第22話 途絶えた夢
リュカさんと話すようになって、半節程。
涼しいと感じていた風が、一層冷たくなってきました。
桃の節になると雪が降り始め、海にも潜れなくなるそうで。
村人達は長い冬を越す為の準備で色々忙しいそうです。
保存食を作ったり、防寒具の手入れをしたり、家を修繕したり――そんな事情もあって、せっかく授業に参加してくれたゴーカとムトは来なくなってしまいました。
そして、今日もまた一人――
「家の隙間を埋める為の板も、板を作る為の木を切るのも追い付かねぇから、手伝えって言われてて……俺が一番馬鹿で勉強しないといけねぇのに、ごめん、先生」
申し訳なさそうに頭を下げるサンチェを引き止める事はできませんでした。
この村の家は隙間風どころかそのまま風が通り抜けていきそうな、今にも崩れ落ちてもおかしくない家が多く、これから厳しい冬が待っているのなら絶対に補強した方が良いです。
それにしても――妹に言伝を頼んでもいいのに、わざわざここまで挨拶に来てくれたサンチェ。
勉強の進捗はなかなか進みませんが、授業を楽しんでくれていたのが伝わってきます。
また春になったら来てね、とサンチェを見送った後、イチルとヨヨに向き合います。
「サンチェは大人達に必要とされてて良いなぁ……俺なんて、いても何の役にも立たないから、冬もここに泊まらせてもらって勉強して来い、なんて言われてるんだぜ」
「お、お兄ちゃん、すっごく力持ちなの……イチルもいい所あるの……」
「そうね、サンチェは大分体つきもしっかりしてきたし……でもイチルもすぐに大きくなって力持ちになるわよ」
「いや、俺は力持ちより頭良くなりたい」
イチルはきっかけがあればやる気を出すタイプのようで、ここ半節は特にやる気を出しています。
最初は恥ずかしいと言っていた音読も、最近発音がおかしくないか確認してほしいと自ら言い出しましたし。
ヨヨも絵本の文字をしっかり覚えて、本を見なくても文章を覚えているほどです。
ヨヨやニアにはそろそろ絵本だけではなく本を読ませたり、紙に文字を書かせたりしたいのですが――
「そう言えば……ニアも最近来てないけれど、お手伝いで忙しいのかしら?」
ニアは以前、具合が悪いと休んだきりここには来ていません。
具合が悪いのが続いているのなら治癒師《伯父様》の所に来るはずですが、そんな気配もありませんし。
この時期、女の子は保存食作りの手伝いをするそうなので、兄弟が多い彼女も春まで来ないのかしら――
そんな軽い気持ちで聞いたのですが、イチルもヨヨも明らかに表情を曇らせました。
「あー……えっと、ニアは……」
「……ニア、もう来れないの」
「え?」
ヨヨの呟きに問い返すと、ヨヨは押し黙ってしまいました。
イチルの方に視線を向けると彼は諦めた様に頭を掻いて、視線をうつむけます。
「……あのさ、ニア、最初に休んだ日、浅瀬で足滑らせて、スミフラシのスミ、顔にかかっちゃったんだよ」
「まあ……」
一度着いたら落ちない、スミフラシの体液――この村が呪われた村と言われる原因です。
それが手袋や靴で隠せる手足に着くならまだしも、顔となっては――
「……ニアの母ちゃん、こんな顔になっちゃったらもう都市で雇ってもらえるはずがない、勉強しても無駄だって……」
ニアは兄弟が多く『一人くらいは都市に出て仕送りなりしてくれた方が生活が楽になる』という親の考えで通っていました。
自分が都市に出て、村の嫌な噂を払拭して、その後は都市でいっぱい稼いで家族に仕送りしたい――そう言って微笑む、学ぶ事も恋の話も大好きな優しい女の子だったのに。
「あのさ、先生……そんな顔しないでくれよ。俺達はちゃんと通うから」
「うん……ヨヨ、ニアの分まで頑張るの。先生が教えてくれた事、絶対無駄にしないの」
子ども達はニアの事をけして他人事だと思っておらず、ニアの為に一層頑張ろうとしているようです。
そんな子ども達に心配される自分が情けないと思いつつ、灯台と家の往復しかしない自分を歯がゆく思いつつ、その日の授業を終えました。
翌朝――ニアの家に足を運んでみる事にしました。
何も言わずに来なくなってしまった事が寂しく感じた事もありますが、少しでも彼女に前向きになれる言葉をかけられたら、と思ったのです。
ですが家に近づくにつれて(そんな魔法のような言葉なんてない)と過去の私の絶望が心を覆います。
それでも――何もせずにはいられなかったのです。
せめて少しでも心癒せるものがあれば、とニアが好きだったお姫様と騎士の絵本を抱えてニアの家の前に着くと、丁度ニアが家から出てくる所でした。
「先生……? どうしたの?」
「ニアが急に来なくなっちゃったから、心配になったの」
「あ……ごめんなさい、あの……」
「……ヨヨから聞いたわ」
とっさに左頬を隠すニアに全部知っている事を告げると、ニアは無言で手を下ろします。
涙を溜める左の目元から頬にかけて鮮やかな青いシミのような物が点々と着いていました。
そのシミを少しでも隠そうと髪の毛を寄せているのがとても可哀想で――心が締め付けられるように痛みました。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るの? ニアは何も悪い事してないわ」
「だって、先生が一生懸命教えてくれたのに……あたし、無駄にしちゃった。お父さんからもお母さんからも、村長や先生があたしにどれだけお金や手間をかけてたか、教えられて……」
ニアの微かに震える声に心が一層痛みました。
イチル達の舌が青に染まってないのは、冬の間スミフラシと同じ栄養がある果物を食べているからです。
その果物はラリマー領では珍しい物ではないのですが冬の間、ティブロン村の子ども達に食べさせる分、大量に必要とします。
イチル達だけに食べさせては他の子ども達から不平不満がでるからと、村の子ども達全員の分を――
お金は確かにかかっています。そこを否定する事は出来ません。
ですが、今のニアの言葉で私が否定できる事が1つだけあります。
「ニア……私は、貴方達に教えるのが手間だなんて思った事ないわ。無駄だったなんて思ってない」
「……せんせぇ」
今にも零れそうな涙を堪えているニアと視線を合わせて、穏やかな声で呼びかけます。
「貴方はとても物覚えが良くて、どんどん覚えてくれるから、教えてて楽しかったわ。それに私がサンチェに教えてる時、他の子が分からない所とか代わりに教えてくれて、ありがとう。今日はそれを伝えに来たのよ」
感謝の気持ちを込めて伝えると、ニアの目から涙がポロポロと零れました。
幼い子をあやすようにそっと抱きしめると、ニアはギュッと抱きしめ返してきました。
そして、ニアの家の方を見ると、入り口でニアのお母様らしき人が立っているのが見えました。
小さく頭を下げると向こうも小さく頭を下げた後、家の中に戻ってしまいました。
今、ニアを私から強引に引き戻す事だってできたのに、そうしなかった――とてもありがたい事です。
しばらくするとニアは自分から離れました。
「ねえ、ニア……例え都市に行けなくても、学ぶ事に全く意味が無くなる訳じゃないわ。物質浮遊や治癒を使えるようになれば、村にいなくちゃならない存在にだってなれる。貴方の気が向いた時に、いつ来てもいいから」
「……ありがとう、先生。でも……しばらくは行けそうにない」
「どうして? 村から出られなくても、ニアなら良い治癒師になれるわ」
「……イチル達が一緒だと、あたしだけ村から出られないんだな、って思っちゃって、苦しくなるから……あたし、イチル達に嫌な顔したくないの」
ニアのとても大人びた、優しい思考に言葉が詰まります。
こんなに、自分の感情と向き合って誰も傷つけない方法を取れる良い子なのに。
この子が大切な物を諦めないといけない事に、どうしようもない歯がゆさを感じます。
「先生、あたしがいなくなっても大丈夫だよ……! イチル達には私の分も頑張って勉強してって伝えてあるから! ヨヨは頭良いし、イチルだってやれば出来るんだから! サンチェ達だって頑張ってるの、先生も知ってるでしょ?」
「……そうね、皆、頑張ってるわ」
鼻をすすって微笑むニアに、私は持っていた絵本を差し出します。
「ニア……この本を貴方にあげる。しばらくなんて言わないで、また学びたいなって思った時とか、他の絵本が読みたくなった時はいつでも来て。午前中なら誰もいないし」
「……うん」
子どもの精一杯の強がりを崩すような事はできず、私も笑顔を作って伝えた後、その場を離れました。
私を見送ってくれるニアは最後まで、笑顔でした。
今にも崩れてしまいそうな、儚い笑顔でした。




