてくれないか?」
「お気持ちは嬉しいのですが……リュカさんにそこまでご迷惑をかける訳には……」
「……き、君は俺の命の恩人だ。困ってる事があれば力になりたいんだ」
「命の恩人……」
命の恩人の力になりたい、と思う気持ちはよく分かります。
私も今では助けてくれた伯父様に感謝の念しかありません。
教師をしているのも伯父様の力になれれば、という気持ちが強いですし。
もし命の恩人が何か悩んでいて、その悩みを打ち明けてくれなかったら寂しいです。
リュカさんにあまり迷惑をかけたくないけれど、そんな思いをさせたい訳でもありません。
(それに……リュカさんに話してみたら何か助言を貰えるかもしれませんし……)
――少し悩んだ結果、私はニアの事を伝えました。
言葉に詰まりながら話す私の言葉を、リュカさんは静かに聞いてくれました。
「この村で一生を終える人達を否定するつもりはありません。ただ……あの子は都市に憧れて、一生懸命勉強していたのです。なのに全てが台無しになってしまう事が悲しくて……何かしてあげられないかと」
「大変なんだな……顔に一生残るシミができたくらいでそんなに生き方が制限されるなんて」
「そんな言い方……」
予想外の暴言につい軽蔑の視線を向けると、リュカさんは慌てた様に首を横に振りました。
「ああ、ごめん! あのさ、俺がいた村はよく魔物や賊に襲われる所でさ。魔物に襲われて顔面や体に傷を負ってる人間なんて珍しくもなんともないし、腕とか足とか無い奴だっていたけど、それで差別する奴なんていなかったんだ」
リュカさんの価値観に私は驚きました。
顔面に傷を負っても、何の差別も無い――それは私が知っている世界ではありえない事だったからです。
「……でもさ、旅してるとこの紋様を気味悪がって馬鹿にしてくる奴らと結構遭遇するんだ。リュルフ達を汚物を見るような目で見る奴だっていた。街とか、都市とか、平和な場所であればあるほど、そんな奴らが大勢いた」
リュカさんが重ねた言葉に、返す言葉が思いつきません。
私は貴族社会でそういう人間を多く見ているから、否定できないのです。
『それの何がおかしいの』なんて肯定する事も出来ない中、リュカさんの言葉は続きました。
「そんな目を向けられるのは俺だけじゃなくてさ。貧しい人達やボロボロの服を着てる子ども達が蹴られてたり……俺がいた村も仲の悪い奴らがよく喧嘩してたけど、大人が子どもを蹴るなんて事はなかった。だから見てられなくて止めに入ったら、逆に子どもから怒られたんだ。『ここにいられなくなるから止めて』って」
そこで言葉を止めると、空を見上げて長いため息を付くリュカさんに私は何も言えませんでした。
「……俺にはよく分かんないけど、安全で傷つかない場所にいたら、段々他人の痛みに鈍感になっちまうのかなって。旅は楽しいけど、そういう、納得できない物を見た時は凄く嫌な気持ちになる。ここは呪われた村なんて言われてるけど、俺からしたら都市って言われてる場所の方がよっぽど呪われてる。だから、その……ニアちゃんが都市に行けなくなった事を、そこまで悲観しなくてもいいんじゃないかなって思ったんだ」
リュカさんの言葉はとても客観的でした。
この村の人達はニアが都市に出て酷い目に合う可能性なんて考えなかった。
外の冷たさを知っているリュカさんだからこそ、そんな風に考えられるのでしょう。
ティブロン村の人達の中には、ニアのように顔にシミがついている人も珍しくありません。
でも彼らはそれを気にした様子もなく、平然と過ごしています。
ニアもシミが着いたからって村の中で虐められたり、差別されたりという事はないそうで。
ニアはただ、都市には出られないという現状に傷ついているだけです。
その現状が――目指していた未来が閉ざされた事が何より辛いのですが。
「リュカさんの考えも……一理、あると思います。ですが……ここには未来が無い。このままではいずれこの村は廃村になってしまいます。だから余計、頑張っていたニアが不憫なのです」
「……ステラさんは優しいなぁ」
リュカさんの穏やかな言葉が、己の無力感を煽ります。
「……優しいだけでは、何の力にもなれません。リュカさんのような強さもない。良い化粧道具を買ってあげられるお金もない……こうしてただ嘆く事しかできない」
「そんな事ない! 君は俺を助けてくれただろ……!? そう、君は魔法が使えるんだ。子ども達に学問だって教えてる。君は優しいだけの人じゃない……!」
「リュカさん……」
「お、お、俺は……俺は、そんな君が」
「クシュン!!」
リュカさんが必死な顔で何か言いかけた、その時――リュカさんでも私でもない第三者のくしゃみが響きました。




